讃歌
風は止み、辺りは静まり返っていた。
青年は布団の上で横になったまま、手元の紙を何度も読み返す。
『雪が止んでも、まだ帰らないほうがいい』
筆跡は丁寧だが、急いで書いたかのような乱れもある。ひと目で分かる。「村の誰か」が書いたものだと。
(なぜ帰るなと? 誰が? なぜ今?)
文字の端にこびりついた、読み取ることが出来ない意図。それを青年は指先でなぞりながら読み取ろうとする。
青年は見えない針が、薄皮の内側を這っている感覚に襲われる。まだ刺されていない。だが、確実にその気配がある。不安を押し殺しながら目を閉じた。
朝。窓の外は淡く晴れていた。雪雲はなく、陽は山の向こうから細く差し込んでいる。
昨日と同じ時間だったが、小島の姿はない。鍋や釜の上に書き置きで『召し上がれ』と書かれ、傍には食器が置かれている。青年は一瞥しただけで、手をつけることはなかった。
トラックとトレーラーの点検を終えた青年は、昨晩の紙の差出人を探していた。住人に声をかけ、さりげなく昨晩の行動を聞き込む。2人目の住民との会話で青年は既視感を感じる。村人たちは口を揃えたように同じことを言うのだ。
「今日も雪が強くなるから、外には出ない方がいいよ」
メモと同じ内容。聞き込みを続けるとさらに5人以上が同じ言葉を吐いた。声色や抑揚、表情までもが妙に似通っていた。まるで教えられた通りに、繰り返しているような口調で。
(晴れてるじゃねえか)
青年は歩きながら、肩の内側にこわばった感情を押し殺す。集落をひとりで回る。
(誰があの紙を差し込んだのか、確かめたい)
だが、村人は誰もが穏やかに、親切に、過剰に親密だった。ある家の前で、洗濯物を干していた老女がぽつりと語る。
「この村ね、元々の人間は半分もいないんだよ。ほら、都市の方から逃げてきた人たちが多くてねえ」
「避難民ってことか?」
「そうそう。パニックのすぐ後に来てね。皆で迎え入れて、なんとか落ち着いてさ」
青年は静かに老女の話を聞く。
「その半年くらい後だったかしら。学者先生が、ひとりでここに来たのよ」
青年の目が動いた。
「学者? 何の?」
「なんだったかねえ。薬の研究とか、病気とか、そんな話をしてたような。何度か集会所で会ったけど、わたしはあまり覚えてないわ。でも……急にいなくなっちゃってね」
「いなくなった?」
「そう。朝起きたら、もう姿がなかったの。誰も見てないし、置き手紙もないし、荷物もぜんぶなくなってて。ああ、帰ったんだね、って、みんな言ってたけど」
青年は礼を言い、老女から離れる。村のはずれ、無人の納屋の1つに足を踏み入れた。わずかに人の生活の跡。4畳ほどのスペースには農機具などが無く、整った椅子と机や埃のない棚、積まれた本のあと、撤去された何かの機器の台座。そこだけが新しい空白としてそこにある。
(誰かがいた……けれど、意図的に“消された”)
青年は炉に目を留めた。中には古びた灰が残っていたが、その中にわずかな紙片が混じっていた。
指で拾い上げると、燃えかすの中に文字がうっすらと残っている。
『抗———の—安——』
ページの一部らしいが、全体は読めない。
そのとき、ふいに農具の棚にかけられた布の端が風でめくれ、隅に書類の束が見切れる。
(…調査記録……?)
青年が布を取り払おうとしたその瞬間、外から足音。青年が振り返ると、若い女が納屋の入り口に立っていた。顔は笑っているが、目だけが笑っていない。
「危ないですよ。この納屋、柱が腐ってますから」
「……ああ」
「このあたり、雪下ろしがまだなので崩れやすいですから。気をつけてくださいね」
わずかに強調されたその言葉に、青年の背筋がわずかに震える。
(この女は“ここに来たこと”を知っている。偶然、ではない。監視されている……)
青年は一言礼を言い、納屋を離れる。その背に、女の視線が貼りついていた。
(こいつら……)
集落は一枚岩のように何かを隠し、守り、演じている。そして、青年がそれを見抜こうとしたとき――ほんの少しだけ、牙を覗かせる。
青年は納屋を後にし、村の中央部へ戻る道を歩いていた。何も話していないはずなのに、行く先々で村人が現れ、笑顔で挨拶をしてくる。
「今日は冷えますね。外には出ない方がいいですよ」
「すぐに天気、崩れるそうです」
(……また、同じ言葉だ)
空は、まだ晴れていた。次第に、情報収集を続ける青年が村の外縁部に向かおうとするたびに、さりげない引き止めが入るようになった。
とある道で足を進めようとすると、薪を積んだ老人が無言で立ち塞がる。別の角を曲がると、手押し車を押す中年男が「おや、お疲れ様です」と言いながら立ち止まり、通せんぼのような位置に居座る。
(……囲われている)
その確信を胸に抱いたまま、青年は自室に戻ろうとした。階段を登り切ったところでで、立ち止まった。背後から床鳴りがしたからだ。人の気配。青年は振り返るがそこには何も居なかった。
(…小島の奥さんか?)
青年は一歩、静かに後ずさる。誰も居ない階段の下を見つめる。誰もいなかったかのように青年が感じた気配は霧散していった。
その日の夕方、小島から集会所で週に一度の食事会があると伝えられた。
「みんなで、一緒に食べましょう」
口々にそう言い、住民は笑顔を浮かべる。逃げ場はなかった。会場となる集会所にはすでに長机が並べられ、20人弱の村人が椅子に腰掛けていた。程なく食事が始まったが、だれも喋らない。皿の音、足音、咀嚼音。すべてが異様に静かだった。青年の席も、当然のように用意されていた。小島の家で振る舞われた料理よりも少し豪華な献立。食べざるを得ない雰囲気に青年は少しづつ料理を口に運んだ。
(無音だ……)
笑いも、雑談も、問いかけもない。全員が、何かを見ないようにしながら、何かを観察していた。食後。突然、青年の隣に座っていた小島が立ち上がり、大声で叫んだ。
「今日もありがとう! ここに生きていられることに、感謝を!」
それを合図に、村人たちは次々に立ち上がり、同様の言葉を叫び始めた。
「あなたの存在に、感謝を!」
「なんて素晴らしい日だ!」
「こうして共に食べられることが、どれほど――!」
礼賛。絶叫。感謝と賞賛の連呼。誰に向けたものなのか、定かではない。ただそれを繰り返す。青年は吐き気を飲み込む。ただじっと座っているしか出来なかった。全身に悪寒が全身に重くのしかかる。
さらに声は高まり、笑顔が歪み、泣き出す者までいた。それは儀式のようだった。宗教的でもあり、演技的でもあった。だが、最も不気味だったのは、誰一人として“異常である”という認識を持っていないことだった。
(ここは……おかしい。間違いなく)
青年は、決意した。
(この村を出る)
青年はポケットの中のトラックの鍵を強く握った。