奇縁
朝日がまだ赤みを帯びた光を運動公園のテントを照らし出していた。
青年はトレーラーの窓から差し込む朝日を合図に目を覚ました。窓の外では、数人のメンバーがちょうど見張りの交代のを終えたのか、昨夜青年を招き入れたうちの1人がテントに入っていくところが見えた。手早く寝袋を仕舞い、軽く濡らしたタオルで顔を拭く。
(抗争が始まる前に帰っておきたいが…)
歯磨きで口内に溜まった唾液を吐き出しながら、トレーラーのドアを開ける。上着の袖に腕を通しつつ、車外の点検に取り掛かる。
まだ、朝の薄靄が残る時間帯。朝食を作っているのだろう。2人の女性が大きめのなべを火にかけている他には見張りの数人しか起きていなかった。
拠点の外はシンと静まり返っている。門の外から、視線を戻した青年はトラックの足元を補強したスカートを一瞥して、ため息を吐いた。
「汚ったねえ…」
昨夕、群れから逃げ出す際に何体か跳ね飛ばした死体の血油がこびりついている。特に助手席側のフロントタイヤ付近に溶接された補強部分が無事か判別できないほどに汚れていた。
(昨日は動いたし問題ないと思うが…、こういうのは見つけた時にやらんと面倒になる。帰りもそれなりに距離があるし、途中で調子を崩すかもしれんし)
青年はめんどくさそうに足を引きずりながらトレーラーからボロ布と水の入ったボトルを取りに行くと。あくびを噛み殺しながら掃除を始めた。
やり始めると熱が入ったのか、丁寧にボロ布を巻きつけた棒に水をかけながら固まった血液を落としていく。血糊が落とされて顕になったのは補強部分からタイヤまで食い込み、タイヤに絡みそうな布のような何かだった。
「あー、もうめんどくせえ!」
早朝には幾分大きな声が出る。放置するわけにもいかず、異物の排除に取り掛かった。ポツポツと目を覚ます人が増えてきた。
作業中、朝食はいるかと中年の女性が訪ねてきた。青年はトラックの整備を終え次第出発しようと考えていたため、礼だけ言ってこれを固辞。耐久性を重視した補強部品のせいで著しく整備性が乏しい青年のトラックから血濡れのボロ布が取り除かれる頃には正午を回ろうとしていた。拠点の中では早速バリケードの補強をしようと、どこから持ってきたのか太い木材や野球ネットなどが積み上がりつつある。
(やっと終わった。飯はもうカンパンでいいか…)
整備に使った道具を青年が片付けを終えて手を洗っていると、入り口の方から声が上った。
「おい、向こうで火事みたいだ!煙が上がってる」
早朝の静けさから一転、拠点内に緊張が走る。青年もトラックに放り投げてあった双眼鏡をひったくり門へ向かった。
確かに煙が上がっている。青年の予想よりも早く抗争が始まってしまった。今出れば、巻き込まれる危険性が高い。
(一手遅かったか、なんでこうも裏目に出るんだ)
青年は心の中で悪態をつきながら延泊も覚悟した。
勝田が遅れて出入り口に到着する。先ほどまでバリケードの補強作業を指揮していたのだろう額に汗が浮いている。思ったよりも気楽そうだ。青年に気づくと、肩に手を置き話しかけてきた。
「よう。コンサルタントさん。今日も泊まってくかい?」
「やかましい。あれが抗争での火事ならお願いするかもしれん」
「賢明な判断だ。足の早い若いのを2人遠巻きから様子を見るように走らせた。報告を待つといい。お前さんのお陰で早くから対策を始められた。こっちに飛び火する前に準備出来る」
勝田は笑いながら、防壁用に引っ張ってきた金属パイプを指差す。バリケードの内側では、若い男たちがそれらを番線で補強していた。青年は軽く会釈してから、運動公園を歩いた。
拠点の中は、思ったよりも活気があった。定期的な探索をしているのだろう食料はそこまで少なくなさそうだ。子供たちはかろうじて無邪気さを失わずに遊んでいた。
そのうちの一人、4、5歳くらいの少女がなぜか青年の足元に転がってきた。
「いたた……」
「大丈夫か」
青年が無愛想に声をかけると、女の子はぱっと顔を上げ、くしゃっと笑った。
「おじさん、お店屋さんなんでしょ?」
いきなりのおじさん呼びに頬が引き攣るのを感じながら青年は返答する。
「……まあな」
「おかし、ある?」
「残念ながら、今はないな」
青年の反応に女の子は少しがっかりした顔をしたが、すぐにまた走り去っていった。その姿を見送った青年の緊張が少し和らいでいるのを実感した。
(こんな世界でも、子供は子供か。長く足止めされるようなら、追加の宿代として多少今ある在庫から何か提供することになるだろうな)
現場の様子を見に行った2人が返ってきたようだ。勝田が作業を抜け、報告を聞いている。青年は話を聞きに行かなかった。午後に入ってから時折、破裂音が青年の耳にも届いていたからだ。報告を聞くまでもないだろう。青年はトレーラーの中で小銃の点検を続けた。
(気が滅入る。こんなトラブル、いつぶりだ…?)
陽が傾き始め、手持ちぶさたになった青年は早めの夕食を取ろうと持ち込んだ缶詰を開け、味気ない食事で静かに時間を潰していた。
日が傾き始め、夕闇が公園を包み始めた頃だった。
拠点の出入り口が騒がしくなっていた。監視についていたメンバーの一人が、手を振って勝田を呼ぶ。青年もなんとなく気になって、トラックから降りて近づいていく。数メートル離れた位置に、手を挙げて立っている数人の男女が見えた。
彼らは武器を見せず、明らかに交渉を求める姿勢だった。
「誰か?」
勝田が警戒を隠さず誰何の声を張ると、リーダー格らしい男が一歩前に出た。歳は30前後、やややつれた顔立ちだが、目だけは鋭く生きている。肩幅も広い。
「俺たちは抗争とは関係ない。ただ、少しばかり……助けが欲しい」
男も声を張り上げ応えた。相手の後ろにの男女も手を上げ戦闘の意思はひとまずなさそうだ。拠点内の女性たちは子供たちに不安を与えないようにしつつも奥に引き下がった。
「話を聞こう」
勝田は短く言い、バリケードの外側、開けた場所で男と向き合った。見張のメンバーの手には力が入り、警戒は続いている。
「うちは小さいグループで、今朝がた始まった抗争中のグループとは無関係だ。だが、発電所の施設をあわよくばと思ってたのも事実だ。電気技師がいるもんでな。少し離れた避難所跡地を拠点にしてる」
「それで?」
「漁夫の利を狙いたい。支援してくれ。見返りは、俺たちが持っている情報、周囲の動向、物資の動き……それと、電気だ」
男の訴えに勝田は腕を組み、しばらく考えた後、青年にちらと視線を送った。
青年は嫌な顔をしながら目を逸らしたが、勝田が近づいてくる。男に聞こえないように勝田に話しかけた。
「なんで俺なんだ。メンバーに聞けよ」
「そう言うなよ。延泊は確定だろ?なら追加の宿代としてまたコンサルしてくれ。1日2食も出す」
青年は少し考え、答える
「わかったよ。奴らの話は正直悪くない話だ。うまくいけば労せず電気が手に入る。いい関係を築ければ…だが。とにかく今はバリケード完成までの抗争の膠着による時間、それに情報が必要だ。だが、信用しすぎも危険だ。協力体制は限定的なところに止めるのが無難ってところか」
一息に言い切った青年の意見に概ね同意するかのように勝田は頷くと、また勝田は声を張り上げた。
「いいだろう!ただし、うちの拠点への受け入れは無しだ。あんたらを信用できるまで人も貸さない」
勝田が答えると、男はさらに一歩近寄った。男と勝田は探り合うようなぎこちなさのうかがえる握手を交わした。男が名乗る。
「私は高野だ。他に9人いる」
「勝田だ。いい関係が作れればありがたい」
その夜、勝田たちは余剰の保存食と水、少量の燃料を男たちが乗りつけたミニバンに積み込んだ。バリケードの強化も夜通し行うようだ。時間を持て余した青年も時折、作業に手を貸しながら作業を進めていく。
手が空いた青年が周辺の地図を眺めながら雨水コーヒーを啜っていると、昼間の少女が、飴玉を差し出してきた。
「これと、なんか交換して?」
驚いたを目に浮かべた青年は少女が差し出した飴玉と無邪気な笑顔に視線をやる。数秒固まってしまった青年は息を吐き出す。伸ばされた小さな手に乗った飴玉を摘み上げ立ち上がる。
「ちょっと待ってろ」
チンタラとした足取りで青年はトレーラーから板チョコを2枚持ってくる。勝田がやりとりに気づいたようで他のメンバーと真面目な話しながらもニヤニヤと視線を送ってきた。
少女がそれを受け取ると、2人は少しだけ笑った。
「ありがとう!お店屋さんのおじさん!」
勝田の吹き出した笑い声に今度はまぶたがピクつくのを感じながら笑顔を作って少女に向ける。
「大サービスだぞ。独り占めしないで友達にも分けてやれよ?」
「うん!わかった!」
少女の無邪気さに、青年はほんのわずか胸の内が温かくなるのを感じた。母親のもとに短い足をバタバタと動かしながら駆けていく少女を見送りながら飴玉を口に放り込み、思案する。
(だが、ここに長居はできない。どこまで巻き込まれるか分かったもんじゃねえ)
彼は、揺れる焚き火に照らされる地図に再び視線を落とした。砂埃の匂いがするコーヒーで口内に溶け出した甘さを飲み込む。