桶狭間村の泉
賊の捜索は困難を極めた。
信長たちは御宿虎七郎が落下した崖の下を捜したが、そのあたりは背の低い松の木や雑木が多い桶狭間山でも特に木々が鬱蒼と生い茂っている場所だったのである。一人や二人ならまだしも、大人数で分け入ったら賊の捜索どころか下山することすら一苦労であった。
信長が年老いた百姓から聞いた話によると、このあたりはかつて猿投窯(古墳時代後半~鎌倉時代初期まで愛知県で続いた日本三大古窯の一つ)の焼き物生産のために木々が大量に伐採されていたらしい。
その後、ろくに整備されぬまま時が流れ、松やら雑木やらが雑然と生えて人馬の往来が難しい山になったのだという。だから、地元の人間が知っている限られた山道を使わず慌てて下山などしたら、雑木にぶつかったりして怪我をするのだ。
「チッ……。大汗をかきながら山を下りてついに麓まで来てしまったが、全く見つからぬ。今川家の犬め、いったいどこにいるのだ」
「信長様。もしかしたら、奴はあれだけ傷を受け崖から落ちても、いまだ力尽きてはおらず、すでに桶狭間山から脱したのやも知れませぬぞ」
加藤全朔にそう助言され、信長は「デアルカ……」と呟きながら難しい顔をした。
すでにあたりは夜の帳が下りている。このままでは賊を取り逃がしてしまうかも知れない……。
「雨まで降ってきました。この視界ではもはや……。竹千代殿は無事に保護したことですし、賊の捜索はいったん取りやめませんか? もしかしたら、鎌倉街道を封鎖している近藤景春殿が賊を捕えてくれているかも知れませんし」
「いや、もう少し捜索しよう。あれだけの大怪我を負っているのだから、まだこの桶狭間近辺にいるはずだ」
信長は諦めきれず、地元の百姓たちに道案内をさせて周辺の土地を捜索した。
しかし、山を下りた後も桶狭間の特殊な地形が信長の邪魔をしたのである。
「おい、百姓たち。ここはやたらと足場が悪く、まわりは草木がぼうぼう生えていて、ひどい場所だな。歩きにくくて仕方ないぞ」
「へ、へえ、申しわけありませぬ。このあたりは田楽狭間や田楽ヶ窪など、窪地が多いのです。雨が降ると道がぬかるんで、儂たちもよく転んでしまいます。若殿様も、くれぐれも足元にはお気をつけください」
などと信長と百姓たちが会話している間に、横で千秋季忠が「うわー⁉」と盛大に転んでいた。
水野家の兵や近藤家の兵たちも、泥田に足がはまってしまい、とても歩きにくそうにしている。一人で逃走している今川家の隠密ならば難儀しながらも何とか進めるだろうが、大人数がまとまって行動できるような場所ではない。
「……う~む。桶狭間山の中腹あたりまで登った時には、ここは見晴らしがよくて総大将の本陣を置くには適所であるなと思っていたが……。あの山を中心にしてこの近辺の土地に陣形を布くのは危険極まりないな」
信長は周囲を見回しながら、そう呟いていた。
見たところ、このあたりは丘陵地が多い。軍勢を配置した場合、山間部に細長く展開せざるをえないだろう。必然的に、各部隊が桶狭間山にいる総大将を守るための連携した行動が取りにくくなる。それは、防御力の面で致命的な欠陥がある布陣と言っていい。
また、桶狭間山の本陣が敵の猛攻を受けて万が一敗走するようなことがあれば、木々が雑然と生い茂るあの悪路の山を這う這うの体で下りることになる。
何とか無事に桶狭間山から脱することができたとしても、桶狭間周辺の湿地帯や沼地が退却を阻み、敵軍にさらなる追い討ちをかけられる危険性が高い……。最悪の場合、総大将の部隊は壊滅してしまうだろう。
「これは現地の民たちに聞かねば分からぬことだな。一つ勉強になった」
ため息をつきながら、信長はそう独り言ちた。
これだけ捜して見つからないということは、あの今川家の隠密は別の方角へと逃げたのに違いない。今から別の場所を捜すにしても、この沼地から脱け出すのには時間がかかる。もう諦めるしかないだろう。
織田家の勢力内であるこんな場所で大きな戦が将来起きるとは思えないが、軍の布陣に関する教訓を学ぶことができたのだ。この失敗は無意味なことではない。信長は自分にそう言い聞かせ、賊の捜索隊の解散を告げる決心をするのであった。
* * *
賊の捜索を切り上げた信長一行は、百姓たちに案内をさせて桶狭間村の長福寺に入った。
竹千代を今川家の隠密から奪い返した旨を報告する使者はすでに古渡城の信秀の元へ遣わしているため、織田家の兵たちが迎えに来るまでこの寺で休息するのである。
桶狭間村は、村人たちの話によると、南北朝時代に南朝方の落ち武者たちがこの地に逃げて来て集落を作ったのが始まりだという。
「信長様、竹千代様、喉がお渇きになったでしょう。ぜひ、我が寺にある泉で喉を潤してください。こちらの泉は大昔から一度も涸れたことがなく、桶狭間村の村人や旅人たちにとっては命の水なのです」
長福寺の住職である善空南立和尚は、いきなり大人数で押しかけて来た信長たちに対して嫌な顔一つ見せずに、人のよさそうな微笑を浮かべて信長と竹千代をもてなした。
この寺は善空南立がほんの九年前に創建したばかりなので、まだ新しく、田舎の寺にしてはなかなか小綺麗である。桶狭間合戦時にはこの寺が今川義元の首実験の場となるのだが、今は静寂に包まれた名も無き寺に過ぎない。
「ありがたい。お言葉に甘えて頂こう。……おお、水がどんどんと湧いておるな」
「はい。泉に桶を浮かべると、湧水の勢いで桶がクルクルと廻ります。それゆえ、この地は、『桶が廻っている間、泉の水で一休みできる場所』ということで、『桶廻間』と昔から呼ばれているのだそうです(江戸時代の文書も多くは『桶廻間』と表記しており、『桶狭間』となるのは明治期に入ってかららしい。ただし、ややこしいのでこの物語では『桶狭間』表記で通す)」
「それは面白そうだな。竹千代、水汲み用の桶で遊んでみるか」
信長は竹千代の頭をちょいちょいと雑に撫でると、その小さな手を引いて泉の前に立った。
信長たちが長福寺の門をくぐった頃にはすでに雨が上がっており、小さな泉には信長と竹千代の顔、そして夜空の星々が映っている。
「ほら、竹千代。桶じゃ。お前が泉に浮かべてみろ」
「は、はあ……」
竹千代は言われた通りに手渡された桶を泉に落とす。
すると、本当に、泉の上でくるりくるーりと廻り始めた。こまっしゃくれた性格の竹千代もこれには目を見張り、「わっ、不思議だ……」と小さく声を上げていた。
「どうだ、竹千代。面白いか?」
「はい! ……あっ。いや、その、別にこれぐらい何とも思いませぬ。桶がクルクル廻っても、たいして面白くなんかありません」
「ハッハッハッ。小生意気で可愛い奴め。これからは、弟分としてこの信長がたまに遊んでやろう」
信長は優しげに笑いながら、竹千代の頭をわしゃわしゃとまた撫でた。扱いが完全に犬猫である。
しかし、父の松平広忠にすら「可愛い」などと一度も言われたことがなかった竹千代は、
(私みたいな小憎らしい子供のどこらへんが可愛いんだ……?)
などと戸惑い、何だかむず痒い気分になっていたのであった。
(何なのだろう、この信長という人は。優しい時と恐い時で印象があまりにも違う。今川家の隠密と戦っている時は、地獄の鬼かと思うほど残酷で恐ろしかったというのに……。
私のことは『織田家に従っている松平家の嫡子』……つまり、味方だと思っているからこんなにも優しく接してくれるのだろうか?)
織田弾正忠家の次期当主であるこの少年についてよく知らない竹千代は、そんなふうに信長の優しさの理由を推察していた。
その想像は半分正しかったが、理由はもう一つある。
わずか三歳で母親と引き離された竹千代のことを、幼い頃から父・信秀の意向で母・春の方と離れ離れに暮らしていた自分の境遇と重ね合わせ、同情心や仲間意識にも似た感情を抱いていたのである。こいつは俺と同じだ、せめて尾張にいる間は弟分として可愛がってやろうと――。
しかし、いくら竹千代が賢い子供でも、そんな信長の心理を奥深くまで読み取ることなど不可能である。
(あの今川家の隠密みたいに顔に大火傷を負わされるのは嫌だから、このお方には憎まれないように……味方だと思ってもらえるように、なるべく仲良くしておこう。味方でいるかぎりはとっても頼れる強い人みたいだし)
そんなふうに、怯えと憧れが入り混じった感情を信長に抱くのであった。この瞬間に、竹千代――後の徳川家康が織田信長に対して貫き通す姿勢が決定したと言っていい。
かくして、二人の英傑は邂逅した。
まだ先の話だが――信長と竹千代が初めて出会ったこの運命の地・桶狭間が、十三年後に敵味方として戦場に立っていた二人の絆を再び繋ぎ合わせることになるのである。
<桶狭間山について>
「桶狭間山に松の木や雑木が生えていて行き来が困難であった」という描写は、『現代語訳 信長公記 天理本 首巻』(訳・解説:かぎや散人 出版:デイズ)を参考にしました。
かぎや散人氏は本書の解説部分で、
「64・9mの山頂の義元本陣の周囲は、北・東・南の全てが七百年余の長きに渡って猿投窯の燃料として立木が伐採され尽くしていたために矮松と雑木が生い茂っており、道などはなく、踏破による撤退は困難を極めた」
と記しています。
ただし、「桶狭間山がどこにあったのか」というのは現在でも説が分かれており、豊明市は豊明市内の山(標高64.9mのほう)、名古屋市緑区は緑区内の山を推しています。
<「桶廻間」の地名の起源について>
泉の湧水で桶がクルクルと廻って「桶廻間」と名づけられた、という伝承については主に『「道」で謎解き 合戦秘史 信長・秀吉・家康の天下取り』(著:跡部蛮 出版:双葉社)を参考にしました。




