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捕縛

話は一度戻ります。前の章を読んでなくても、ここから読めると思いますので、お気軽に読んでみてください。

此度の平賀宗介の逮捕劇はまさに本人にとっても寝耳に水の事態であった。現に彼はその捕縛(ほばく)される当日も、朝から変わらぬルーティンを済ませて、12時出勤の事務所にて昼飯を食べてから始業しようと、11時頃にホカ弁を購入してから出社していたのだから。


事務所に着くや否や、女性事務員と談笑など交わしつつ、さて昼の唐揚げ弁当を食してからタイムカードを押そうなど思っているおりに、事務所の自動ドアが開き、望まぬ来客が訪ねて次第であった。


訪ね人はワイシャツの上にカーディガンと紺のナイロンジャンパーをきて、下は紺のスラックスの50歳絡みの初老の男と、30代とおぼしきこれもまた似たような格好をした男と女だった。先頭に立っていた初老の男は事務所内を一瞥(いちべつ)したのちに、宗介を見つけて


「平賀宗介だな?」などと不躾な質問をぶつけてきた。宗介はそのあまりの唐突さに思わず「はぁ、僕ですけど」などと弁当袋をぶら下げて、マヌケに答えたのだった。するとその初老の男は黙ってグイッと宗介に近づくと、なぜか肩を組み内緒話でもするかのような体制で


「大島奈美って女を知ってるな?〇〇のピンサロで働いてて、あんたが面倒見てた女だ。その件で話があるから、一寸(ちょっと)外で話そうや」


と、一見物腰の柔らかそうでありながら、強い意思のある台詞をぶつけると、おおよそ好意的とは思えぬ膂力(りょりょく)で宗介を外に連れ出したのだ。これには宗介も思わず狼狽(ろうばい)したが、思い当たる節がないわけでもなかった。そして、その連れ出される道中で彼なりに何かを察したのだった。


事務所の外に出されるとそこには3台の車が止まっていて、その中の一台がパトカーであったのをみると宗介は、瞬時に状況を飲み込んだ。これは非常にまずいな、と。ただそのまずい状態のバロメーターを(いささ)か測りかねていた。不味いことは不味いのだが、これは如何ほどな状況であろうかと。


外に出ると初老のお巡りは宗介に向かって「なんで俺らがきたかわかるよな?」などと、高圧的かつ余裕たっぷりな皮肉笑いと共に問いただしてきたのだ。


宗介はその高圧的な様子に、なるほど、これは思ったよりも不味いみたいだな、と悟る。兎にも角にも、まずは状況を見定める為に探りを入れねばなるまいな、と。少し周りを見渡してから、状況に飲み込まれぬように、こちらも高圧的に敢えての喧嘩腰に答えたのだった。


「はぁ?知らねーよ。なんだオメェらは、見たところお巡りっぽいけど、てんで身に覚えがねぇーな。てめぇらどういう了見だ」


とりあえず状況を探りたい心と、これで相手のペースに飲まれるのを打破しようと、宗介は必死に虚栄(きょえい)して叫び倒した。そして、お巡りを睥睨(へいげい)してさらに、馬鹿野郎、この野郎と言った物言いで罵倒した。しかし、それを聴いた初老のお巡りは、返す刀で何か口火を切ったような剣幕で怒鳴りかえしたきたのだった。


「あぁ、てめぇ生意気抜かしやがって、こっちは用があるから来てんだよ。とりあえずパトカー乗れや。俺らはそのために来てんだからよ。おらっ」


などど(はなは)だ市民を守る公僕とは思えぬ口調で抜かしてきやがったのだ。これには、たまらず宗介さらに激昂(げきこう)の構えで


「あぁ、てめぇがおまわりだってどこに証拠があるんだよ馬鹿野郎。暴力団みてぇなツラしやがって、車に乗れだとふざけんな!身に覚えなんてありゃしねぇよ。なんだてめぇら調子こきやがって、本当にポリか?あぁん?ポリなら令状あんのか?令状あんのかって聴いてんだよ乞食野郎」


とさらに虚勢を張り、この状況を打破するべく躍起(やっき)になって、剣幕の限りを初老のお巡りにぶつけた。しかし、この罵詈雑言が、どうも公僕どものプライドに火を付けてしまったようだった。宗介の怒号を聴いて、パトカーやら、その他の警邏車両からわんさかとお巡りが、蜂の巣をつついたように湧き出てきたのだ。


そして、二番手と思わしき体躯の整った坊主頭の巨漢のお巡りが吠える


「てめぇ、黙って聞いてりゃ偉そうな口利きやがって馬鹿野郎。いいからパトカー乗れって言ってんだよ。俺らお前をパクリに来てんだよ。生意気言ってないで言うこと聴きやがれ」


この怒声に宗介は一瞬思考が停止した。ん?まずいぞ。こいつらは事情聴取やら、職務質問に来ているわけではない。どうやら本気らしい。うん。言われてみればすごい数のお巡りじゃないか。俺を一人を取り押さえるためとは到底思えない数じゃないか。こいつは本当に不味いぞ。


宗介は冷静になって考えようとするも、状況は最悪だった。これはゆとりを持って考える暇はなさそうだ。ただ、ここで折れたら負けなような気もする。元来からの負けん気の強さと、危機的状況でもアドレナリン放出で恐怖を怒りに変えることのできる宗介は取り上えず暴れることにした。更なるてめぇこの野郎の口調を吐き出すと、力一杯でパトカーを蹴っ飛ばすデモンストレーションを敢行した。


しかし、これはあくまでデモンストレーションであった。このような蛮行(ばんこう)に打って出たように見えても、宗介自体は元々がインテリジェンスを売りにするクレバーな勤め人。かように暴れて見せても、流石に公務執行妨害や、器物破損は状況が悪くなると理解はしている。ここは憤懣(ふんまん)たっぷりの剣幕と見せつつも、半ばプライドの保持の為の立ち回りであったのだ。その証拠にパトカーは一切傷が付いてない。


それを知ってか知らずか、国家権力は全く(ひる)まない。暴れる宗介を卓越(たくえつ)したフォーメーションで抑え込むと、四肢(しし)を巧みに押さえ込み、あれよあれよと宗介をパトカーに(はりつけ)にしたのだ。そして、初老のリーダー刑事が胸ぐらを掴み凄む。


「なんならここでやってもいいんだぞ。せめてもの情けで連行してやるって言ってんだぞ若造が」


そう恫喝すると視線を事務所やら、通行人に向けて見せた。宗介がその視線を追いかけると、辺りは会社の人間や通行人などの野次馬が集まっていた。


(こいつは流石に良くないな。世間体ってもんがあるし、会社に迷惑はかけられない…)


身体の自由を奪われ、さらには圧倒的な戦力差を見せ付けられた挙句にギャラリーの冷たい視線に晒された宗介は麻酔を打たれたウリ坊のようにぐったりトーンダウンすると、促されるがままに警察車両に乗り込んだのだ。そして、ドナドナのように護送されていくのだった。



警察車両の後部座席に乗り込むと、右手には先程から怒号を撒き散らす二番手と思われる坊主頭の大男が乗り込み、左手には老獪(ろうかい)な物言いで宗介を黙らせたリーダー格のベテラン刑事が乗り込んだ。前門の虎後門の狼といったそのフォーメーションでガッチリとガードされたまま、宗介は何故か自宅に護送されていったのだった。


自宅前に到着すると宗介はぞんざいに護送車から降ろされた。そして、訳の分からない書類を突きつけられて、これから宗介の部屋を家宅捜査する趣旨を告げられた。今回の事件の何となくの心当たりはあるものの、果たしてそれが家宅捜査など要するものかと宗介は(いぶか)しんだ。しかし、そんな彼の気持ちなど一切無視して、10人絡みなおまわり隊は宗介を引き連れ、ズカズカとその部屋へと入っていくのだった。


部屋に入ると宗介はもはや放心状態であった。一体全体、これは何をやっているのかもいまいち理解ができなかった。部屋に入るとベテラン刑事が指示を出して、10人のコマ達が狭い部屋の中をまるで、家探しのように(あば)き立てていったのだから。そして、やれ手帳を見せろ。やれメモ帳を見せろ。携帯はどこだ。などと言ってその手のメモが残せるものを全て押収していった。宗介はそれをただ茫漠(ぼうぜん)と眺めていた。


一通りの家探しが終わると、ベテラン刑事は宗介の元により「しばらく帰れなくなりからな。金目のものとかあるなら警察が預かるぞ」などと通告した。宗介はその話で何となく今後の自分の運命を察した。そして、おもむろにソファーの下の引き出しを開けるとタンス貯金の165万円を取り出して、おまわりに投げ渡した。


これには流石の刑事達も少し(ざわ)ついた。


「おいおい、こりゃえらい溜め込んでるな。ガキの持ってる金額じゃねぇな」などとお巡りがほき捨てたので宗介は


「俺がいくら金持ってようが関係ねぇだろ。てめぇら盗むなよ。コソ泥みてぇなツラしやがって」と何だかよく分からない罵詈(ばり)を吐きつけた。しかし、そんな迷言は露と消え、おまわり達はその金額をキッチリ数えて押収品リストに加えると宗介にも確認させた。そして、一応の家探しが終わると宗介は再び護送車にダブルチームのマークで乗せられるのであった。


あぁ、まずいなこれは完全に逮捕されるなと宗介は車中で悟ったのだった。しかし、いくら考えても此度の逮捕は納得できぬ部分もある。そこで、宗介はベテラン刑事(でか)に探りを入れてみることにした。


「なぁ刑事さん。俺はどうやら逮捕されるみたいだけど、いまいち納得が出来ないんだよな。あれだろ。美奈のことについてだろ?俺は悪いんだけどもう一週間くらいあいつと音信不通だぜ?一体全体こりゃどういうことだい」


と、先ほどまでの好戦的な態度とは打って変わって低頭(ていとう)に宗介は問うてみた。するとベテラン刑事は、その宗介の改心した様な態度に大いに満足した模様で、いやらしい笑みを浮かべると、得意げに語り出した。


「そりゃそうだろうな。お前が子飼(こが)いにしてた大島美奈はとっくに俺らが捕まえてるからな。まぁ細かい話は署に行って聴くからよ。お前は何を話すのか、よぉ〜く考えとくんだな」


宗介は、何だかこの中年をとっくに過ぎた人生下り坂のジジィの、さも得意げな物言いに嫌悪を遥かに飛び越え、もはや殺意を覚えた。このジジィは、一体何を勘違いしているのか?こちらが下手(したて)に出たことで、勝手に自分が上に立ったとでも思い込んでいるのか?その昭和生まれ特有のマウンティング体質の白痴のごとき短絡さは、もはや人間の機智とは到底思えない。


彼奴(きゃつ)黒猩猩(チンパンジー)ではないのか。思考という機能が全くない。間抜けな木偶の泥人形のようだ!


宗介はこの黒猩々(チンパンジー)面した汚らしいジジィは、見た目同様に人間には到底及ばない知能しか持っていないと一瞬で悟り、一端(いっぱし)に人間ぶってはいるものの、その脆弱な発想たるや国家権力を後ろ盾にしているだけで、実際は皆無であり、なにもこのモノノケにヘコヘコする必要など全くないのだと、自己納得した。


そしてこのような見た目的にも脳味噌的にも終わっている、なにが楽しくて生きているかも分からないような汚らしい老いた類人猿が、立場を勘違いして、宗介のように若い血潮が(たぎ)るインテリジェンスで将来有望な益荒男(ますらお)に、偉そうに振る舞うなど甚だナンセンスであり、可能であれば重厚な花瓶で撲殺して、奥多摩の山中にでも埋めてやりたいと心から思ったのだった。


ただそうは思えど、今は立場が悪い。国家権力を後ろ盾にしている以上は、いくら相手が白痴でも殺して石灰をかけて埋めるわけにはいかないのだ。宗介は奥歯を噛み締めグッと怒りを内に秘め、暫くは緘黙(かんもく)を決め込むこととしたのだ。


警察車両はそのまま、警察署に到着した。到着するやいなや、蜂の巣をつついたように署内から出迎えの大群がでできて、宗介はあれよあれよと署内につれてかれる。


そして、周りを4人のおまわりに囲まれてままエレベーターに乗せられて、階をいくつか上がり、降りた瞬間に、禍々しい書類を眼前に叩きつけられて、これは裁判所の判が押されてるという趣旨の前口上を聞かされた後に


「はい。では○時○分。平賀宗介。恐喝未遂の疑いで逮捕」


と謎の呪文を唱えられたかと思うと、漆黒の腕輪を両の手首にはめられることとなったのだった。このような人生初の経験が跋扈(ばっこ)して(おお)い被さってくる状況に、宗介は何だかこれを他人事のように感じてしまっていた。


しかし両手をつなぐ錠のずしっとした重みは免れることなく彼につきまとい。彼はその重みをもってして、ことの重大さを少しずつ理解していくのだった。



その後は極めて形式張った手順が彼を待っていた。移動時は捕縛紐(ほばくひも)を腰に巻き付けられて、それを手錠にも通された状態となる。これではどうやっても遁走(とんそう)は出来そうもない。さらに常にダブルチームのお巡りが彼を徹底マークのごとく付いて回るのだ。


その後は免許センターの視力測定ルームのような白壁の部屋に通されそこで手錠を一度外され、大型のコピー機のような機会で丹念に両手の指紋を採取される。指を1つずつ、掌をあらゆる角度で、しつこいほどの回数を機械に登録される。それが終わると彼は取調室に通された。


取調室は刑事課の事務所の横に隣接されていた。簡素な窓付のスチール扉が一枚あり、中は遁走を防ぐためか窓も何もない。蛍光灯の灯りだけが空寒く灯されていた。


着席すると、手錠を外されてそれを腰紐をつたわせてスチール椅子の傍にガチャリと嵌められた。両の手はストレスから解放されたが、身体は椅子と一心同体となり身柄わ完全に確保されていた。


「随分とご丁寧な扱いなんですね」


と宗介が初手(しょて)の探りも兼ねて口を開くと、担当の初老刑事は、(わざ)とらしくドカッと彼の前に鎮座して、鷹揚(おうよう)な態度で


「減らず口はいいから、取調べするぞ。こっちは忙しいんだ。ガキのくせにあまり警察を舐めるなよ」と言い放つ。間髪入れず宗介。


「何も俺は話すことなんてないね。そもそもまずは弁護士が来てからだな。あんたらみたいな頭の弱いお巡りじゃ話にならねぇ。とにかく弁護士呼んでくれよ。俺にも人権があるんだから」


「あぁ、どこで覚えたか知らねぇが随分な言い草だな。お前はちっとも立場がわかってねぇな。お前は裁判所からの逮捕状が出てるんだぞ?そんな悪知恵働かさないで、自分の言葉で喋ったらどうだ?ああ?」


「おいおい。なんだか、とてもお巡りとは思えない言い草だな。あんた、俺を脅かしてんのかい?俺は気が弱いから怖くてオシッコ漏らしちゃうぜ?いいのかい?ここで漏らしちゃって?あぁ怖いね。暴力団みてぇだ。拳銃腰にぶら下げてそんな恫喝じみたこと言われたら素人の俺は怖くてしょうがねぇよ」


「俺はお前と遊んでじゃねぇんだよ。おい。話す気ねぇならそれでもいいけどよ。何度も言うけど警察を舐めるなよ。お前の出方次第でこっちだって気分も変わるんだぞ」


「あぁ怖いね。お巡りさん。それじゃあまるで脅しだよ。あぁおっかない。これだから公僕は嫌だねぇ。公僕の分際で気分で国民を邪険(じゃけん)にもするって物言いだね。あぁもう怖いから俺は益々何も喋れねーや」


その瞬間、初老の刑事の傍に立っていた二番手と思わしき体躯の整った大柄なお巡りの何かが臨界点に達したようで、彼は力一杯に机を叩いて容喙(ようかい)してきたのだ。


バンッ


「お前さっきから聞いてりゃ、どんどん図に乗りやがって。俺たちゃお前と遊んでんじゃねーんだぞ、警察舐めるのも大概にしろや」


と怒鳴りつけてきた。通常ならその激しい剣幕に容疑者供は狼狽するのだろうが、爾来から育ちも悪く、怒号舞い飛ぶ環境で育った宗介には、そのお巡りの怒りの態度が、逆にこっちが公僕どもを翻弄している気がして、ますます調子に乗るのだった。


「そのセリフはさっきお前の上司から聞いたよ。てか、てめぇ何怒鳴りつけてんだ馬鹿野郎。俺は確かに裁判所から逮捕状が出てパクられた様だけど、なにもテメェに講釈(こうしゃく)垂れられる筋合いはねぇんだよ。一銭ポリは一銭ポリらしくお茶汲みでもやってろよ。タコが。口挟むな、ボーッと突っ立てねぇで茶でも持ってこいよ一銭ポリが」


この一言は正に会心の一撃だった。宗介はその育ちの悪さから兎に角、根に持つ性格なのだ。本日、事務所の前で捕縛せしめられた折に、この二番手お巡りが、彼を取り押さえる際に、わざわざ大袈裟に首元に肘を突きつけて、痛みを与えた事を彼は許していなかったのだ。そして、この木偶の坊のお巡りがその恵まれた体躯とは裏腹に頭の方は大層に魯鈍(ろどん)である事に気付き、この大馬鹿野郎にはどっかでやり返してやろうと、頑なに決めていたのだ。


宗介の泰然自若(たいぜんじじゃく)な物言いに一瞬だけ取調室の空気が張り詰めた。高揚(こうよう)した二番手のお巡りは宗介を睨みつけた。しかし、そこに割って入ったのはベテランの初老のお巡りだった。


「まぁまぁ、こいつはパクられて動転してるから悪態ついてるだけだ。何もこいつに付き合うことはねぇさ。黙ってたかったらずっと黙っていりゃいい。黙っていたってこいつのやったことは消えねぇんだ」


と二番手のお巡りに向かって喋りつつ、宗介に牽制(けんせい)すると、じゃあお前はあっち行ってろと二番手を事務所に送り返した。そして、もう一人の部下である女刑事を呼びつけて、何か二三言の会話をして、宗介をチラッと見てまた女刑事に何かを告げて事務所に戻した。


「おい。平賀。わかった。お前が喋りたくねぇってことはよくわかった。だから今日はもう何も聞かねぇよ。そのかわり、お前がこれから入るとこの準備がまだ整わねぇから、しばらくここで待機だ。俺は何も聞かねぇけど、お前から目を離すことはできねぇんだ。何か話す気にならなきゃずっと黙ってればいい」


そう告げると、初老の刑事は腕を組んでそこに鎮座したまま閉口した。宗介もまた大股を開きながら鎮座して閉口した。


そのまま、地球の公転と自転をよそに取調室は不動のまま、時のまにまに流されていくのだった。




どれほどの緘黙の時が経ったのだろうか、夕刻を過ぎた頃に、女刑事が取調室に入ってきて、初老の刑事に耳打ちして時間がやっと動き出した。


もう一度宗介は手錠を嵌められると2名体制のお巡りに先導されて、地下の方へ連れて行かれた。そして、重厚な扉を抜けるとこざっぱりした部屋へと通された。


室中には先程の血気盛んな刑事達とは打って変わって、何やら慈愛に満ちたようなお巡りが二人いた。どちらも三十絡みの年の瀬であるようだった。彼らは宗介の衣服を預かる趣旨を伝えると、彼の全て衣服と装飾品を白地の巾着袋に入れて、彼に以前にここに入ってた人間のお下がりだと言う上下のスウェットを貸し与えた。


それに着替えると、この留置施設の説明を一通り話して、彼の名前を没収する旨を伝えて来た。そして、新たな門出を祝う訳でもないが、新たな「6番」と言う名前を宗介にプレゼントしてくれたのだ。


6番はその洗礼のような儀式を一通り受け終わると、今日はもう飯の時間が終わってしまったが、君の分は取ってあると告げられて、その部屋の中で、二人のお巡りに見守られながら久々の食事にありついた。


臭飯(くさめし)はまさに臭飯であったが、空腹の6番には貴重な栄養源であった。6番は冷めきった臭飯を綺麗にたいらげた。


そして、その後にお巡りから既に就寝時間は過ぎてるが、今から留置場の檻の中に君をぶち込むと伝えられた。ちょっと待ってくれと、流石の宗介もツッコミを入れたい気持ちがあったが、なんだか酷く疲れていたので、もう全てがままよという気持ちになっていた。


留置施設は簡素な作りであった。通路の左手には水道がいくつか並んでいて、右側はどうやら牢屋が並んでいるようであった。通路を歩くと牢屋から宗介を品定めするかのような視線をいくつか感じた。闇夜から獲物を狙うような視線であった。


お巡りは彼に布団と毛布と枕のセットを持たせると、今からこの牢屋に入って空いてるスペースに布団を引いて眠るようにと、告げた。明日の朝、また一日の詳しい説明はすると言う感じであった。


そして牢の扉がガチャリと空いた。その禍々しい牢の中に宗介はそっと足を入れた。そして右の手前の空いてる空間に布団を敷いた。背後でガチャリと鍵を閉める音が聴こえた。振り返るとこちら側には取っ手のない扉は不動の壁のように下界を遮断していた。


暗がりの中に二つの布団の影が見える。そのうちの一つがもそっと動いた。


「こんばんは、初めまして。今日はもう遅いからそこで寝てください」


暗闇から聞こえた声は、とても好意的なトーンであった。宗介は久方ぶりの優しいトーンの声色に少しだけ安堵して、ありがとうございます。と返事をして、横になって毛布を被った。


暗い牢屋の中は永遠の闇のような淀んだ深い何かが渦巻いているようだった。監視するためか、格子状になった牢の扉の向こうは蛍光灯が薄明かりを灯している。


なんだかとんでもない事態になってしまったな、と宗介は一日を回願していた。考えが全く追いつかないのだ。なんで自分がここにいるのか、何故こんなことになったのか、明日からどうすればいいのか、そんな鬱積(うっせき)した課題が余りにも跋扈(ばっこ)していて手のつけようもないのだ。


そして、今は何よりも疲れてしまった。人間はどんな状況にあっても腹は減るし、眠気はやってくるのだ。この様な異常自体にあっても、人としての営みを辞めない自分が、なんだかとても浅ましい生き物に思えて来た。


ただ、それすらもどうでもよくなっていくのだ。とりあえず眠ろう。宗介は薄れゆく意識の中で、此度の逮捕の要因となった美奈との出会いを思い出していた。


あぁ、そうかあいつのこんな感じで牢屋にぶち込まれいるのか、何だかかわいそうだな。あいつ元気でやっているかな、元気な訳ないか、などと思いを巡らせてるうちに、彼は虚牢の闇に引きずり込まれる様な、深い眠りへと堕ちていくのだった。



つづく

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