残片
夕刻から続いた異常な儀式。いまだに青年のまぶたの裏に光景が焼きつき離れない。大絶叫の感謝、呻き声、誰かが抱えていた赤子の形をした何か。笑っていた者たちの表情が、夜闇の中で不気味に浮かび上がる。青年が戸を閉めると、室内の静寂がひどく身に沁みた。
(ここももう安全ではない)
そう確信した瞬間、青年は机の下から古びた登山用の小さなリュックを引っ張り出した。あらかじめまとめていた最低限の荷物――水の入ったボトル、乾パン、携帯用ナイフ、フラッシュライト――それらを手早く確認する。だが、すぐに思い出す。
(銃……そうだ、銃はまだ小島に預けたままだ)
預けてしまっていた二丁の銃。他の住民が怖がるからという否定しにくい理由付けをされ、青年の手元から離れている。青年はすぐにでも取りに行きたい衝動に駆られたが、時刻はすでに深夜を回っていた。
青年は壁越しに耳を澄ます。小島の部屋からは物音ひとつ聞こえてこない。シンと静まり返った建物の中、小島に納屋の鍵を開けてもらうため姿を探すが見当たらない。
「……まだ戻っていないのか?」
そっと戸を開けて、隣接する納屋に向かう。鍵はしっかりと掛けられており、内部の様子は窓からも伺えなかった。青年は鍵を壊すことも考えた。しかし深夜の音はあまりにも目立つ。誰が起きているかわからない。
(あまり連中を刺激したくない…)
仕方なく青年は再び自室へ戻り、薄い布団にくるまりながら、目を閉じる。だが、一向に睡魔はやってきてくれない。寝返りを打つたびに、喧騒が耳元で蘇り、脳裏に赤黒い染みを落とす。
夜が明けた。薄明の空を背に、集落の家々が静かに息をしている。青年は顔を濡れたタオルで拭う。乾いたパンを口に運びながら、結局一晩戻らなかった小島を探すため外に出た。通りを歩くが、小島の姿はどこにも見当たらない。嫌な想像を振り払うように頭を振った青年は、もう一つの目的を思い出す。
青年は小島の姿が見当たらない苛立ちからか、別の思考に意識を飛ばした。
(あの、調査記録……カニバウイルスについてだった……。崩れかけた納屋に保管されていた、文書群。銃が最優先だが、可能なら確保したい)
彼は目立たぬように路地を抜け、再び記録が置かれていた場所へと向かった。
青年は通りを早足で歩いた。視線を上げるたび、窓の隙間からこちらを覗く人影が見える。何かを探るような、あるいは見張るような眼差し。昨日まではギリギリ自然とも言えた通せんぼも今までと違う。露骨な進路妨害、眉間に皺を寄せたり青年を射殺すように凝視するなど露骨な敵意がそこにはあった。
(妙だ……昨日までは、ここまでではなかった)
青年は脇道に入り、周囲を確かめる。人気はない。昨日文章を見つけた納屋に辿り着く。扉は施錠されていないことを確認し、素早く中へ滑り込んだ。
納屋の内部は、薄暗い埃の匂いに満ちていた。調査記録が隠されていた棚に視線を運んだ青年の足がピタリと止まる。
(何もない……)
棚の上は、まるで最初から何も保管されていなかったかのように、綺麗に片付けられていた。床には紙屑ひとつ落ちておらず、棚の埃も不自然に拭われている。
(消された……)
彼は周囲を探るが、すでに何も残っていなかった。天井裏、箱の隙間、床板の下――あらゆる場所を探すが、成果はゼロ。胸に冷たいものが広がる。
ゆっくりと納屋を出ようとしたそのときだった。少し離れた畑の近く。設置されたドラム缶を改造した焚き火台が青年の目に入った。小走りで近寄る。覗き込むと黒く焦げた紙の端が引っかかっているのを見つけた。
風に煽られた紙片が、ひらりと舞って青年の足元へ落ちる。彼はすぐに拾い上げた。端は焼け焦げており、半分以上が灰と化している。だが、まだ読み取れる部分が残っていた。
《No.34 噛傷部位:右前腕/観察経過:31日目/症状進行なし》
患部の写真と書き込まれた文字。写真には腫れの引きかけた皮膚、薄く残る歯形。何より、その皮膚の色は健康的な色に戻りつつあった。青年は息を呑んだ。
(感染……していない?)
噛まれたにも関わらず、発症していない記録。しかも経過観察が正しければ1ヶ月以上。
(この情報が意味するものは大きい。だが、なぜこれを――燃やす必要があったのか)
「……都合が悪い、ということか」
青年が写真を眺めながら口をついた。さらに読み取れる情報がないか、細かく写真を観察する。立ち尽くしたまま思考を巡らす青年の背後で小さな石が転がる音がした。
青年は反射的に身を翻し、納屋の裏手を睨んだ。誰かがいた。だが、姿はない。代わりに、風が納屋の壁を鳴らすばかりだった。
(誰かが……見ていた?)
再び警戒を強めながら、彼は納屋を後にした。胸元には、燃え残った紙片がしっかりと握られていた。ふと、青年の意識が集落の入り口に向かう。
(まずい、そう言えばトラック…!)
青年は日課にしていたトラックの点検を怠っていたことに気がつく。昨日の狂気的な光景を思い出し、焦燥を抱えたまま、足をトラックのある裏手へと向けた。
トラックは、以前と変わらず雑草の茂みに隠れるようにして止まっていた。タイヤの空気圧もまだ保たれている。いつでも動ける。ただし、武器があればの話だ。
「ねえ」
不意に背後から声をかけられた。青年は反射的に振り返る。若い女が一人、立っていた。長い黒髪を後ろで束ね、古びたカーディガンを羽織っている。目元に疲労の影があるが、そのまなざしには妙な鋭さがあった。
青年は警戒を隠さなかった。女の表情に敵意は見えない。だが、この村の人間だ。疑ってかかるに越したことはない。
「……何か用か」
「あなた、出て行こうとしてるんでしょ?」
女は抑えた声で言った。まるで誰かに聞かれないように。青年の眉がわずかに動く。
「なぜ、そう思う」
「昨日の…見たでしょ。……あんなの、普通の人が見ればそう考える」
女は一歩、青年に近づく。息遣いがやや荒くなる。手がかすかに震えている。
「ねえ、連れて行って。私、ここにいたくない。……お願い、一緒に連れてって」
青年はすぐには答えなかった。目の前の女が、どこまで本気なのかを測ろうとする。
「小島を知らないか。彼のところに、銃を預けていた」
「……小島さんなら……。いや、ごめん。姿は見てない。昨日からずっと」
女は言い淀んだあと、息を吐いて続けた。
「でも、もし銃があるなら、今のうちに回収しなきゃ。鍵を壊してでも取りに行くべき。――手遅れになる前に」
その目は真剣だった。だが、それが“助けを求める人間の目”なのか、あるいは別の意図を隠した目なのか――青年には、まだ判断がつかなかった。
空は灰色に曇り、風が低くうなるように吹いていた。小島の納屋の前に立った青年は、手にしたバールを握りしめる。その隣には、先ほどの女が立っていた。表情は変わらず無機質で、青年の行動を黙って見守っている。
「もう一度だけ聞く。……見張りはいないな?」
「ええ。朝は人通りが少ないし、この辺りは住人もほとんど寄らない」
青年は頷き、錆びついた鍵のかかった取っ手にバールを差し込んだ。一度、深く息を吸い込む。
「――ッ!」
力を込めて押し上げると、金属の悲鳴のような音が辺りに響いた。扉が外れかけ、隙間が開く。青年はすぐに中へ滑り込み、女も続く。
室内は前回入った時から変化はない。暗く、埃が立ちこめていた。奥にある棚の裏側。丁寧に置かれた拳銃と小銃が並んでいた。どちらも自分が確かに預けたものだった。だが、手に取った瞬間、整備を欠かしたことのない青年は異変に気づく。
(……軽い?)
青年は小銃のマガジンを抜いた。空だった。拳銃も同じく、弾倉に弾が入っていない。どちらも、完全に“抜かれて”いる。
「……弾が、ない」
「え……?」
女が近寄ってきて、中を覗き込む。女は口閉じたままだったが、その顔色がほんのわずかに変わったのを、青年は見逃さなかった。この状況に、本当に驚いているのか、それとも知っていたのか。だが青年に問い詰める余裕はない。
(武器は回収した。問題は弾がないということだけだ。トラックには予備がある。それに“持っている”ことで威嚇になる)
青年は二丁の銃を肩と腰に収め、女に目をやった。
「……部屋に荷物を取りに戻る。あとは夜を待って脱出だ」
「わかった。私はここで見張ってる」
女の返答は迷いなく、それが逆に不自然に感じられた。扉を開け、青年は再び外の風に身を晒した。
小島宅の前まで戻ったとき、青年は胸の奥に言いようのない違和感を覚えていた。
(空気が、静かすぎる。住民が1人も屋外にいない。いつのまにか、妨害する人間もいなくなっている)
荷物をまとめた部屋の扉を開けようとした瞬間。女の力む声が背後から聞こえた。振り返る暇はなかった。鈍い衝撃が後頭部を貫き、視界が一瞬、白く弾ける。青年の膝が崩れ、視界に地面が迫ってくる。倒れ込む瞬間、かすかに見えたのは、女の無表情な顔だった。
「帰すわけないじゃない」
その声を最後に、意識は奈落へと沈んでいった。