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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 三章 乱世の下の青春
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春の黄昏・後編

 尾張丹羽(にわ)郡の生駒いこま屋敷。

 久し振りに逢いに来た信長に対して、かえではすこぶる機嫌が悪かった。


 彼女が拗ねている原因は、主に二つ。

 一つ目は、手紙を寄越すばかりでなかなか訪ねてくれなかったこと。そして、二つ目は、信長の体から他の女の匂いがプンプン漂ってくること……だった。


(ここに来る途中で、川で水浴びをしたのに、なぜ分かるんだ? 匂いなんてとっくに落ちているはずなのだが……)


 信長はそう困惑したが、楓には分かるらしい。


 遊女たちに抱きつかれてしまったのは、たしかに事実だ。女人に対しては案外弱腰になりやすい信長は、さっきからひたすら楓に詫び言ばかり言っていた。


 だが、楓はツーンとそっぽを向き、信長が何を言っても反応をしてくれない。さすがの信長も音を上げてしまい、


季忠すえただ。お前からも説明してくれ。我々の体に遊女たちの匂いがこびりついているのは、大雲だいうん和尚の悪戯のせいだと……」


 と、供の千秋せんしゅう季忠に助け舟を求めた。


「わ……わ……私は、庭で薙刀を振り回して来まする‼」


 女に対する免疫が皆無な季忠は、儚げで可憐な楓と言葉を交わす勇気がないらしく、そう喚いて部屋を飛び出て行った。信長は「何のためについて来たんだ、あいつ……」と呟いて舌打ちする。


 こうなったら、自分の思いのたけを正直にぶつけて、楓のことをいかに大切に感じているか分からせるしかない。

 そう考えた信長は、恒興つねおきら家臣たちが聞いたら驚愕のあまりひっくり返ってしまいそうなとても優しい声音で言葉を紡ぎ始めた。


「……楓殿。頼むから、そろそろ機嫌を直してくれ。俺は天王てんのうの森で死にかけた時、何度もそなたの顔を思い浮かべていたのだ。『出陣前に女との逢瀬を楽しむのは不真面目だ』などと意地を張って、そなたに逢いに行かなかったことを何度も悔いていた……。ここで死ぬ運命ならば、せめてあと一度だけ楓殿と言葉を交わしたかった、そなたの笑顔が見たかったと……俺はひどく後悔したのだ」


 楓の華奢な背中を愛おしげに見つめながら、信長は愛を囁く。そして、その想いを吐き出すたびに、自分はこんなにも楓のことを愛していたのだ、という揺るぎない実感が胸の奥底から沸き起こっていた。


 年下の少女にここまで低姿勢になるのは男として情けない気もするが、惚れてしまった弱みである。俺はこの少女の瞳に、声に、そして笑顔に、完全に敗北してしまっている。敗軍の将は大人しく降参するしかないのだ。


「こうしてそなたに再び逢えたのは、津島の牛頭天王ごずてんのうや熱田の神々の加護のおかけだ。俺は、そなたと再会できた喜びを目いっぱい噛み締めたい。楓殿をこの手で抱きしめて、俺の溢れんばかりの喜びをそなたにも伝えたいのだ。その一心で、ここまでやって来た」


「そんなの、嘘です。口でなら何とでも言えます。私に逢いたかったのなら、なぜ三河より帰陣なされてすぐにここへ来てくださらなかったのですか?」


 いつもなら鷹揚な喋り方をする楓が、私は怒っているのだと主張するために、強張った声でそう反論する。

 書物をたくさん読んでいて同年代の少女たちよりもませている楓は、ここは怒ってみて信長殿がどう出るか様子を見てやろう、などと恋の駆け引きをしているつもりなのだろう。


 だが、その声にはまだ童女の幼さが残っているので、小さな女の子が駄々をこねて拗ねているようにしか聞こえなかった。賢いくせして、根底で子供っぽさが抜けていないため、大人の女になりきれていないのだ。そういう背伸びをしたがる意地っ張りなところも可愛い、と信長は思った。


「そんなに怒らないでくれ、楓殿。俺はずっと、『敗軍の将が恋にうつつを抜かすなど許されることではない。楓殿と逢うわけにはいかん』とおのれを戒めて城に引き籠っていたのだ……。

 しかし、大雲和尚に『女の愛撫こそが、戦士の力の源だ』と言われて、考えが変わった。明日の命すら分からぬのが武将の定めじゃ。次の戦では、俺は今度こそ死ぬやも知れぬ。未練を残さずに次の戦場へと赴きたいから……思い切ってここへ来た。

 楓殿――いや、楓。そなたの愛こそが、俺の力の源だ。この信長に力を与えて欲しい。よくぞ生きて戻った、と俺のために微笑みかけてくれ。そうしたら、俺は必ず次の戦で勝利をおさめ、またそなたの愛を求めるためにここへ笑顔でやって来る。そう約束する。……だから、頼む、楓」


 切々と訴えかけながら、信長は楓の白く美しい手をそっと握る。体温が低いのか、楓の手は驚くほど冷たかった。しかし、楓が無言のまま握り返すと、その氷のように冷たい皮膚の下に春の陽だまりのごとき温かさを感じたような気がした。これが彼女の愛の温もりなのだ、と信長は感じた。


「……明日の命すら分からないのは、私だって同じです。病弱な私はいつ死ぬか分からないのだから、ちゃんと逢いに来てくれなかったら後悔しますよ?」


「え?」


 楓が振り向き、ほとんど声にならぬような小声で囁く。信長は何か言ったかと聞き返そうとしたが、その直後には楓に勢いよく抱きつかれて、後ろに倒れていた。


 信長のたくましい胸板に、少女の膨らみかけの胸が当たる。その柔らかな感触と、楓の体から薫る桂の木のような甘い匂いが、信長の脳をとろけさせて数秒ほどくらくらと目眩がした。


「……ようやく笑ってくれたか。その悪戯っぽい笑みが見たかったのだ、お転婆てんば娘」


「誰がお転婆ですって?」


「男を押し倒しておいて、お淑やかなお姫様だと言われたいのか? フフ……。そなたはわがままな娘だな」


 信長は自分に跨る少女の笑顔を嬉しそうに見上げながら、手をかざして楓の頬を伝う涙を優しく拭ってやった。


「女はわがままな生き物なのですよ、信長殿。

 ……逢いたかのです。寂しかったのです。もう二度と来てくれないのではと不安だったのです。男が戦場に出ている間、女はそんなことばかり考えているのだから、愛する殿方と久し振りに逢えたらわがままになってしまうのも仕方ないではありませぬか」


「ああ……そうだな。楓の言う通りだ。俺の父は、母のことを放ったらかしにしがちだから、俺は愛する女を大切にしたい。そなたを泣かせぬためにも、これからは頻繁にここへ来よう。そして、いずれは正妻として我が城に迎え入れる。だから――」


「だから、何です?」


「そなたの口を吸ってもいいか?」


 信長が楓の黒々とした髪を撫でながらそうたずねると、楓はプッと吹きだした。


「織田弾正忠家の嫡男であるあなたが、いちいち女子おなごにそのような許可を求めるのですか?」


「む……。では、許可などいらぬ。勝手にそなたの口を吸うぞ」


「あっ、駄目です。私、風邪が治ったばかりなのでまた今度にしてください。うつしちゃうといけませんから」


 楓の顔を引き寄せようとしたところで、乱暴に手で口を塞がれ、信長は「結局、駄目なのか。本当にわがままな女だな……」とさすがに呆れた様子だった。


 自分から抱きついておいて、風邪がうつるから口吸いは駄目だと言うのは少々理不尽である。こんなに密着していたら、口吸いをしなくてもうつる時はうつるだろう。


(やっぱり、女の扱いというのは難しいなぁ……)


 信長は心の中でそう呟きながら、こっそり楓の小さな尻を撫ぜていた。


 その後、二人は何をするでもなく子猫同士がじゃれ合うように抱擁を交わしながら、他愛もない話をして半刻(約一時間)ほど過ごすのであった。


 あの騒々しい季忠も、案外と空気が読める性格なのか、二人の邪魔をしないように離れた場所で薙刀の稽古を静かにやっていたようである。






 楓と近い内の再会を約束して那古野城に帰った信長は、その翌日に彼女の風邪をもらってしまったらしく数日寝込んでしまった。


 ……後から振り返ると、この頃が、織田家の世継ぎとして父の信秀に守られて平穏無事に過ごした「春の季節」の黄昏たそがれ期だったのだろう。


 信長は、病から快復した三日後に、人質として尾張に連れられて来ていた竹千代たけちよ邂逅かいこうすることになる。

 この幼子おさなごとの出会いが、信長にとって、怒濤のごとく試練が押し寄せる「夏の季節」の第一幕となるのだが――信長はまだそのことを知らない。






                ~四章へとつづく~

※これにて尾張青雲編三章は終了です。この章では初陣へと至る信長の青春や恋を描いてきましたが、次の四章では「織田・今川の三河争奪戦第2ラウンド」「信秀の美濃攻めリベンジ戦」「信長の嫁取り話」などなどイベント目白押しです。あと、そろそろ明智光秀や藤吉郎(秀吉)が出て来る……かも知れない! たぶん!(笑)


前にも書きましたが、8月いっぱいは新人賞応募用の児童小説の新作を書きたいので、連載はお休みさせていただきます。場合によっては、9月ももしかしたら……(汗) 児童小説の新人賞が同じ時期にかぶっていて、つらたん!!( ;∀;)


秋(9月~10月?)スタート予定の「尾張青雲編四章」もどうぞよろしくお願いいたします!!m(__)m

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