竹千代奪還
「見つけたぞ! 者共、あの狸顔の子供を連れている賊を捕えるのだ!」
「くっ……。お、追いつかれてしまった。藤林長門守め、織田家の武将の暗殺にしくじったのか⁉」
桶狭間山の中腹あたりで伊賀忍者を退けた信長一行は、人馬も分け入り難い道なき道を現地の百姓たちの案内で駆けのぼり、急峻な崖がある山頂で御宿虎七郎をとうとう追いつめていた。
この時点で沓掛城の近藤景春の兵たちも信長一行に加わっていて、桶狭間山は大捕り物の舞台となっていた。
水野家の兵、近藤家の兵は槍衾を築きつつ虎七郎にじわじわと迫りつつある。近隣の百姓たちも刀や槍、鍬など思い思いの武器を手に持ち、「手柄を立てて恩賞の三貫文を手に入れるんじゃ!」といきり立っていた。
また、大捕り物を見物しようと女子供たちまでついて来ていて、彼ら彼女らは信長の命で松明を手に手に持っていた。
さっきまで晴れていた空が雲に覆われ、山中の視界はだんだんと悪くなってきている。また、ここは低い松の木や雑木が鬱蒼と生い茂っており、非常に暗い。せっかく追いつめた賊を暗闇のせいで取り逃がさないように、松明で周辺を真昼のごとく明るくさせたのである。
「あの美貌の少年は……織田三郎信長ではないか。織田の子倅め、銭で釣って大勢の百姓を駆り出すとはなんて奴だ」
虎七郎は顔を黒い布で覆って何とか正体を隠そうとしている。
信長は、初陣の敗走中に織田軍を襲撃して自分の家臣をたくさん殺した賊の頭目(虎七郎)のことを大いに恨んでおり、「お前を八つ裂きにしてやる」と宣言していた。ここで顔を見られたら、執念深い信長がどんな恐ろしい復讐をしてくるか分からない。
虎七郎はそう警戒していたわけだが、信長のそばには獣並みに鋭い勘を持つ千秋季忠(あれから信長に叩き起こされた)がいる。虎七郎をひと目見ただけで、季忠は「もしかして……」とその正体に気がついた。
「信長様。あの長身痩躯の男、道場山で我らを襲った賊徒ではありませぬか? あの隙のない刀の構え方、虎狼のごとき殺気……。間違いありませぬ、あの時に遭遇した敵です!」
「……ほほう。そういえば、あいつも長身痩躯であったな」
信長の目がギラリと光る。
次に会ったら絶対に報復すると胸に決めていた憎き敵が、目の前に現れた。これはもう、是非とも捕まえてなぶり殺しにしてやるしかあるまい。信長は凄絶な笑みを浮かべながら、そう思った。
「道場山で会って以来だな、今川の犬よ。正体はバレバレだぞ、竹千代をこちらに渡せ」
(くそっ。どうやら、あっさりと見破られてしまったようだな)
バレてしまったのなら顔を隠している意味はない。虎七郎は顔の布を潔く取り払った。
現在の虎七郎の不利は、決定的と言っていい。
竹千代が信長側に逃げ出さないようにその腕をしっかりと握っているため、片手で刀を振るうしかない。これだけの人数に囲まれて、血路を切り開くのは不可能に近かった。もはや万事休す、である。
(……いや、まだだ。ここで諦めてなるものか。娘のお万阿の顔をもう一度見るまでは死ねぬ。この窮地を切り抜けるためならば、何だってしてやる)
虎七郎は竹千代の喉元に刃を突きつけ、「動くなッ」と鋭い声で叫んだ。
「一歩でも動いてみろ。松平家の嫡子の首を刎ねるぞ」
一か八かの恫喝だった。
しかし、信長の表情はピクリとも変わらず、動揺している様子はいっさい無い。フンと鼻で笑い、
「竹千代の命を盾にしたら、我らが黙ってお前を逃がすと思ったか? 甘いぞ、今川家の犬。お前に見す見す竹千代を連れ去られるぐらいなら、俺はここでお前ごと竹千代を討ち果たす」
信長は甲高い声でそう宣言すると、そばにいた近藤家の兵から弓矢をふんだくり、矢をつがえて竹千代に狙いを定めた。
「あっ……! た、竹千代様に何を……」
松平家の侍たちが慌てた声を上げた。
信長は意に介さず、狼狽えるな、そこで黙って見ておれ、と一喝する。
「な、何を言うか。これが黙って見ていられるはずが……」
「三河の方々、信長様を信じるのです」
そう言って松平家の侍たちを手で制したのは季忠だった。勘が鋭いこの武闘派神職は、信長が考えていることを何となく察しているらしい。
(竹千代を失ったら困るのは、織田も今川も同じだ。お互いに殺せるはずがない。奴が虚勢を張ってきたから、俺も強気を装っているだけのことよ。ここで弱気を見せたほうが負けなのだ)
キリキリと弦を引き絞りつつ、信長は抜け目なく虎七郎の顔色を読む。
敵も困難な隠密任務を任されるだけのことはあって、なかなかの胆力のようだ。今のところ、焦りの色を顔には出してはいない。しかし、竹千代と弓矢を構えている信長の間で視線をチラチラとさ迷わせ、信長が万が一にも矢を放った場合には竹千代を庇おうと身構えている様子だった。
信長は虎七郎が竹千代を殺せるはずがないと完全に踏んでいるが、虎七郎のほうは「あの気性の激しい若造なら、もしかしたら竹千代を殺しかねない」と恐れているのは明白である。
敵の心理を読み間違えて余計な心配に集中力を削ぐ愚行――そこに隙が生じるものなのだ、と信長は父の信秀から教わっていた。
(戦いの最中に一瞬でも迷いを見せたほうが不覚を取る! もらったぞッ‼)
信長は、狙いを変えぬまま、矢をピュッと放った。
市川大介という弓術の名人から指導を受けている信長の狙いは非常に正確である。過たず矢は竹千代めがけて飛んだ。
「うええっ⁉」
幼児のわりには図太い性格の竹千代は、今川方も織田方も自分を本気で殺すつもりなどあるものかと高をくくっていたらしい。宣言通りに矢が飛来して、思わず悲鳴を上げた。
「ちぃっ……!」
虎七郎は咄嗟に竹千代を突き飛ばし、矢を避けさせる。その直後、信長の矢は虎七郎の左腕にぐさりと刺さった。
「フン、馬鹿め。俺は竹千代の頭上ぎりぎりを狙ったのだ。助けなくても竹千代は死ななかったぞ」
「な……何だと⁉」
「それ、あの賊を捕えろッ! 奴は片腕を負傷しているからまともに戦えない! 百姓たちはあの狸顔の子供を保護しろ!」
まんまと信長の術策にはまった虎七郎は、自分が突き飛ばして数歩先で倒れている竹千代を確保することも、腕に刺さった矢を抜くゆとりもないまま、水野家の兵や近藤家の兵に襲いかかられた。
道場山で信長隊を恐るべき強さで追いつめた虎七郎も、左腕と左足が負傷していたらその実力の半分すら発揮できない。兵たちが突き出して来る槍を何とか必死にかわしはしたが、防戦するだけで精いっぱいだった。
(俺は、こんなにも、弱かったのか。俺はこれまでに寿桂尼様の命令で天道に背く行いばかりしてきた。外道に堕ちた我を、天が見放したということなのか……?)
武士は戦時ならば勝つために何をやってもいい。しかし、平時においても、虎七郎は寿桂尼の刃となって罪なき者たちを――謀反の疑いをかけられた人々を殺めてきた。今回も、何の罪も犯していない六歳の幼児を誘拐しようとした。いくら娘のお万阿を助けるためとはいえ、正義のない残酷の剣を振るい続けていたら天に見捨てられるに決まっている。
(愚かなり、御宿虎七郎。……だが、ここで犬死するわけにはいかぬのだ。娘とまた会いたい。武将として名をあげる夢も捨てられぬ。寿桂尼様にいいようにこき使われて終わる人生であってなるものか!)
俺が死ぬ時刻はまだ到来していない。
虎七郎はそう思い、死に物狂いで戦った。大乱戦である。虎七郎の手負いの獅子のごとき気迫に、兵たちは何度か怯みかけたが、信長に叱咤されると勢いを取り戻し、一人の槍兵が虎七郎の右肩めがけて槍を突き出した。虎七郎は身をひねらせてぎりぎりで回避する。しかし、
「一撃入魂じゃぁーッ‼」
「よくも竹千代様をさらってくれたな! 死ねい!」
千秋季忠と松平家の侍の一人が同時に斬りかかって来て、よけきれなかった虎七郎の顔に季忠の刃が掠めた。右頬からドバっと血が噴き出す。
「お……おのれ……」
ふらついた虎七郎の視界の端に、織田方に保護された竹千代が見える。
百姓たちは「銭三貫文は儂のものじゃ!」などと怒鳴り合って竹千代の小さな体を引っ張り合っていたが、竹千代が「痛い、痛い」と泣き喚いているのを見て慌てた加藤全朔が、
「こ、こら! 竹千代殿の体が千切れるから引っ張るな! 現時点で竹千代殿の体に触れている者たちにはちゃんと褒美をやるからやめるのじゃ!」
と、百姓たちを叱っていた。
「竹千代はすでに奪い返され、俺は満身創痍……。もはや任務は果たせぬ。またもや織田信長にしてやられたか!」
「言ったであろう? 必ず八つ裂きにしてやると」
背後で声がして、後ろを取られたかと焦った虎七郎は慌てて振り向いた。次の瞬間――。
「あ……あぎゃぁぁぁ‼ ひぎぃぃぃ‼」
顔の左半分に灼熱の激痛が走った。皮膚が焼けている。信長に松明を投げつけられたのだ。
そこまでやるか畜生! と叫びたかったが、悲鳴しか出ない。泣き喚きながらのたうち回っている内に、四方八方から斬りつけられた。
「ぐ……ぐあがががぁぁぁ! お万阿ぁーっ! お万阿ぁーっ!」
愛娘の名を叫びながら、虎七郎は刀を滅茶苦茶に振り回す。目の前が真っ暗で何も見えない。
このような地獄をなぜ自分が味わわなければならないのか。
信長という少年は、敵に回った者に対してここまで徹底的に残酷になれるのか。
寿桂尼様などよりもずっと恐ろしい……!
「うわぁぁぁ! うわぁぁぁ! あああああーーーっ‼」
激痛があちこちに走り、だんだん麻痺してきた。虎七郎は気が狂う寸前だった。
織田方の兵たちは、絶叫して白目を剥きながら刀を打ち振る血まみれの獣に尻込みして、わずかに後退する。虎七郎が逃げる道を作ってしまった。
火傷の痛みと恐怖で意識が吹っ飛びそうになっている虎七郎は、訳が分からないまま、兵たちが作った逃げ道を絶叫しながら駆けていく。自分がいま何をやっているのかも分からなくなりかけていた。
「逃げても無駄だ! そっちは崖だぞ! 者共、かかれ!」
信長に怒鳴られ、兵たちは慌てて虎七郎を追いかけた。
数人の兵士が、崖の近くで虎七郎を追いつめ、背中に斬りつける。
「ぐがぁ‼」と虎七郎は獣のごとく吠えて振り向きざまに刀を振ったが、空振りに終わった。
その直後、水野家の兵が虎七郎にもう一太刀浴びせた。虎七郎は額から鼻のあたりにかけて浅い傷を負い、ぐらりとふらつく。そして――。
「あっ、しまった! 崖に落ちた!」
季忠がそう叫んだ。満身創痍の虎七郎は山の斜面をゴロゴロと転がり落ちていったのである。
「慌てるな。どうせ山の中腹か麓あたりで見つけられるだろう。我らも山を下りつつ奴を捜すぞ。すでに死んでいたとしても、死体は回収するのだ」
信長は百姓たちにさらにたくさんの松明を用意させ、山中を捜索させた。
だが、ここで初めて信長の読みが外れることになった。いくら捜しても、今川家の隠密の姿は見つからなかったのである。




