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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 四章 天道是か非か
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伊賀忍者・前編

 御宿みしゅく虎七郎とらしちろうは、信長の思惑通り、桶狭間おけはざま山の山頂へと追いつめられつつあった。


「小便がしたくなってきたぞ。背から降ろせ。早くしろ、漏れる」


「チッ……。俺の背中でしてもいいから少し黙っていてくれ。こんな状況で立ち止まれるわけがないだろう」


 四方八方から百姓たちのわめき声が聞こえる。彼らはまき狩り(鹿や猪を大人数で狩る大規模な狩猟)で獣を追い立てる勢子せこの役割を果たしているのだ。織田家の何者が指揮を執っているのかは分からないが、虎七郎を猪に見立てて捕えようとしているのは明らかである。敵の術策に自分がはまっていることに虎七郎も途中で気づいたものの、事ここに至ってはただひたすら逃げる以外に選択肢はなかった。


長門守ながとのかみ殿! 百姓どもに指示を与えている織田方の武将を暗殺して来てくれ! そうすれば百姓たちの統率が乱れて、この山から脱する隙が生じるはずだ!」


 伊賀忍者たちの姿は見えないが、竹千代の身を守るために近くにはいるはずだ。虎七郎は必死の思いでそう叫んでいた。

 この窮地を脱しなければ、またもや任務は失敗である。駿府すんぷ館で人質にとられている娘のお万阿まあ寿桂尼じゅけいにによって殺されてしまうかも知れない。絶対にしくじるわけにはいかなかった。


「……たかが今川家の一家臣の分際で、伊賀の上忍であるこの俺に頭ごなしに命令を下すな」


 藤林ふじばやし長門守の苛立った声がどこからともなく降ってくる。自尊心が著しく高いこの男は、気に食わない仕事だと寿桂尼の命令通りに動こうとしないことが近頃増えつつあった。だから、あの寿桂尼ですらこの凄腕の上忍に単独で重要任務を任せることができず手を焼いているらしい。


 お前こそたかが忍びのくせに……と虎七郎は内心毒づいたが、今は喧嘩をしている場合ではない。「頼む! そなたも今川家に仕える忍びならば、義元様の御為に働いてくれ!」と主君の名前を持ち出して懇願した。


 傲岸不遜な長門守は、寿桂尼のことは大嫌いだが、今川義元のことは明君として敬う心はいちおうあるらしい。「フン……。義元公の名を出されたら断りづらいな」と呟くと、百姓たちの先頭に立って虎七郎を追跡している織田家の武将の元へと向かうのであった。


 ただ、長門守もその武将が織田信秀の嫡男・信長であることまではまだ知らない。




            *   *   *




「それそれ、獲物はもう目の前だぞ。この調子で賊を追いつめろ」


 信長はそう怒鳴ると、鉄放を再び撃った。


 大高城の水野兵も加わり、獣追いは大規模なものになっている。


 賊が桶狭間山にいることは沓掛城にも早馬で知らせたため、城主の近藤こんどう景春かげはるも少数精鋭の兵を率いて駆けつけてくれることだろう。どの城主たちも、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信秀に対する忠誠心を示すために一生懸命なのである。


(織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家の威光をめるなよ、今川家。尾張国内で好き勝手させてなるものか)


 竹千代強奪の命令を下した寿桂尼本人もかなり厳しい作戦であることは想定していたが、信秀に従う豪族たちの結束力の高さがここまで凄いとは考えていなかっただろう。

 武将たちは頼もしき名君の元に集まるものなのである。信秀の威勢が続く限り、敵の間者が尾張国内で小手先の謀計を巡らせることは困難と言っていい。


「信長様、気をつけてくだされ! 妙な殺気を感じまするぞ!」


 野生の獣なみの直感力を持つ千秋せんしゅう季忠すえただが、信長に注意をうながした。

 この武闘派神職は、山口やまぐち教継のりつぐの忍びですら察知することができなかった伊賀忍者の気配に気づいたらしい。


「そこだ! うおりゃぁぁぁ‼」


 季忠は怒声を発しながら脇差わきざしを抜き放ち、頭上の木の幹めがけて投擲とうてきした。


「うげっ!」という悲鳴とともに、黒装束を身にまとった男が落下する。藤林長門守の手下の一人である下忍だった。


「ぐっ……。うおおお‼」


 胸のあたりに脇差が刺さって死んだかと思われたその忍びは、どうやら奇跡的に急所を外れていたらしい。獣のごときうめき声を上げながら立ち上がり、近くにいた加藤かとう全朔ぜんさくに斬りかかろうとした。


「う、うわわ!」


「全朔入道殿、お下がりあれッ‼」


 季忠は太刀を抜きながらバッと前へ躍り出て、手負いの忍びの一撃を軽々と弾いた。そして、返す刀で振り落とし、自慢の怪力で忍びの頭をかち割った。忍びは今度こそ絶命して、頭から大量の血を噴き出しながらたおれる。


「ほほう……。織田家にもそれなりの人物がおるらしいな。ならば、この術は防げるかな?」


 山中に不気味な声がこだまする。「何だ、何だ? 敵国の忍びどもめ、どこから攻撃して来るつもりだ?」と水野家の兵や百姓たちが警戒していると、どこからともなく火のついた紙縒こより(和紙を細く裂いてひねり、ヒモ状にしたもの)がポトンと落ちてきた。


「何じゃあ、これは~?」


 幼い主君を救出するために信長について来ていた松平家の侍たち三人が、その紙縒に不用心にも近づいた。すると、不思議なことに、彼らはバタバタと倒れてしまったのである。


「こ、これは敵を眠らせる忍びの術です! あの紙縒から発している煙を吸ったら、たちまち眠ってしまいますぞ! 羽城はじょうの城兵たちが眠ってしまったのも、この術のせいに違いありませぬ!」


 加藤全朔が、慌ててそう叫んだ。

 熱田港で手広く商いをしている全朔は甥の順盛よりもりとは違ってとても用心深い性格なので、屋敷を盗賊から守るために数名の忍びを雇っている。彼ら手下の忍びから「イモリ・モグラ・ヘビの血とその他数種の薬を混まぜて紙縒に浸し、燃やすと眠たくなる煙が出る」と聞いたことがあるため、この眠り火の術を知っていたのである。


「そういうことなら、あの煙があたりに充満する前に消してやればよいではありませぬか。この千秋季忠にお任せあれ!」


「あっ、大宮司だいぐうじ殿。近づいてはいけませぬ! あなたまで眠ってしまいますぞ!」


「気合いさえあれば、こんなこけおどしの術で眠ったりはせぬのです。世の中のたいがいのことは気合いで何とかなります。気合いだ、気合いだ、気合いだぁーッ‼」


 季忠はズダダダダとガニ股走りで紙縒に近づき、思いきり踏みつけた。紙縒の火が消え、あたりに漂っていた煙も落ち着いていく。


「わっはっはっはっ! 忍びの術などこの程度のものよ! 熱田の神々の加護がある私が忍術ごときで眠らされることなど…………ぐごぉ~」


 季忠は眠り火を消火したことで得意満面に大笑いしたが、途中で事切れたかのようにバターンと仰向けに倒れてしまった。薬の効き目が少し遅れてあらわれ、眠ってしまったらしい。


(あのやたらと元気のいい男、たしか千秋季忠と名乗っていたな。千秋といえば、熱田神宮の大宮司の家系であり、織田家に武将として仕えている一族ではないか。あいつがこの百姓どもを率いていたのか? まだ年若くて言動は馬鹿っぽいが、なかなかの才を持っているようだ。成長して厄介な敵将になる前にここで殺しておくか)


 ぐーすか眠っている季忠を木の上から見下ろしていた藤林長門守はそう判断すると、忍刀しのびがたなを抜き放って小猿のごとく飛び降りた。


 逆さに持った刀を振り落とし、着地と同時に季忠の喉を貫く。この早業は誰にも止められないはずだった。しかし――。


 ピュン! と飛んで来た小石が、長門守の眉間に当たった。信長が咄嗟とっさに投げた石が命中したのだ。


「くっ……⁉」


 わずかに手元が狂ってしまい、振り落とした刃は眠っている季忠の首のすぐ横の地面に突き刺さった。


「汚らわしい今川の忍びめ。今すぐ季忠から離れろ。そいつは暑苦して騒々しい奴だが、織田家にとってかけがえのない臣下なのだ」

<眠り火の術について>

眠り火の術はアニメの『忍たま乱太郎』(及び原作の落第忍者乱太郎)で有名ですが、江戸前期の忍術書『万川集海まんせんしゅうかい』にも「敵を眠らせる薬」の記述があります。

また、同書には空腹をしずめる「飢渇丸きかつがん」、喉の渇きをしずめる「水飢丸すいかつがん」、敵をあんぽんたんにしちゃう「阿呆薬あほうぐすり」という薬などが記されています。

ちなみに、この忍術書『万川集海』を記したのは藤林左武次保武(さむじやすたけ)という人物で、藤林長門守の子孫だとされています。

(忍術で薬を多用したのは甲賀忍者らしいですが、伊賀の上忍である藤林長門守は甲賀とも深い繋がりがあった人物で、甲賀忍者の配下もいたとされます。だから、甲賀の忍術も色々と知っていたことでしょう)

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