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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 四章 天道是か非か
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その山の名

 一方その頃、竹千代たけちよを誘拐した御宿みしゅく虎七郎とらしちろうはというと、鳴海なるみ城の南東、沓掛くつかけ城の西のとある山の中に潜んでいた。


「何という運の無さだ。まさか、敵地のど真ん中で足を負傷してしまうとは……」


 小さな岩に腰かけてほしいい(炊いた米をいったん乾燥させた保存食)をがつがつ食べている竹千代を横目に見ながら、虎七郎は苛立たしげにそう呟いていた。


 不覚を取ってしまい、ひだりももに刀傷を負ったのである。




 あれは竹千代を誘拐して羽城はじょうから脱出した半刻後(一時間後)のこと――。


 虎七郎は夜霧の中、森の獣道をわざわざ選んで鳴海城主・山口やまぐち教継のりつぐの領内を大急ぎで通過しようとしていた。


(幼い竹千代を休ませるためにどこぞの廃寺に潜りこんで一晩を明かすにしても、山口教継の領地からはできるだけ離れて小休止したい)


 教継は用心深くてかなり抜け目ない性格だという噂だ。自分の領内に敵国の隠密がいたら、犬のような嗅覚きゅうかくで虎七郎の存在を嗅ぎつけるやも知れぬ。油断のできない城主の領地からは一刻も早く脱け出すべきだと虎七郎は考えていた。


「おい、お前は今川家の手の者か?」


 虎七郎におぶわれている竹千代が、誘拐されている最中の幼児とは思えない高圧的な口調でそう言った。しかし、敵地を脱するべく全力疾走中の虎七郎は、子供と世間話をしている余裕などない。


「……竹千代殿。無駄口を叩くのはおよしなされ。舌を噛みますぞ」


「今川の回し者だな、きっと。あの父上が私を取り戻すために忍びを使うはずがない。

 おい、お前。私をさらって人質にしても、父上は私のことなんてこれっぽっちも心配していないから、何の役にも立たないぞ。さっさと殺せ。隠密ふぜいにかどわかされるなど、武士の恥だ。生き恥をさらさず、潔くここで死のうと思う。お前が嫌なら私が切腹をするから介錯を……わっぷ!」


「舌を噛むと言ったはずです。もう黙っておられよ。あと、それがしは忍びなどではない。れっきとした武士でござる」


「フン、武士がこんな汚れ仕事をしていたら忍びと変わりないではないか。……ううっ、急に腹が痛くなってきた。糞がしたい。どこかで止まってくれ」


「あと半刻ほど我慢なされよ」


「そんなにも我慢できるか! 我慢は体の毒だから、私は小便や大便を辛抱しないと決めているのだ! 止まってくれなかったら、お前の背中で脱糞してやるぞ!」


(チッ……。恐ろしく面倒くさいクソガキだな)


 やむなく、虎七郎は足を止めて小休止することにした。背から降ろされた竹千代は、慌てて草むらの中へと走る。


 虎七郎は、イライラしながら竹千代が用を足すのを待っていた。一人の猟師が夜霧の向こうから現れたのは、ちょうどその時のことである。


 虎七郎は、人の気配を感じた瞬間にビクッと体を強張らせて警戒したが、のそのそと歩いている髭面の男が猟師の風体をしていることに気づくと、


(何だ、ただの猟師か。驚かせやがって……)


 と、緊張を緩めた。ここは狐や狸しか通らぬ獣道だ。獣を狩るのが仕事の猟師が近くに住んでいてもおかしくはない。猟師の一人ぐらい見過ごしたところで「怪しい奴を見ましただ」などと領主に報告されることはないだろう。


 虎七郎はそう油断していたのだが――その猟師は虎七郎の前を通り過ぎる直前、


 ブン‼


 と、ふところに隠していた小刀を一閃させて攻撃してきたのである。


「な……⁉ いきなり何をする! 曲者くせものめ!」


 ぎりぎりで身をのけぞらせて攻撃を回避した虎七郎が唾を飛ばしながら叫ぶ。ただの猟師とは思えない身のこなしだ。こいつは忍びに違いない。


 猟師は「曲者はそなたのほうであろう」と言いながら、ニタァと笑った。


「俺を最初見た時、おぬしはほんの一瞬だがただならぬ殺気を発した。……おぬしは美濃か駿河……敵国の隠密だな?」


(……しまった。山口教継は忍びを化けさせて、領内に曲者くせものが侵入せぬように警戒網を張っていたのか。何という用心深い城主だ)


 熱田の羽城に侵入する前にも山口教継の領地は通過していたが、その時は虎七郎もおのれの殺気を完全に消すことができていた。しかし、帰りは幼児を保護しながら逃げねばならない。余計なお荷物を抱えたまま敵と戦うことになったら面倒なことになってしまう……。そんな緊張感から、さすがの虎七郎も殺気だってしまい、その殺伐とした気配を教継の忍びに勘付かれてしまったのである。


「……な、何を言う。私はただの浪人だ。主家が滅びたゆえ諸国を流浪中で……」


「違うぞ。こいつは今川家の隠密だ。松平家の嫡男であるこの竹千代を誘拐して、今から今川家の元へ連れて行こうとしているところなのだ」


 草むらの中で大便をしていたはずの竹千代がひょっこりと顔を出して、余計なことをペラペラと喋った。


「ち、チッ……!」


 何とか誤魔化そうとした矢先に暴露されてしまった。このクソガキが松平家の嫡子でなければ、怒りのあまり殴り殺していただろう。


「なっ……! 竹千代(ぎみ)を駿河へ連れ去る途中であったか! 竹千代君を返せッ‼」


 猟師――いや、山口家の忍びは、虎七郎に再び斬りかかって来た。


 普段の虎七郎ならば、この程度の攻撃は簡単にかわせたはずだった。しかし、すぐ背後には竹千代がいる。下手にかわせば、竹千代を傷つけてしまうかも知れない。だが、刀を抜いて応戦するゆとりもない。どうするべきか迷っているうちに、虎七郎はひだりももを傷つけられてしまった。


「くっ……! 長門守ながとのかみ殿、なぜ助けに来ぬッ!」


 虎七郎は無我夢中で叫んでいた。今川家が雇っている伊賀忍者たちが姿を消して竹千代の身辺を守っているはずなのである。この危機的状況になぜすぐに現れないのか?


「……やれやれ。我らの任務は、おぬしが誘拐した松平家の嫡子の身辺警護であって、おぬしの身を守ることではないのだがな」


 深い霧がたちこめる夜の森に、亡霊のささやくような声がこだました。

「何奴ッ!」と山口家の忍びが小刀を構えながら吠える。


(声は聞こえるというのに、全く気配を感じられない。どこだ? どこに隠れている?)


 手練れの忍者であるはずの山口家の忍びにですら、声の主の気配をつかめない。伊賀者か甲賀者かは分からないが、これはよほどの……。


「ぐ、ぐわぁ⁉」


 何の前触れもなかった。山口家の忍びは敵の姿を見ることもなく、断末魔の声を出してたおれた。忍びの背中には、深々とした刀傷がある。後ろからバッサリやられたのだ。


「油断大敵じゃぞ、御宿殿」


 一瞬にして敵をほふった黒装束の男が、不機嫌そうな口調で虎七郎をとがめた。余計な仕事を増やすな、と文句を言いたいらしい。


「子守をしながら戦えるものか。そなたも今川家に仕えている忍びならば、寿桂尼じゅけいに様の命で動いている俺をもっと早く助けに来ぬか」


 カチンときた虎七郎がそう言い返す。

 虎七郎とて本来ならば伊賀忍者などに世話になりたくないが、虎七郎の家来たちの多くは先日の信長襲撃の失敗で戦死したり深手を負ったりしている。満足に動くことができる家来たちは、寿桂尼が娘のお万阿まあを万が一殺害しようとした時に備えてお万阿救出部隊として駿河に残してきていた。だから、伊賀忍者たちには虎七郎の駒としてちゃんと動いてもらわねば困るのである。


 しかし、傲岸不遜な態度で虎七郎をねめつけている目の前の忍びには、そんなつもりはさらさら無いようだった。


「寿桂尼のババアはあまり好かんのだ。あのババアは、我ら闇に生きる伊賀の忍びですらゾッと青ざめるような姦計を巡らせることがある。天の道から外れる外道な行ないを繰り返していたら、息子の義元様に災いがあるやも知れぬというのに困った婆さんだ」


「言葉が過ぎるぞ、伊賀の上忍・藤林ふじばやし長門守」


 虎七郎は、それなりの家格の武家の出身ゆえに伊賀忍者の口汚い言葉に眉をひそめた。しかし、藤林長門守はニヤリと不敵な笑みを浮かべている。


 藤林長門守――後に服部はっとり半蔵はんぞう百地ももち丹波たんばとともに「伊賀の三大上忍」と並び称される伊賀忍者の大物である。武田たけだ信玄しんげんの軍師・山本やまもと勘助かんすけに忍びの術を伝授したと伝えられるが、その人生の詳細は不明、謎に包まれた人物だ。一時期、今川家に仕えていたともされる。


 そんな正体妖しき忍びが、竹千代誘拐に一枚噛んでいたのであった。

 だが、長門守はどうやら、無実の家臣に対して暗殺命令ばかり出す猜疑心さいぎしんかたまりのような寿桂尼にいい加減嫌気がさしているらしい。だから、今回の幼児誘拐の仕事も半ば嫌々であった。積極的に虎七郎を助けるつもりはない。


「御宿殿。無駄話をしている場合ではないぞ。さっさとこの場から離れろ。あの山口教継のことだ。領内に厳重な警戒網を張っていて、俺が殺したこの男以外にも近くに忍びを潜ませている可能性がある。その忍びがこの男の死体を発見したら、教継は配下の忍びの衆を動員して領内を通過した曲者を捕えようとするだろう」


「……くっ。さすがは織田信秀の信頼厚き武将だけのことではある。恐ろしく用心深い。たいした忠臣よ」


「ハハッ。忠臣かどうかは分からぬがな。こんなにも神経質に領内に警戒の網を張り巡らせているということは、主君の信秀にも知られたくない本心や秘密があるのやも知れん。意外と腹に一物のある奸物だったりしてな」


(奸物なのはおぬしのほうではないか、このひねくれ忍者め)


 虎七郎は心の中でそう悪態をつくと、用を済ませてスッキリとした顔で草むらから出てきた竹千代を小脇に抱えた。


「無礼者! 乱暴に扱うな! ……おい、お前たちが殺したその男をちゃんととむらってやれ。野晒のざらしにしておくのは可哀想だ」


 まだ六歳だというのに、死体を目撃してもほとんど動揺していない。肝が太いのか、こういう修羅場に幼くしてすでに慣れてしまっているのかは分からないが、ただの幼児ではないことはたしかだった。


「……そんな暇はござらん。行きますぞ、竹千代殿」




            *   *   *




 その後も災難が続いた。何とか太子ヶ根(沓掛城の西方)のあたりまで来たところで、山口教継が放った忍びたちに追いつかれてしまったのである。教継はあれからすぐに賊が領内に侵入したことを察知し、追手を差し向けたのだろう。


 虎七郎は竹千代をおぶっているために満足に戦えない。長門守率いる伊賀忍者たちに助けられながら、急に降り出した通り雨の中を逃げ回った。そうこうしている内に夜が明け、ようやく教継の忍びの衆から逃れることができた虎七郎は名も知らぬ山の中にいた。


 疲労困憊ひろうこんぱいの虎七郎は、この山中で小休止することにした。そして、現在に至る。


「忍びに斬られた左腿の痛みがひどい。時折休憩を挟まないと動けそうにないな。……これからどうしたものか。あまりもたもたしていると、教継だけでなく、竹千代がさらわれたことに気がついた信秀が追手の兵を差し向けて来るだろう。しかし、全力で走れなくなった今の俺では今日中に尾張国を脱け出すことはできそうにない……」


 虎七郎がブツブツそう言いながら思い悩んでいると、音もなく藤林長門守が目の前に現れた。織田方の兵や忍びが近辺にいないか探っていて帰還したのである。


「……長門守殿。山口教継の手の者は追いかけて来てはおらぬか」


「山口家の忍びは追跡をようやく諦めて引き返したみたいだ。

 されど、東と西に別の軍勢がいる。東の沓掛方面では、沓掛城主・近藤景春の兵がうろうろしていて鎌倉街道を封鎖しているようだ。

 西の大高方面からは水野家の兵がこの山に迫って来ている。さらに、この山の麓では近隣の百姓たちがおのおの武器を手にしておぬしを捜している様子だ。尾張国内に侵入した賊を発見した者には銭一貫文が恩賞としてもらえるそうだ」


「な、何だと⁉ どういうことだ、それは!」


「恐らく、織田の者たちはおぬしがもたもたしている内に先回りして、おぬしの退路を断ったのだろう。熱田港から船を出せば、あっと言う間に陸路の我らを追い越せるからな」


「……そ、それにしても迅速な対応すぎる。いったい何者がここまでの手回しを……」


 ズダーーーン‼


 近くで、けたたましい銃声の音がした。山の麓にいるという百姓たちが鉄放をぶっ放したのだろうか。いや、琉球りゅうきゅうより伝来したという火器を農民たちが所有しているはずがないから、百姓どもを使って虎七郎を捜索させている織田家の者が撃ったのかも知れない。


「く……くそっ。とりあえず、発砲音が聞こえる方角と逆に逃げねば」


 虎七郎はそう呟くと、竹千代をまた小脇に抱えて歩きだした。竹千代がぎゃあぎゃあと文句を言っているが、かまっている余裕などはない。




            *   *   *




「信長様。あの山です。あの山の中に、幼い子供をおぶった怪しげな男が入って行くのを見ました」


「なるほど。その男は、長身痩躯ちょうしんそうくの男であったか?」


「ちょーしんそうく?」


「背が高くて痩せた奴だったか、と聞いている」


「はい! そうです! その、ちょーしんそうくな男が、子狸こだぬきみたいな顔の子供と一緒にいるのをこの目でたしかに見ましただ!」


「よし。そなたには銭一貫文をくれてやる。他にも似たような情報を寄越した者たちが数人いたから、そいつらにもやろう。

 そして、その賊から子供を助け出した勇気ある者には三貫文を褒美として与えることにする。者共ものども、張り切って賊を山の頂上まで追いつめろ。獣を追うかのごとく、わめいたり大きな音を立てたりして、逃げ場のない山頂まで誘導するのだ」


 信長は大勢集まった百姓たちにそう命令すると、自ら鉄放をぶっ放した。轟音が秋晴れの空に響き渡り、紅葉色づく木々で休んでいた鳥たちが驚いて一斉に飛び立つ。


 米が一年分たっぷり食べられるだけの金がもらえるということで、百姓たちも喜び勇んで信長について行く。領内に潜りこんだ敵の隠密を捜索しているとは思えないほどの賑やかさだった。まるで物見遊山ものみゆさんのようである。


「ところで、この山は何という名だ?」


 傍らにいた若い百姓にそうたずねると、その百姓は「へい、おいらたちは桶狭間おけはざま山と呼んでおりますだ」と答えた。


「ふぅ~ん。……おけ……おけはざ……」


 駄洒落だじゃれ好きの信長は何か面白い駄洒落を言おうとしたが、思いつかない。


「桶狭間」という地名が信長にとって特別なものになるのは、もっと先――十三年後のことである。

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