セッション1 現実の向こう側
ひそひそした、おしゃべり声が聞こえた。
「聞いたかよ。『コロハン』、期待してたのにルルブとリプレイからして食い違いまくり。めちゃくちゃっぽいぜ」
「うん、知ってるよタイラくぅん。なんかぁ、5ちゃんねるのスレッドとかでもぉ、超絶クソッカスにディスられてんしぃ」
「だな。マジ期待してたっつうのによ。くそ、くそっくそ。馬鹿馬鹿しい~。はあ……」
噂だけで判断するなんて、頭が悪いヒトたちだとゴウスケは思った。
揺宮ゴウスケ。大学五年生の21歳。――四年制大学なのに五年生になってしまったのは、彼が留年したからだ。
「お待たせ致しました。ミックスサンドと、日替わり得々ランチになります」
「あ~、サンクスチョキ」
「……ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「よいよ、よいよ。完ぺき花丸パン」
「ごゆっくりどうぞ」
タイラという名前らしい男と、青髪女――染めているに決まってる。入店時に受け付けをしたゴウスケはそう苦々しく思った――に女性店員が愛想よく対応した。
「サナさん、マジお疲れ」
「えっ。いえ……。別に疲れてないですけど」
「あっ。だっ、だよね?」
「トイレ掃除してきます」
「えっ、と。そっ、そうだ。俺もドリンクバー点検しねえと」
ゴウスケは今、ネットカフェでアルバイトをしていた。
そして、そんな彼が会話している相手はサナという名の女性アルバイト。タイラたちを接客していた女性店員こそ彼女だ。
諸水サナ。
おっちょこちょいのゴウスケとは違い、今年で大学を順調に卒業する。現役生であり当然、ゴウスケより年下だ。
「おじ、……。揺宮先輩はそこにいてください。注文が1階から上がってきたら、お客様が困ると思います」
「あ、そだね。了解ッ」
「失礼します」
ビジネスライクに対応したサナは、ゴウスケが立ち尽くしている横をすり抜け、2階カウンターからトイレに向かった。
無論、トイレ掃除をするためだ。
「偉いなあ、サナちゃんは」
つぶやきながらゴウスケは、あることに気付いた。
「おじ。……おじさんとか、おじいさんとか、か」
ゴウスケは留年しているので、サナのように普通の学生からは見下されているはずだと考えていた。
そして「おじ」とサナが言いかけたのを、ゴウスケはそういった理由から来る悪口の途中なのだろうと解釈した。
「現実なんてやめたいよ」
「おい」
「そして空を眺めながら、のんびりゆったり……」
「おい、を1回で聞き取れよゴミ」
「えっ。あ、お、お、お、お客様!」
タイラはゴウスケの目の前にいた。
ゴウスケには気配が感じ取れなかったので、声は個室から聞こえてきた独り言か何かだと思い込んでいたようだ。
しかしタイラにとっては、無視されるのは嫌がらせに違いない。
「おら」
「あ、DVDをお返しされて頂き、誠にありがとうございます」
「おう。ただ、お返しされてって日本語が変。で、言葉がナッゲぇ」
「ナッゲぇ、とは何でございますでしょうか?」
「ぶっちゃけ今のソレな。じゃ」
タイラはカウンターから去って行った。
タイラと青髪女が入店してきて、そろそろ二時間。通常料金ならば退出時間が迫っていた。
「意外と計画的なんだな。タイラとかいう人」
それから洗い物をしながらゴウスケは「ナッゲぇ」の意味を考え続けた。
ナッゲぇ。なげえ。
「なげえ、か。長いってことかあ!」
ゴウスケは閃いたことが嬉しくなった。
そこでちょうど、ミックスサンドと日替わり得々ランチが絶妙なバランスで狭い部屋を昇ってきた。「ミックス1、ランチ1上げま~す」と1階キッチンのベテラン店員が無線ごしに言うのが聞こえたからゴウスケには、それが分かったのだ。
「あれっ。あの人たち、計画性ゼロじゃん」
ゴウスケがつぶやいた。
まさかタイラたちが残り数分で食べきるわけもないはずで、彼は自分以外にも世の中には無計画な人間がいるんだと笑いそうになった。
「『コロハン』。もしかして、それって……」
「ゴウスケくん。もう上がる時間じゃない?」
「あっ、タカザワさん?」
先ほどのベテラン店員――タカザワという名字としかゴウスケは覚えていない――の声がした。
それは無線を通じてでなく、2階に直接に上がってきての言葉だったのだがゴウスケは驚きはしなかった。
勤務時間超過はしばしば彼がしてしまうことで、それを無線で言うのが面倒なタカザワはゴウスケにそうして注意するのが半ば慣例となっていた。
「気持ちは分かるけど。気持ちは分かるけど」
「すみません、すみませ~ん」
タカザワにゴウスケは平謝りした。
タイムカードを基に給料は計算される。当たり前だ。
そしてタイムカードはアルバイトであれ働いたことがある人なら分かると思う。
つまり、そういうことだ。
「じゃあ、お先に失礼します。お疲れ様です」
「ぷん。2階下りるまで見張りするから、見張りだから」
「すみません、すみませ~ん」
「帰って。帰ってね~」
若干、気まずい空気にさせる力を持つタカザワに気圧されながらゴウスケは、その日のアルバイトを終えた。
「お疲れ様でした」
レジ打ちで忙しい先輩アルバイト――と言ってもバイトリーダーという少しだけ上の身分の人だ――は無言。
目線で「空気を読んでね」をされたが、うっかり人の状況を見ないで声を出してしまうゴウスケはそそくさと退散することにした。
「ふう」
疲れているのは、彼の何倍もの仕事量を同じだけの勤務時間でもしているバイトリーダーやタカザワであると考えられた。
しかし、不器用すぎるゴウスケは別種の疲れを抱えていた。
人間関係に対する疲れだ。
「……」
道ばたを、江戸時代でもないのに徒歩で移動。
自動車免許証は交付されたのだが無気力な期間があり、その間に自動車ごと没収されてしまったのだ。
「どうすんだよ、もう。人生に自動車免許証とワード・エクセルの経験は最低限は必要だってのに。俺、何してたんだろう……」
独り言だけは、ゴウスケの得意技だ。
彼は、とあるCランク大学生の工学部を留年した。何の取り柄もないまま、ギリギリ卒論に手を付けることだけは出来る状況に来ていた。
「厳しすぎるよ社会。俺、生まれついてのKYだよ……?」
現実は無情だ。
ゴウスケの独白に答える人間はいない。
やがて彼は帰宅した。
住まいは一般的な様式のアパート。
実家からでも頑張れば通えたが、彼は甘えていた。つまり甘えていたから留年したので「最近、発見したのだが手相が普通より悪い」という彼なりに見つけた人生の答えに耳を貸す者もほぼ皆無だ。
「……ふう」
ため息は独り言くらい、ゴウスケの得意技だ。
「そうだ。『コロッサルハンター』……」
ネットカフェでタイラが言っていた『コロハン』とは『巨獣討伐RPGコロッサルハンター』のことだとゴウスケは推測していた。
そして、奇遇にも彼も持っていたのだ。
単行本。
ごく小ぢんまりしたTRPG商品である『コロハン』あるいは『CH』と略される『巨獣討伐RPGコロッサルハンター』のルール、リプレイ、データなどが網羅された単行本が室内に置かれていた。
「つまらなくは、ないんだけどな。って、あれっ……?」
1人で複数分のキャラを演じ分けてリプレイを書こうという、病んだ計画のために膝関節より低い小さな机に置かれた単行本にゴウスケが触れた瞬間に、それは起きた。
ゴウスケを現実には、有り得ない光が彼を包み込んだのだ。
「何これェ?」
光に包まれたまま、彼の姿はアパートの室内から消えた。
ところでゴウスケは知らなかったようだが、最近『CH』には不思議な出来事が起きていた。
たくさんの人が『CH』に惹かれ、希望を送り込んでいたのだ。
その希望の行き先は日本。
しかし、現実の日本ではなく『CH』の世界にある日本だ。