贅沢
誤字をご指摘ありがとうございました。
冷え込みが本格化する直前、青年は南方への燃料配達を終えた帰路にあった。
山の麓に10人ほどが集まるグループの拠点で荷を降ろした。帰り際、焚き火のそばでひとりの老人がふと漏らした一言が、彼の記憶に残っていた。
「向こうの谷にゃ、まだ豚がいるって話だ。飼ってるやつがいるんだとよ」
肉――それも、育てられた家畜の生肉。終末後の世界ではほとんど都市伝説のような話だ。管理する人間がいなくなった家畜は飢餓や病気の蔓延で死に絶え、残った人々は缶詰や乾物が主な栄養源。野生動物の狩猟はリスクが高く、行う人は珍しい。
(もしそれが本当なら……)
青年は、谷をひとつ越え、雪解け水の流れる細い川に沿って廃村を抜けた。自然からぽっかりと切り開かれた土地が姿を現す。その土地の道路に面した一軒の家が煙を上げる。切り出された薪が丁寧に積まれ、囲いの中では黒ぶちの豚が泥の上を歩いていた。
青年がトラックを停車させ、近づく。エンジン音を聞いた1人の男が家から出てきた。髭を蓄え、目つきには鋭さを感じさせる。手には2連式の散弾銃が握られていた。
「なんの用だ」
「肉が手に入ると聞いた。生肉でも、多少加工されたものでもいい」
男は青年を値踏みするように見た。返事はなかったが、ひとまず中に招き入れられた。静に揺れるストーブの火は温かく、建物のそばには燻製用の小屋が隣接している。塩の袋、乾いたハーブ、そして吊るされた肉。
「だが、タダじゃない」
「もちろんだ」
青年は荷台から保存食、電池、簡易医薬品などを差し出した。だが、男はそれをちらりと見ただけで鼻を鳴らした。
「その程度で命の糧が渡せるか。こっちは数年かけて、ようやくここまで来たんだ」
そして、ふっかけるように言った。
「トレーラーごと置いてけ。それでようやく話を聞く気になる」
青年は黙ったまま男を見返した。その沈黙が数秒、いや数十秒に感じられた。だが、やがて青年は荷台に視線を落とす。交錯する視界の端。青年は部屋の外に放置されていた業務用の冷凍庫を発見する。
「冷凍庫……」
「は?」
「いや、違う。冷却用のコンテナから剥ぎ取ったコンプレッサー。発電機もあるようだし、加工すればその冷凍庫にも使えるはずだ。肉の保存にも使える」
男の眉がわずかに動いた。
「まだ動くのか?」
「それは保証する。この地域じゃ、冬場はいらんかもしれんが、春以降役に立つはずだ」
しばらくの沈黙ののち、男は一つ頷いた。
「……初めからそれを出せ。そいつと交換なら肉を譲ってやらんこともない」
条件はまとまった。生肉を少量、燻製肉をそれ以上。互いの損得が釣り合った、終末世界なりの均衡だった。
男が包丁を手にし、豚の肉を丁寧に切り分けていく。燻製済みの肉も清潔な布に包まれ、青年の差し出した袋へ収められていった。最後に男は、慎重な手つきで紙を一枚添えた。
「調理法のメモだ。生で扱うのは久しぶりなんだろ」
「……ああ、ありがとう」
外へ出ると、雪がちらついていた。冷たい風に、青年のコートがひるがえる。トレーラーの後部に肉を積み直しながら、彼はふと手を止めた。
いつもは物資を渡し、物資を得る。ただそれだけ。誰かの必要のために動き、誰かの暮らしを支えるために走る。だが今回は違った。
この肉は、誰のためでもない。久しぶりに、「自分のために消費するもの」を手に入れた。
その夜、青年は風を避ける林の中に車を停め、即席の調理場を作った。鍋に湯を沸かし、紙に書かれていた方法で、肉に軽く塩を振り、油で焼いた。じゅう、と音が立ち、香りが立ち上る。香ばしさと、脂のうま味が混じった濃密な匂いが、かすかな煙とともに漂った。
青年が一切れ口に運ぶ。噛んだ瞬間、肉の繊維が歯を弾き返す。脂が舌の上で溶け、忘れかけていた「うま味」という感覚が、胸の奥にまで染みわたってくる。
咀嚼しながら、青年はゆっくりと目を閉じた。何かが、戻ってくるようだった。味覚だけではない。かつて当たり前に存在していた、温かい食事。空腹を満たすだけでなく、心に灯をともす"食べる"という行為。それがどれほど大切なものだったのかを、青年は失っていた何かを思い出すように噛み締める。
夜の闇は静かで、焚き火の小さな光だけが、雪をぼんやりと照らしていた。