微光
青年は首筋にべたつく不快感で目を覚ます。
血液が後頭部から首筋を通り胸と頬を汚している。乾きかけな血液は皮膚を引き攣らせ、かゆみとして青年に不快感をもたらしていた。
「うぁ……っいってぇ……」
かゆみはすぐに後頭部の痛みにかき消された。
青年の意識は後頭部の痛みではっきりとしていく。目を開いたものの周囲は暗く、はっきりとしない。
手足はチクチクとした荒い縄でキツく縛られている。
青年は動かせる範囲を慎重に確認する。手首の縄はどこまで緩むか、足首はどれだけ曲げられるか。床や壁に触れて材質を確かめ、部屋の広さや出口の位置を推測する。不自由な体をよじらせ周囲を探る。
横たわった青年の目線と同じ高さ。古びたドアの下からわずかに光が漏れている。
床に押し付けられた耳には遠くの足音が聞こえる。話し声もわずかに聞こえるが内容を聞き取ることはできない。
五感を総動員して、ただ今の状況を把握することだけに集中した。
青年は息を整え、耳をすませる。足音は一定のリズムで近づいたり遠ざかったりする。扉の向こうに数人いるのか、それとも一人だけなのか、距離や足取りから判断するしかない。体を小さく動かす。
(目が覚めたことを気づかれたら誰かがくるかもしれない)
慎重に指先で床を探る。板張りの小さな凹凸を感じながらわずかな光を注視する。同時に縄の緩みをなんとか広げようと、静かに力を込める。縄と皮膚が擦れる痛みと引き換えにわずかな可動域を確保した。
青年は慎重に身じろぎを繰り返し、壁にたどり着く。後ろ手に縛られた手でざらざらとした土壁の感触を確かめる。
光は扉の隙間から差し込む一筋のみ。
(最悪だ。早く逃げようと焦って信用しちまった……。あの女ふざけやがって)
青年は後悔と恐怖を怒りとして押し殺しながら、思考を巡らせる。
(奴らがまだ俺を生かしてるのはなんでだ?縄を解くにはどうしたらいい?俺のトラックは無事か?)
暗闇の中転がされた青年の持つ情報はほとんどない。ただの疑問だけがまとまりなく青年の頭の中を埋め尽くす。
自身を昏倒させた女への怒りは長続きせず、次第にじわじわと青年の心に恐怖が這い寄る。
(なんにせよこのままでいるわけにもいかない。なんとか縄を……)
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(また、気を失ってたのか……)
青年の後頭部の鈍い痛みが遠のき、血液の熱感だけが皮膚に残る。全身のこわばり、関節の痛みから気を失っていたのは数時間程度と青年はなんとなくあたりをつける。
床に耳を押し付け、わずかな振動を探る。遠くで低い声が交わされている。はっきりは聞き取れないが、語気や間合いから青年は意味を推測する。
「おい、生きてたか?」
「生きてたよ。一度意識戻ったのか、壁際まで這いずってた」
(意識を取り戻したことが、外の連中にばれてる……)
微かな笑い声が混ざり、青年の胸に悔しさと恐怖が同時に押し寄せる。
「なぁ……あの時の学者のことわすれたのか?問題を起こす前に早く始末すべきじゃないか?」
「いや、まだ生かす価値はある。情報も物資もあるんだ」
「手を汚すのは誰だ」
「俺は関わりたくない」
「学者の時はみんなパニックだったし」
トラックの物資が見つかった話も青年の耳に入る。
「焼き鳥缶なんて久しぶりだぜ」
「灯油もあった、これでしばらく凍えなくて済む」
怒りより先に、無力さと焦燥が全身を締めつける。自分の所有物や情報が、敵の手で生かす理由として利用されていることに悔しさが込み上げる。
「奴は怯えてるか?」
「少し脅せば協力するかもな」
「下手に扱うと逆に騒ぐぞ。慎重にな」
殺す派と生かす派の心理が交錯する。恐怖がじわじわと青年の胸に広がる。
そして、声がひとつ、他の声とは明らかに違う響きで耳に届いた。聞き覚えのある口調、微妙な間合い、声質――
「招き入れたのは俺だからな、責任を取ろう」
(小島だ……!)
その一言だけで、青年の心は凍りついた。怒りも悔しさも一瞬で霧散し、純粋な恐怖だけが体を貫く。床に張り付いた耳を通して、すべての緊張が一気に高まった。
小島の一言で話がまとまったのか、扉の下から漏れる光は消える。外の声が遠ざかり、床の振動だけが伝わる。青年は息を整え、冷や汗にまみれた体を少しずつ動かす。小島の声が耳に残り、心臓は依然として早鐘のように打つ。
(まずは、焦らず、縄の状態を確認……痛みを無視してでも手を動かせるか)
後ろ手に縛られた手首を慎重に動かす。ざらつく縄と皮膚が擦れ、鋭い痛みが走る。しかし青年は痛みをこらえ、指先で結び目を押さえ、わずかな隙間を探る。
青年は手首の可動域を確保しようと身を捩る。物音を立てないよう慎重に力を込めるが、不意に、床に「カチリ」と小さく音を立てて何かが落ちた。
青年の動きが硬直する。
暗闇の中、微かな金属音が自分の存在を外に知らせたかもしれない。青年は体を床に押し付け、耳を澄ませる。外の足音は止まらない。息が詰まる。
(……大丈夫か? 気づかれてない……か……)
青年は音を立てた元凶を探る。硬く冷たい感触が指先に触れた。
(……っトラックの鍵だ!)
音を立てた焦燥は一転、希望に変わる。
慎重に鍵を拾い、結び目に差し込む。その瞬間、青年の胸に別の感情が湧いた。
(てっきり鍵も盗られてると思ったが。ここにあるってことは、俺のトラック無理やりこじ開けやがったな……!)
トラックに残してきた物資や個人的な所有物が、すでに奪われたかもしれないという思いが、悔しさと焦燥感を押し寄せる。しかし目の前の結び目を広げる作業を止めるわけにはいかない。
青年は痛みと戦いながら、わずかな隙間を少しずつ広げていった。