虎七郎失踪
寿桂尼の竹千代誘拐計画は、こうして大失敗に終わった。
しかも、作戦実行にあたった御宿虎七郎は生死不明。伊賀の上忍・藤林長門守もなぜか戻って来ない。寿桂尼は自分の手駒を一気に二人も失ったことになる。
「長門守は近頃私に反感を抱いていたようなので、逐電したのやも知れませんね。
虎七郎は……織田方に討ち取られたのでしょう。役立たずにもほどがあります。人質にしていたあの男の娘は利用価値が無くなったことですし、殺すしかないですね」
二度も任務に失敗して消息を絶った虎七郎の不甲斐無さに、寿桂尼は激怒した。そして、その怒りの矛先は虎七郎の愛娘であるお万阿に向けられることになったのである。
「お万阿を私の部屋に連れて来なさい」
寿桂尼は侍女の一人にそう命じ、金箔で装飾された蒔絵が見事な手箱から明国渡来の薬を取り出した。
明の九代皇帝・憲宗(成化帝)の妃である万貴妃が政敵を毒殺する時に使っていたと伝わる猛毒である。これを菓子に混ぜてお万阿に食べさせるつもりだった。
この薬は口にしてもすぐには症状が出ず、しばらく経ってから急に苦しみ出してコロリと死ぬため、暗殺者が疑われずに済む。
「ごめんなさいね、お万阿。今川家の益にならぬ者たちは、みな殺さねばならないのです。
……虎七郎。恨むのならば、主命を二度もしくじったおのれの非力さを恨みなさい。あなたの娘は、あなたが役立たずだから死ぬのですよ」
お万阿が部屋に現れるのを待つ間、寿桂尼は毒が入った京菓子を見つめながら冷徹な声でそう呟くのであった。
しかし、いつまで経ってもお万阿がやって来ない。いったいどうしたのだろうかと不審に思っていると、お万阿を呼びに行かせた侍女が慌てふためいて部屋に駆けこんで来た。
「じゅ、寿桂尼様。一大事でございます」
「何事ですか、騒々しい」
「お万阿殿が消えました。屋敷内のどこを捜しても見つかりません」
「何ですって……。そうか。虎七郎めの仕業ですね。あの役立たずめ、そういう悪知恵は働くのですか」
寿桂尼は苛立たしげにそう言うと、唇をキュッと噛んだ。
虎七郎は、自分が任務を失敗して駿河に帰還できなかったら娘が寿桂尼によって殺されることを予測していたのである。それゆえ、もしもの時にはお万阿を今川館から脱出させる手はずを整えていたのだ。
「か弱い少女の足でそんな遠くには逃げられないはず。今川家中の誰かがかくまっているのでしょうが……」
寿桂尼に命を狙われたお万阿をかくまうということは、寿桂尼の権威に恐れを抱かぬ大物に違いない。
今川家で寿桂尼と肩を並べるほどの発言権を持つ人物といえば、義元の師である太原雪斎ぐらいだ。雪斎は寿桂尼に睨まれている御宿家に前々から同情的だったので、彼がお万阿をどこかに隠しているのだろうか……?
(そうだとしたら、今は余計な手出しはやめておいたほうがいいですね。義元殿は、産みの母である私よりも、心の父と言うべき雪斎を信用している節がある。虎七郎の娘をめぐって私と雪斎が対立したら、義元殿は雪斎の肩を持ちかねません。あんな小娘ごときのために我が子との間に大きな溝ができたら嫌ですから)
すでに、寿桂尼は血の繋がった息子二人を地獄に葬っている。それは全て今川家の繁栄のためであり、自分の子供の中で最も優秀な義元を当主の座に据えるためだった。おのれの母としての良心、人間としての理性を擲って長男の氏輝と次男の彦五郎を生贄にし、今川家を守ったのだ。寿桂尼はそのつもりだった。
そうやって多くの大事なものを犠牲にして失ってきた彼女には、もう義元しか心の拠り所が残されていない。義元とだけは良き親子関係を保ちたかった。
「……役立たずの男の娘のことなど、潔く諦めましょう。私にはやらなければいけないことが他にもたくさんあります。虎七郎、長門守という二人の駒を失った今、次はどのような策略を織田家に仕掛けるべきか……」
寿桂尼は執念深い性格だが、家臣の娘の始末よりも織田家との抗争のほうが何十倍も大事なことはちゃんと理解している。お万阿殺害はキッパリと諦め、新たなる謀略のために思案を巡らせるのであった。
* * *
一方、その頃。尾張国の鎌倉街道から少し外れたとある山中において――。
「う~む、まずい……。実にまずい。半年ほど領地を留守にするつもりが、各地にいる弟子たちの元を訪れて剣の稽古をつけていたら、知らぬ間に一年が経っていた。絶対に家臣たちに怒られるな……」
剣豪・塚原新右衛門(卜伝)が浮かない顔をしながら険しい獣道を歩いていた。整備された街道ではなく急峻な山道をわざわざ選んでいるのは、おのれの肉体を鍛えるための修行の一環である。
新右衛門は、今川義元の依頼で、但馬の生野銀山へ遣わした今川家の家臣たちの護衛をしていた。
その任務を無事に果たすと、新右衛門は故郷の鹿島にすぐには戻らずに西国にいる弟子たちと剣術修行に熱中していたのである。
熱中しすぎて、気がついたら一年の歳月が流れていた。新右衛門はこれでも塚原城の城主だ。さすがに自分の城を一年も放置したのはまずいなと思い、慌てて故郷に帰還しようとしていたのだった。
「さてさて、家臣たちにどんな言い訳をするかな。もういっそのこと故郷に帰らず、このまま廻国修行の旅に出るのは……さすがに無責任すぎるか。家を継がせる養子をちゃんと迎えねば、本格的な修行の旅には出るなと家臣たちからしつこく言われているからなぁ。う~む、どうしたものか。おや? こんな山道で人が倒れておるぞ」
新右衛門はずだぼろの姿で行き倒れている侍を発見して、「おぬし、いかがいたした! 大丈夫か⁉」と叫びながら駆け寄った。
抱き起こすと、顔の左半分が焼けただれて酷い有様になっていた。額や右頬、体のいたるところに刀傷がある。
「しっかりせい! おぬしはどこの家の武士だ⁉」
「う、うぐぐ……。お……お万阿……」
「……おお、酷い怪我のわりには息はしっかりしておるようだな。傷薬ならばたくさん持っている。今すぐ治療してやるぞ」
「そ……それよりも、俺をこの尾張から……連れ出してくれ。み、三河も矢作川より西は駄目だ……。もっと東へ、東へ逃げねば……。あの若者に……信長に殺される……」
「信長? 信長というのは、織田信秀の嫡男の三郎信長のことか? 詳しい事情は分からぬが、織田家の者たちに追われているのだな?
ならば、私がおぬしを守って脱出させてやろう。もしも行く場所が無いのなら、我が領地でしばらくかくまってやってもよいぞ。傷つき倒れた者を導くために、我が活人剣はある」
「あ……ありがたい。貴殿の名は?」
「我が名は塚原新右衛門じゃ。……今は無駄話をしている場合ではない。とりあえず、どこか休める場所を探して怪我の手当をしよう」
こうして、寿桂尼の知らないところで、御宿虎七郎は天下無双の剣豪に拾われていた。
傷だらけの虎七郎が今川軍に復帰するのには、しばらくの時間がかかることになる。彼もまた、運命の決戦「桶狭間」へと導かれていく戦士の一人であった。




