静美
建物の外壁は、意外にも崩れていなかった。
都市圏に足音が反響する。かつて関西と呼ばれた地域に青年は来ていた。数回、付き合いのあったソロの生存者からの依頼。数ヶ月ぶりの遠征だった。無事に取引を終えた後、見込みのありそうな物資の仕入れを兼ねて青年は探索を行っていた。
青年がトラックを停車させたのは、普段なら気にも留めない建物である文化施設だった。道路沿いに立つ案内板には、風雨に晒されて色褪せた文字で「市立近代美術館」とあった。
看板の角は欠け、苔が這っている。ガラス張りの自動ドアは開かない。青年は横の非常口から中へと足を踏み入れた。
ロビーはひどく静かだった。誰かが最近入ったような形跡はない。土埃は薄く降り積もってはいるが、建物全体の骨組みはしっかりと残っている。天井は高く、外光を取り込む設計のため、室内には自然な明るさがあった。
動くモノの気配は全くなく、青年は警戒を一段階落とす。美術館の奥、展示室に向かう途中、青年はふと立ち止まった。壁際に、小さなモップと清掃用バケツが置かれていた。キャスターに蜘蛛の巣がかかっていたが、どこか人の手があった名残を感じさせる。
展示室の扉は重たかった。押し開けると、空気がわずかに動く。展示はそのまま残されていた。壁には風景画や抽象画、人物画が整然と並んでいる。中央には彫刻が置かれ、照明の位置が工夫された空間設計は、今なお芸術への敬意を感じさせた。
青年は、ゆっくりと歩きながら、ひとつひとつの作品を眺める。カンバスに広がる海の色、鮮烈な赤、揺れる線。作者の名も、制作年もプレートには記されているが、誰の記憶にももう残っていないかもしれない。
ただ、そこに“ある”ということ。それだけが確かだった。
(まだ……残っている)
思わず呟きそうになり、青年は唇を噛んだ。感情が、波のように揺らめく。それが感動なのか、痛みなのか、判断する者はいない。奥の展示室には、企画展のポスターがあった。
『風景と記憶──旅する画家たち』
仄暗い照明の中に、緻密に描かれた小さな絵が並ぶ。青年は場所の名前は知らない。だが、その空の青さや、川辺に立つ人物の後ろ姿に目を奪われる。青年は立ち尽くしたまま銃を完全に下ろし、しばらくその絵から目を離せなかった。
青年の視界の端。展示室隅のテーブルに、手書きの冊子が置かれていた。《展示解説ノート》とある。主催者が書いたものだろう。インクの滲みと丁寧な字が印象的だった。
「この絵は、作者が地元の湖で毎朝見ていた風景を描いたものです。絵筆を握ったのは定年退職の翌年からで……」といった紹介が続く。
その隣には、来場者の感想ノート。表紙に「ご自由にお書きください」とあり、そこには子供の文字で
「きれい」
「すごい」
「どうやってかいたの?」
といった素朴な言葉が並んでいた。
青年はページをめくり、最後に書かれた感想を見る。そこには、少し乱れた筆跡でこう記されていた。
「また来ます。」
それが誰にとっての“また”だったのか、今となっては確かめようがない。だが、その言葉は、紙の上で今も生きていた。
青年はノートを閉じ、ふとポケットの中のペンに手を伸ばした。躊躇したように手は1度手が止まる。だが、青年はもう一度目を閉じて湖の絵を思い返す。誰に宛てるでもなく、答えを望むでもなく。青年は空白のページに、簡潔な文字で書いた。
「残す価値は、きっとある。」
ペンのインクが少しかすれた。深く息を吐き、ゆっくりと目線を上げる。展示室の扉を閉める前に、もう一度展示室を見渡す。外の騒ぎとは無縁の、静謐な空間。作品のいくつかは傾き、色も薄れていた。それでも“美しさ”というものが確かにそこにあった。
青年はポケットから拾ってきた錠前の残骸を取り出し、ドアにかけて形ばかりの鍵をかけた。
(意味はないかもしれない。それでも……)
外に出ると、小雨が降っていた。空は重く垂れ込めていたが、雲の切れ間からうっすらと光が差していた。遠くでカラスが鳴いた。街は静まり返っている。誰も見ていない。誰も知らない。
それでも青年は、振り返って一度だけ、美術館を見上げた。
建物が守る"文化"を心の奥に刻みながら。