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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 四章 天道是か非か
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新たな陰謀

寿桂尼じゅけいに様。御宿みしゅく虎七郎とらしちろう、参上しました」


 今川家の拠点・駿府今川館の一室。


 寿桂尼が懇意にしている京の公家に手紙を書いていると、障子一枚隔てた縁側から人の心をゾクリと震わせるような仄暗い声が響いた。


「……お入りなさい」


 筆を置き、寿桂尼は不機嫌そうな声音でそう言う。ろくに使い物にならない私の駒が来たか、と心の中で呟いていた。


 寿桂尼のそばに控えていた年若い侍女・お万阿まあが、静かな所作で障子を開ける。


「失礼いたしまする」と言いながら部屋に入って来たのは、長身ちょうしん痩躯そうくの侍――三河の戦場で信長の命を狙った御宿虎七郎だった。


「寿桂尼様。織田信長暗殺の一件、役目を果たせず誠に申し訳なく……」


「言いわけなど聞きたくありませぬ」


 寿桂尼はピシャリと突き放す。


 彼女がこの世で最も愛するのは、今川家のためになる人材。そして、最も嫌悪するのは今川家のために役立たない者だ。今川家の繁栄を妨げると判断すれば、息子であり先代当主であった氏輝うじてるですら切り捨ててきた。

 自分が「殺して来い」と命じた武将を仕留め損ねた隠密おんみつなど、他に代わりがいるのならば即刻殺している。虎七郎ほど暗殺剣に優れた男が今川家にいないから、生かしてやっているだけなのである。


「あなたがしくじればしくじるほど、あなたの娘のこの館での立場が悪くなることを忘れてはいないでしょうね? 今から与える新しい任務は、必ず成功させるのですよ。いいですか」


「は……ハハッ」


 虎七郎は恐懼きょうくして頭を下げた。


 誰に対しても無愛想で淡々と人殺しをする冷酷なこの男でも、「女大名」と渾名あだなされる寿桂尼のことだけは心底恐れている。弱みも握られているため、虎七郎は寿桂尼に対しては絶対服従するしか道は無かった。


「……松平まつだいら広忠ひろただが織田信秀に嫡男の竹千代たけちよを差し出したことは、あなたも知っていますね」


「はい。竹千代の身柄は熱田あつたの有力豪族・加藤家に預けられている、と聞き及んでおりまする」


「竹千代が人質として信秀の手に渡ったことによって、三河国における信秀の影響力は今川家を大きくしのぎつつあります。ちまたでは、『三河はすでに信秀の物となった』と噂している者さえいるとか……。このままでは、その噂が現実のものとなってしまいます。何とかして、現在の不利な状況を覆さねばなりませぬ」


「つまり、竹千代を――」


「さらって来なさい。どんな手を使っても構いません。ただし、竹千代に万が一のことがあってはなりませぬ。私たちの大事な取引材料になってもらわなければいけませんからね」


(なるほど。さすがは寿桂尼様だ。反吐へどが出るほど腹黒い)


 竹千代の身柄を今川家が確保すれば、松平広忠は織田家に従う理由が無くなる。広忠と三河武士たちは再び今川家の傘下に入り、尾張攻めの走狗そうくとして広忠軍を利用できるはずだ……。寿桂尼はそう企んでいたのであった。六歳の幼子おさなごの命など、彼女は外交交渉の道具程度にしか考えていない。


「承知いたしました。必ずや、竹千代を駿府館に連れて参ります」


「二度もしくじることのないよう、重々用心してかかりなさい。……いいですか、虎七郎。あなたの娘の命運はこの私が握っていることを忘れてはいけませんよ」


「……はい。もう二度と失敗いたしませぬ。それがしの働きによって一族の罪を償い、御屋形おやかた様(今川義元)への我が忠誠心を証明してみせます」


 虎七郎は、寿桂尼のかたわらに侍しているお万阿をチラリと見ると、寿桂尼に深々と平伏した。

 お万阿はそんな虎七郎のことを心配そうに見つめている。何か声をかけたそうにしているが、寿桂尼の手前なのでグッとこらえていた。


 寿桂尼に近侍しているこの娘・お万阿は、実は虎七郎と亡くなった妻の一人娘なのである。

 今川家への忠義を疑われている虎七郎は、愛娘を人質として駿府館に差し出すように寿桂尼に強要され、お万阿の身柄を彼女に預けていたのであった。


 あれは十年ほど前――関東の北条ほうじょう氏が駿河するが東部に侵攻して来た時のこと。

 駿河国駿東(すんとう)郡の豪族である葛山かつらやま氏と分家の御宿氏は、今川と北条のどちらにつくかで一族の意見が割れ、虎七郎の兄弟や従兄弟いとこの多くが北条側についてしまった。


 妻が今川家直臣の娘だった虎七郎は今川家の元に馳せ参じたが、当主・義元の母である寿桂尼が「御宿家の者は信用できませぬ。人質を取るべきです」と義元に訴えたため、当時四歳だったお万阿が寿桂尼の元で生活することになったのである。


 駿河国の東部は、昔から今川・武田・北条の攻防の舞台となることが頻繁にあり、こういった「境目さかいめ」の地に領地を持つ武士たちは一族の生き残りのために、父や兄、弟が敵味方バラバラになって参陣することが多かった。つまり、今川側として戦ったり、北条に走ったり、または武田の家臣となる者もいた。


 特に、葛山家と分家の御宿家はそういった生き残り戦術が巧妙な一族である。疑心暗鬼が強い寿桂尼が簡単に信じるはずがなかった。


(武将であるこの俺がこのような汚れ仕事をさせられているのも、我が娘が寿桂尼様のとりことなっているからだ。何とか大功を立てて、お万阿を寿桂尼様から取り戻さねば……)


 寿桂尼に目をつけられて悲惨な末路を辿った豪族たちの数はおびただしい。ほんのわずかでも反抗的な態度を見せれば、粛清されてしまう。つい三年前にも、遠江とおとうみ井伊谷いいのやの井伊直満が謀反の疑いで殺されたばかりだ。虎七郎とて不甲斐無い働きばかりしていると、「あの者は今川家に恨みがあるゆえ、わざと任務を失敗しているのではないか」などと痛くもない腹を探られた挙句にお万阿の命が危機にさらされる危険性がある。


(こたびは……こたびの任務だけは絶対に失敗できぬ。お万阿よ、父がお前を救ってやるからあともう少し辛抱しておるのだぞ)


 娘ももう十四歳だ。そろそろ婿むこを探してやりたい。こんな悪鬼あっき羅刹らせつのごとき女大名が目を光らせている恐ろしい館から一刻も早く救出せねば……。


 そのためにも、必ず竹千代をさらってみせる。我が任務の邪魔をする者は、誰であっても殺す。尾張の武士どもなど皆殺しだ。


 焦燥感に駆られる虎七郎は、そんな不穏なことを考えているのであった。

<御宿虎七郎のモデルについて>

今作品のオリジナル人物・御宿虎七郎ですが、実はモデルとなった実在武将がいます。

「御宿藤七郎」といい、今作品の虎七郎と同じく葛山氏の分家にあたる御宿氏出身の武将と思われます。今川義元が御宿藤七郎宛てに送った感状(主君が「戦争でがんばってくれてありがとね」と家来を褒める手紙)が現在に伝わっていて、その感状によると御宿藤七郎は敵の城の城門4つをたった一人で全部攻略したとのこと。かなりの豪の者だったみたいです。

今作品の虎七郎も今川方の武将として活躍する予定……おもに桶狭間合戦で!! やっぱり戦場の盛り上げ役が敵方にも必要ですからな!!(^ω^)

ちなみに、武田信玄の侍医に御宿友綱という人物がおり、彼も葛山氏の血族だったようです。本編にも記した通り、駿河東部の「境目」の地域にいた葛山氏(と御宿氏)は今川に仕えつつも武田・北条との繋がりを持ち、乱世での生き残りを図ったのだと思われます。

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