宿代
青年は、トラックの運転席に座り、エンジンの振動が伝わるハンドルに額を押し付けるようにして、答えの出ない思考を巡らせていた。傾きかけた太陽によって暖められてわずかに空いた窓からは血の匂いが乗った風が吹き込む。
(逃げ出した奴らが生き残れば、抗争は高い確率で激化する。勝田たちとは今後も取引を続けたいのはもちろんだが、東北方面への比較的安全なこの一帯を通れなくなるのは…)
(情報を持って引き返したとして、事態が収束する確証など一つもない。最悪抗争に巻き込まれるのはリターンの割にあまりにもリスクだ)
「帰ろう…」
青年がそう呟き、ハンドルから顔を上げようとした時、車体が何かに押され揺れた。ハッと助手席側に目を向けると、鉄格子が溶接された窓から死者が血で黒ずんだ歯を見せつけるように大口を見せつけていた。
(もう食い尽くしてこっちにきたのか!チンタラしすぎた)
1体だけならば排除も検討できたが、ドアに張り付いた死者の背後には複数の死体が引き摺るような足取りで迫っていた。
「チッ…」
青年はシフトのノブを殴るようにドライブに入れ、車を発進させた。
青年が死者の群れを撒いた頃には住宅街の向こうに太陽が隠れていた。ようやく安堵の息をついた。辺りは静かだったが、依然として無人の街並みは不気味に広がっている。
(もうすぐ暗くなる。暗闇に車のヘッドライトは目立ち過ぎる。商品を抱えて安全が確認できてない場所での野営は避けたい)
逃走前から一転、青年が取れる選択肢は一つしかなくなった。勝田たちに頼るほかない。リスクを犯して1人野営することも可能だが、青年の脳裏には先ほどの死者のグロテスクな口内の映像が張り付いている。
完全に暗くなるまでに勝田たちの拠点である運動公園を視界に捉える事ができて、青年の心にはわずかな安心感を覚えた。だが、その心中にはまだ不安もあった。
(彼らなら拠点の片隅で1泊させてくれるだろう。でも…この情報を持って勝田グループに戻ったとしても、不確定要素が多過ぎるこの情報がどれだけ役立つ?)
トラックの車輪が運動公園のバリケードに近づくと、バリケードを監視する若い男4人の姿があった。青年のトラックを確認したのか、1人が報告のためか拠点の内側へ姿を消した。青年はバリケードの出入り口前に停車し、無線機の受話器のボタンを押し込んだ。
「勝田さん取れるか。商人Zだ。どうぞ」
返答はない。しかし、拠点の奥から迷彩柄の服を纏った男が小走りで向かってくるのが見えた。すぐにバリケードの門が人1人分開き、青年のトラックのもとまでやってきた。
「どうしたんだ?引き返してくるなんて。初めてじゃないか」
驚きと若干の警戒を取り繕った表情で勝田が青年に話しかける。
「ちょっとしたトラブルでな。一晩泊めて欲しい」
「構わねえが…そのトラブル次第だ。厄介ごとは勘弁だからな」
青年は手短に昼間知り得た情報を説明する。話を聞き終えた勝田は表情をさらに引き締め軽く頷いた後、門番のメンバーに合図を送り、青年のトラックを拠点内へと引き入れた。エンジンを停止した青年は、トラックから降車する。すぐに勝田が近寄ってきた。
「詳しい内容話してくれ。宿代としてな。情報にも価値があるんだろ?」
青年は頷きながらトラックの施錠を済ませ、勝田の後を追って拠点の一角に設けられた屋根だけの集会用テントに向かった。
「少し待っててくれ、中心メンバーにも話を聞かせたい」
そう言って、勝田は青年に蒸気の立ち上る金属製のカップを手渡した。礼を言って受け取ったカップに口をつけた青年の表情が曇ったのを見て、勝田はいたずらが成功した悪ガキのような笑みを浮かべた。
「不味いだろ。雨水コーヒーだ。ここの名物だぜ。慣れれば大したことない」
そう言って自身も砂埃の風味がするコーヒーを啜った。中心メンバーが集合を終えると、勝田から目で促された青年が説明を始める。入り口で勝田に説明した内容に加え、その場にいた各グループの人数や武器、昼間見た様子ではいずれ起こったであろう事などより詳細に伝えた。
一通り話終えると、独り言以外を普段あまり話さない青年は口内の渇きを覚え、ぬるくなったカップに目を落とすが、味を思い出し口に運ぶことはなかった。
「ゾンビの群れはどうだったんだ?」
「街は無事だったのか?」
「他にもグループがいただろ、近くに居なかったのか?」
メンバーから口々に質問が飛び交うが不確定な情報が多く、彼らの望む安心する回答は青年にはできなかった。さらに青年の普段から最悪な状況を予測する性分ゆえ、青年の話を聞き、周囲は貧乏ゆすりをする者や考え込む様子を見せる者など不安を募らせていた。
質問が落ち着いたタイミングで青年はさらに自身の予測を展開した。
「抗争激化すれば、物資や武器を求めて攻め込むこのグループにも攻め込む可能性も捨てきれてない」
その言葉に周囲の空気が凍りついた。青年の伝える情報は、彼らにとっては警告でもあり、彼らに対策を決意させるには十分な言葉だった。
「具体的な場所や動きはわかっているのか?」
「どんな物資が不足しているんだ?」
「銃を使っていなかった方も抗争となれば俺らの銃を奪いにくるかもしれない」
落ち着いた質問が勢いを増して青年に投げかけられる。青年は勝田と目を合わせ、そこで一息ついてから答えを口にした。
「俺から言えるのはここまでだ。不確定な情報が多過ぎる。ここに攻め込んでくるかもってのもあくまで最悪のケースだ。俺と弾薬3ケースも交換したんだ。まだ抱えてるんだろ。物資はここが1番整ってる」
青年の言葉を聞いた勝田は、少し考え込みながら重々しくうなずいた。
「となると、俺たちも自衛のために備えを強化しなければならないな。武器は十分だが、バリケードはゾンビども用だ。車が突進してきたら無事じゃ済まない。取り急ぎは防壁の補強だな」
「そうだな。それに、今日明日じゃ無理だろうが、万が一の逃走用のルートや避難用の拠点整備も長期的には必要かもしれない」
青年の言葉に勝田は重苦しくなった雰囲気を払拭するようにまたいたずら小僧の表情を作りながら口を開く。
「商人ZからコンサルタントZに転職か?」
青年はムッとした様子で言い返す。
「なら、コンサル料踏んだくるぞ。もう寝る。宿代には十分だろ」
「勘弁してくれ。まあ、ありがとうよ。あとは俺たちで相談してみる」
勝田は降参と言いたげに両手を上げながら礼を述べると、地図を引っ張り出して作戦会議が始まった。青年は自分の役目が終わったことを察し、
「コーヒー、ご馳走さん」
と、ほとんど残ったカップをその場に残し、自身のトラックに連結するトレーラーに歩き出した。