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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 四章 天道是か非か
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美濃異変

 ここで、美濃国の情勢について少し振り返ってみることにする。


 今から四年前――美濃のまむし斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)とその主君である美濃守護・土岐とき頼芸よりのりは、正統なる美濃守護の血筋である土岐家嫡流・土岐頼純(よりずみ)を美濃国から追い出した。


 頼純は、母が朝倉あさくら孝景たかかげ(朝倉氏十代目当主。朝倉義景(よしかげ)の父)の妹であるという縁から、越前朝倉氏を頼った。孝景の大叔父・朝倉宗滴そうてきは、


「朝倉家の血を引く頼純殿が美濃守護になれば、朝倉家が背後から美濃国を操れる」


 と企み、尾張の織田信秀を誘って美濃攻めを実行した。


 土岐頼純を擁する織田・朝倉連合軍は次々と美濃の諸城を落とし、土岐頼芸・斎藤利政主従の運命は風前の灯火かに思われたが……。稲葉山城攻めで利政の罠にはまった連合軍はまさかの大敗北を喫してしまい、美濃の攻防戦は利政の勝利に終わったのである。


 しかし、朝倉家の軍神である宗滴は、転んでもただでは起きぬ老獪ろうかいな勝負師だった。巧みな外交戦略で室町幕府を味方につけ、頼芸・利政主従の味方だった近江おうみ六角ろっかく氏とも講和を結んだのだ。


 頼芸と利政はいくさに勝ったというのに、あっと言う間に孤立してしまった。追いつめられた利政はやむを得ず、幕府の講和勧告を受諾して尾張・越前と和したのである。その講和条件が、


 一つ、土岐頼芸が甥の土岐頼純と和解して、頼純の美濃帰国を認めること。


 一つ、和睦の証として、斎藤利政の娘・帰蝶きちょうを頼純の妻とすること。


 というものであった。


 かくして、利政は宿敵だった頼純の美濃帰還を受け入れ、幼い頃から溺愛して純情可憐な娘に育てた帰蝶を頼純に嫁がせたのである。

 頼純の居城・大桑おおが城へと向かう帰蝶の花嫁行列の中には、帰蝶から実の姉のように信頼されている侍女の深雪みゆきの姿もあった。


 夫婦となった頼純と帰蝶は一年ほど仲睦まじく幸せに暮らしていたようである。

 それが突然、しゅうとである利政によって頼純が殺害されたという。いったい、何があったというのか――。




            *   *   *




「頼純様は土岐家の嫡流じゃ。いずれは室町幕府や朝倉家の後押しで美濃守護就任を目指し、頼芸・利政主従と再び対立することになるだろうとは思っていたが……。まさか、たった一年でこんなことになるとは。蝮は、自分の愛娘を嫁がせた男であろうとも容赦なく殺したわけか」


 尾張に「土岐頼純死す」という急報が入った三日後。

 古渡ふるわたり城の城主館に主だった家臣たちを集めた信秀は、皆の顔を見回しながらそう言った。


 評定の間には、世継ぎの信長、一門衆の織田玄蕃允(げんばんのじょう)秀敏ひでとし(信秀の叔父。信長の大叔父)・織田孫三郎(まごさぶろう)信光のぶみつ(信秀の弟。信長の叔父)、重臣のはやし秀貞ひでさだ平手ひらて政秀まさひで内藤ないとう勝介しょうすけ柴田しばた勝家かついえらが揃っている。


 また、織田伊勢守(いせのかみ)家(尾張上半国の守護代)の一族である犬山城主・寛近とおちかおきな(織田与十郎寛近)とその弟の織田宗伝(そうでん)も評定に加わっていた。二人は美濃に領地が近いため、かの地の武士たちとも交流があり、美濃国の情報通だからである。


「それにしても、あまりにもあっけない。聡明な頼純様ならば、蝮には十分に警戒していたはずです。なぜ、こんなにもあっさりと討たれてしまったのでしょうか」


 信秀に続いてそう発言したのは平手政秀だった。

 織田家の外交官である政秀は、各国の重要人物たちの噂話を集めてその能力や性格を常に分析している。土岐頼純という若き貴公子はいくら相手が陰謀家の斎藤利政でもそんな簡単に殺されるような愚か者ではない、と読んでいたのだが……と不思議に思ったのだ。


「寛近の翁殿。貴殿の耳には何か情報は入ってはおらんのか? 我らの元には、『どうやら頼純殿が死んだらしい』という漠然とした噂しか届いて来ぬ。蝮めがいかにして頼純様を討ったのか、その詳しい経緯が知りたいのだ」


 せっかちな性格の信光が、急かすような口調で寛近の翁にたずねる。


 八十代の高齢(だと皆が思っているが、信秀たちは実年齢をよく知らない)である寛近の翁は、「そうじゃのぉ~……」と間延びした声で呟き、仙人のように長く伸びた白髭を撫でてしばし黙考する。そして、猛烈に短気な信光がイライラして膝を揺すり始めた頃、ようやく口を開いた。


「正直、よく分からん」


「そ、そんなあっさりと……。交流のある美濃の豪族たちからは何か聞いてはおらぬのですか?」


 あっけらかんとした寛近の翁の返答にブチ切れそうになった信光を近くに座る政秀が何とかなだめ、再度問うた。


 だが、翁は「う~ん、それが無理なのじゃよ。なかなか情報が入って来ぬのじゃ」と頭を振るだけである。


「頼純様が長良川ながらがわ河渡ごうどの渡し(現在の岐阜県岐阜市河渡)で討たれた、という噂が三日前までは二、三ほど入って来ておったのじゃがな。今はいっさい噂が流れて来ぬ。それどころか、美濃から旅人の一人もやって来ない。どうやら、蝮めが美濃の街道をあちこち封鎖しておるようで、尾張に向かおうとしている旅人が美濃国から出られなくなっているらしい。当然、我らも美濃の侍たちと連絡を取り合うことができぬ。それゆえ、今のところは『よく分からん』としか言えぬのだ」


「なるほど……。そういえば、大柿おおがき城(大垣城。信秀が三年前に攻略した美濃国の城)からも何の連絡も届いておらぬ。蝮の軍勢が躍起になって道を塞いでいるせいで、尾張の我らに使者を送ることもできないのじゃろう」


 秀敏がう~むと唸り、そう言った。


 前にも書いたが、北畠きたばたけ親房ちかふさ(南北朝時代の公卿)の『神皇じんのう正統記しょうとうき』に「下ノ上ヲ剋スルハ、キハメタル非道ナリ」という一文がある。何の大義名分もなく主家に害をなすのは天道に外れる行為であり、世間の評判を一気に落としかねない。下剋上の代表格とでも言うべき斎藤利政ですら、土岐家の嫡流を殺害したことが天下に知れ渡ったら隣国の大名たちがこぞって美濃に攻め込んで来かねないと恐れているのだろう。だから、美濃国内の混乱が収まるまでは厳しい情報統制を敷いているのだ。


 しかし、信秀たちにとっては幸いなことであったが――街道の封鎖が完了する前に数人の旅人や商人が国境を出てしまったため、曖昧な情報ではあるものの頼純の死はすでに尾張国に伝わってしまっている。利政がこんなしくじりをやらかすということは、今の美濃国はよほど動揺が走っているのに違いない。


「噂が事実ならば、頼純様の仇討ちを大義名分に美濃国に攻め入る好機やも知れぬ。しかし、その前に、もっと確かな情報が知りたい。寛近の翁殿、何か良き策はありませぬか」


 信秀が、じれったそうにそう言った。


 口伝えか手紙でしか情報を得られなかったこの時代、正確な情報を手に入れることほど明日の命を繋ぐのに大事なことはなかった。判断材料となる情報が少しでも間違っていれば、この戦国の世では命を落としかねないからだ。


「……そうじゃなぁ。屈強な武者ならば美濃国内に忍びこむことぐらいは可能じゃろうが……。

 恐らく、蝮は美濃の人々に緘口令かんこうれいを敷いているはずじゃ。頼純様の死について詳しく知っている者と接触することができても、なかなか真実を教えてはもらえないであろうな。誰か、尾張人の我らに頼純様の死の真相を教えてくれるような人物は……う~む」


 寛近の翁は腕組みをしながら考え込み、やがて「おっ、そういえば……」と言った。何か閃いたようである。


「頼純様は大桑おおが城の城下に、南泉寺なんせんじという自らの菩提寺ぼだいじを建てていた。その寺に快川かいせん紹喜じょうきという臨済宗妙心寺派の僧がおったはずじゃ。頼純様と深い繋がりがあったその僧ならば、事の真相を詳しく見聞きしておるじゃろう。

 宗伝よ、同じ臨済宗の僧のよしみで何か話を聞かせてもらえるやも知れぬから、そなたが美濃へ行って来い」


「え⁉ い、いやいやいや! 無理です! 兄上もさっきおっしゃったではありませぬか、屈強な武者でなければ厳戒態勢の美濃に潜入するのは無理だと! 拙僧は自慢ではありませぬが女子供よりも弱いです!」


「しかし、そなたは戦場での逃げ足の速さにだけは定評があるではないか。危なくなったら逃げればよい」


「無理です! 勘弁してくだされ!」


 臆病者の宗伝は、涙目になって猛烈に拒否した。

 宗伝のことが大嫌いな信光は、そんな情けない宗伝の様子を見てフンと鼻で笑っている。


「快川紹喜……。たしか、高名な仁岫じんしゅう宗寿そうじゅ和尚の高弟でしたな。彼は十年ほど前に師の仁岫和尚からいったん独立して尾張葉栗郡に弘済寺(現在の岐阜県笠松町門間(かどま))という寺院を建てていたゆえ、その名は聞いたことがあります。その後、南泉寺を創建した仁岫和尚に同寺へ招かれて美濃に帰ったようですが……。

 聞いた話によると、快川殿は美濃の生まれですが、我が織田軍にいる道家どうけ尾張守おわりのかみ(尾張守は正式な官職ではなく、ただの自称)とは同族だったはず。尾張守を守山の領地から呼び寄せて南泉寺へ送りこめばよろしいのでは? 快川紹喜殿も同族の人間になら何らかの有益な情報を教えてくれるはずですぞ」


「おおっ、さすがは平手政秀じゃ。良いところに目をつけた。道家尾張守はなかなかの豪の者だとわしも聞いておる。美濃国にも無事に潜入できるな。尾張守ならば適任じゃろう」


 寛近の翁が政秀を褒めそやし、上機嫌で白髭を撫でる。


 だが、内藤勝介が少し心配そうに「あの……」と口を挟んだ。


「道家尾張守は確かに武芸の達人ですが、ひどい腰痛持ちで近頃はぎっくり腰になることが多いとか……。美濃の兵と遭遇して戦いになった時、腰がグキッとなったら危険なのでは?」


「それはまずい。美濃で尾張守がぎっくり腰になったら、身の終わり(・・・・・)だな。美濃と尾張なだけに」


 信長が咄嗟とっさに思いついた駄洒落だじゃれを口にしたが、ほぼ全員が聞き流(スルー)した。柴田勝家だけがツボにはまって「ぐふっ……」と苦しそうに笑いを堪えている。


「……よし。ならば、最初槍はなやりの勇者を尾張守に同行させよう。我が軍最強の猛者がついていれば、美濃兵に捕まることなど絶対にあるまい」


 信秀は素早くそう決断すると、最初槍の勇者・織田造酒丞(さけのじょう)信房のぶふさを評定の間に呼び、美濃行きを命じた。


 かくして、造酒丞と道家尾張守の二人は、南泉寺の快川紹喜と接触するべく美濃へと潜入したのであった。


 快川紹喜――後に武田たけだ信玄しんげんに招かれて武田家菩提寺・恵林寺えりんじの住職となり、武田滅亡の際には織田軍に寺を焼かれて「心頭しんとう滅却めっきゃくすれば火もまたおのずから涼し」の言葉とともに焼死した高僧である。

<快川紹喜の出自について>

快川紹喜の出自については道家氏説の他に、土岐氏説や斎藤氏説があります。この物語では、横山住雄氏の道家氏説(参考:横山住雄氏著『武田信玄と快川紹喜』(戎光祥出版刊))を採用しました。

尾張の道家氏は織田家に古くから仕えていましたが、快川紹喜の父やその一族は美濃斎藤氏の重臣だったようです。

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