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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 四章 天道是か非か
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尾張中村

 天文十六年(一五四七)秋。那古野なごや城。


 織田信長は、壮健な肉体を持つ彼にしては珍しく、病床にあった。


「なんと嘆かわしい。病み上がりの生駒いこまの姫にいかがわしいことをして、風邪をもらってくるとは……」


「誤解だ、おとく。俺はかえでと口吸いすらしていない。部屋でちょっとしゃべっていただけだ」


「いいえ、嘘ですね。言葉を交わしただけで、風邪がうつるものですか。千秋せんしゅう季忠すえただ殿から聞きましたよ? 信長様と楓殿は半刻(一時間)も部屋から出て来ず、キャッキャッウフフという声が漏れ聞こえてきたと……」


「あのお喋りな神官め……。話を盛ってお徳に告げ口しおったな。楓はキャッキャッウフフなんて言っていないぞ。今から熱田あつた神宮じんぐうまで行って、ぶん殴ってやる」


「まだ熱があるのですから、起きてはいけませぬ。あと二、三日は養生してくださいませ」


 信長が寝床から起き上がろうとすると、乳母のお徳は信長の上半身を押さえつけ、無理やり寝かしつけた。


 お徳は剣術や体術の心得があり、そんじょそこらの田舎武士なら舌を巻くほどの強さである。早くに父を亡くした息子の恒興つねおきに武芸の基本を教えたのも彼女だった。だから、熱が出てフラフラになっている今の信長では抗いようがない。信長は不服そうに「むう~……」と唸った。


「もう少ししたら夕餉ゆうげをお持ちしますので、しばらくお眠りください」


「嫌だ。最近、おかしな夢ばかり見るから眠りたくない」


「そんな小さな子供みたいなことを……。また、いじめられている小猿の夢を見たのですか?」


「ああ。ひどく不快な夢なのだ。虐めている奴らは、たぶんどこかの町の奉公人たちだと思うが……海が見えたから津島つしまか熱田の港かな? とにかく、主人のために小さな体でたくさんの薪をせっせと運んでいた猿を、奉公人どもが『醜い顔の猿め』と罵って殴っているのだ。理不尽極まりない夢で、とても不愉快だった」


「猿が商家で奉公しているとは、変てこな夢ですねぇ。まっ、熱にうなされて奇妙な夢を見てしまったのでしょう」


 お徳は信長の話を聞きながら、若い主人の耳たぶから首筋にかけてをゆっくりと撫でている。信長は幼い頃から、ここを撫でられると、あっさり寝付いてしまう癖があるのである。


「おい、お徳。俺はもう子供じゃないんだ。そんなふうに撫でるな」


 などと文句を言っていたが、信長は間もなくいびきをかき始めていた。


「私にとってはまだまだ子供ですよ、吉法師きっぽうし様。うふふ」


 幼子おさなごのようにあどけない顔で眠っている信長を見つめながら、お徳は微笑んでいた。


 しかし、彼女の顔はいささかやつれ気味である。息子の恒興が家老・はやし秀貞ひでさだの馬を盗んで勝手に出陣したため、謹慎処分中だったからだ。


(独断で初陣を飾ったというのに、戦場ではあまり信長様の役に立てなかったと聞くし……。

 恒興は信長様にとって弟同然の存在。そして、母である私は信秀様の恩寵を受けている。それなのに、我が池田家が主家のお役に立てていないのは、何とも恥ずかしい話です。私が信長様のためにできることはあるでしょうか……)


 先日の負けいくさで信長直属の家来が数人死んだ。次の戦で信長が活躍して汚名返上するためにも、早急に有能な家臣を新たに登用する必要があるだろう。


(我ら一族の古里ふるさとである近江おうみ甲賀こうがぐんに、武芸に長けた若者がいるらしいという噂を縁者から聞いたことがあります。もうすぐ冬なので、来年の春になったら一度甲賀に行ってみようかしら)


 池田氏は、近江甲賀郡池田村の出身である。

 池田政秀(まさひで)の娘であるお徳は、世継ぎの男子がいなかったため、すぐ近くの多喜村の滝川たきがわ氏から婿養子むこようしをもらった。それが、恒興の実父の恒利つねとし(滝川貞勝の子)である。


 その恒利の兄弟に、滝川一勝という人がいた。その一勝の息子――つまり、池田恒興にとっては従兄弟いとこにあたる――が滝川一益といって、甲賀では評判の武辺者ぶへんしゃらしい。


博打ばくちが好きな荒くれ者だという噂ですが、本当に有能な若者だったら尾張に連れて帰りましょう)


 お徳はそう決断していた。


 初陣で敗北した信長の資質を疑う家臣たちがちらほら現れている、と信秀から先日聞いた。信長の家督相続を揺るぎないものにするためにも、たけき家臣を一人でも多く召し抱えておくことに越したことはない。


「滝川一益……。使える武将だったらいいのですが」


 お徳はそう呟きながら、信長の寝室を後にするのであった。




            *   *   *




 主人公の信長が臥せっている間に、少し物語を脇道にそらしてみる。


 信長の初陣戦で足軽として参加した、欠落かけおち百姓の虎若とらわかのことである。


 この隻眼せきがんの足軽は、戦場で命の危機に瀕した信長のそばに常にいて活躍した。


「こいつはけっこう使える奴だ。正式に我が足軽衆に入れてやれ」


 信長は四番家老の内藤ないとう勝介しょうすけに直々にそう命じて、虎若は晴れて信長直属の足軽部隊に入ることができたのである。


「わっはっはっは。やったぞ。これで、これからは食いっぱぐれなくても済む。まさか、若様に気に入られて、この俺が『上意の足衆』になれるとはなぁ」


 尾張中村へと続く田んぼ道を意気揚々と歩きながら、虎若は甲斐かいなまりで独り言を言っていた。


 虎若の故郷である甲斐かい国では、殿様の上意じょういで動く直属の足軽部隊のことを『上意の足衆』と呼んでいた。武田たけだはるのぶ信玄しんげん)の父・武田信虎のぶとらが組織し、信虎はこの直属の足軽衆を使って甲斐の国人衆こくじんしゅうを切り従えていった。


 足軽とは、戦があるたびに武将に臨時で雇われる、いわばパート・アルバイトである。しかし、『上意の足衆』は常時雇用の傭兵たちのことで、戦があれば迅速に出動し、殿様のために戦うことができた。


 こういう直属の足軽部隊は、経済力があった織田家ならば、それなりの数を召し抱えることは造作もないことだったろう。


 これまでずっと根無し草の傭兵稼業で生きてきた虎若も、これからは信長軍の『上意の足衆』というわけだ。


「明日食べる米にすら困っていた極貧の日々とはおさらばだぜ。へへへ」


 虎若のふところには、戦の恩賞にもらった銭がどさりとある。甲斐国では重い課税でなけなしの財産を搾り取られていたため、自分で自由に使えるまとまった金を手にしたのは生まれて初めてだった。


 虎若は、この銭を持って、尾張中村の弥右衛門やえもん宅に向かおうとしていた。


「弥右衛門さんの息子……たしか藤吉郎とうきちろうといったかな? 一家の大黒柱を戦で亡くして、藤吉郎やその母親もきっと金に困っているはずだ」


 虎若は恩賞を授かる時、内藤勝介から「お前は弥右衛門の知り合いだったな。一度、弥右衛門の家族が今どのような生活をしているか見てきてやってくれ」と頼まれていた。勝介も、かつて自分の命を戦場で助けてくれたことがある弥右衛門の身内のことが気にかかっていたのだろう。


 虎若が他の足軽たちよりも多めに褒美を受け取ったのも、「その金の一部を弥右衛門の家族に渡してやってくれ」ということなのだろう。雑兵たちに情け深い勝介らしい配慮である。


「なあ、あんた。弥右衛門さんの家はどこか知らないか?」


 中村に着いた虎若は、薪を背負って歩いていた二人の農夫に声をかけた。


 しかし、農夫たちは「え? 弥右衛門? 誰だ、そいつ」と首を傾げた。


(こいつら、同じ村の人間なのに、弥右衛門さんのことを覚えていないのかよ)


 虎若は少し苛立いらだった。


 生前、片足が不自由だった弥右衛門は、同郷の者たちにさんざん馬鹿にされ、戦場では足手まとい扱いされていた。あれだけ虐めていた同村の弥右衛門のことを彼ら中村の農夫たちはすっかり忘れてしまっているらしい。あまりにも薄情で、弥右衛門が可哀想だと虎若は感じた。


「ほら……。猿に似た顔のおっさんだよ。戦傷いくさきずで片足を悪くして、先年の美濃の負け戦で死んだ……」


「ああ、あいつのことか。思い出した、思い出した。弥右衛門って、あの淫売女の元亭主のことだろう?」


 農夫たちはいやらしい笑みを浮かべ、そう言った。虎若は「へ? 誰が淫売だって?」と眉をしかめる。


「弥右衛門の家だったら、すぐ近くだ。ちょうど、わしらもなか(・・)の奴に会いに行くところだったんだ」


なか(・・)? それが弥右衛門さんの嫁の名か? 悪いが、道案内してくれないか」


「別にいいぜ。……というか、あんた物凄い甲斐訛りだな。よそ者がこんな所に何をしに来たのか知らんが、お前さんもあの淫売女とお近づきになるといい。ほんのはした金であの女は股を開いてくれるからな。ふひひ」


「股を開く? 何だ、なか(・・)さんは踊りでもするのか?」


 よく分からないまま、虎若は農夫たちについて行った。

<滝川一益の名前の読み方について>

「一益」は、一般的に「かずます」という読み方で知られていますが、「いちます」と読むという説もあってハッキリしていません。

ただ、個人的には「かずます」のほうが語感的にカッコイイような気が……(^ω^)

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