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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 三章 乱世の下の青春
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道場山の襲撃

 火攻めによって活路を開いた信長軍は、道場山の近くまで逃げのびていた。


 すでに、時刻は黄昏時。夕闇が垂れ込める中、信長と将兵たちは重い足取りでなおも走り続けている。


 このあたりは道がとても狭く、周囲には長草が生い茂っている。兵を伏せておくには格好の場所だ。いきなり左右から襲撃されたら、縦に伸びきった隊列を寸断され大混乱に陥る危険性がある。敵地から離れるまでは、安心などできなかった。


「はぁはぁ……。も、もう駄目だぁ~。これ以上は走れないぃ~」


佐久間さくま殿、しっかり走ってください。兵を率いる立場のあなたが落伍なんかしたら、物笑いの種になりますよ」


「笑われてもいい……笑われてもいいから、恒興つねおきよ、私をおぶってくれぇ~!」


「ち……ちょっと! いい大人のくせして、十二歳の俺にもたれかからないでくださいってば!」


 敵地から命がけで脱出しようとしているこの緊迫した状況下で、恒興と信盛だけは緊張感の欠片も無い漫才をやっている。何してるんだこいつら、と他の武将たちは二人を白い目で見ていた。


「……皆の者、止まれ。草むらから、何かが飛び出て来る」


 突然、信長が立ち止まり、刀の柄に手をかけながら鋭い声で言った。将兵たちは驚きつつも、おのおのの得物を素早く構えて周囲に警戒の目を走らせる。


 耳を澄ませると、かさかさという草ずれの音が。

 敵襲か、と織田兵たちの間に緊張が走った。しかし、草むらから現れたのは、


「な……何だ、狸か……。驚かせやがって……」


 恒興がホッとため息を吐く。兵卒たちも、自分たちを怯えさせた張本人である数匹の狸たちを憎々しげに見下ろした。


「待て、警戒を緩めてはならぬ。油断したところで敵兵に出くわしてしまうのが、いくさというものだ」


 隊列の先頭にいる内藤ないとう勝介しょうすけが、若い将兵たちにそう叱った。後方の中備えで勝介の怒鳴り声を耳にした平手ひらて政秀まさひでも、「勝介の言う通りです」と信長に進言する。


「先ほどの狸たちは、何かから逃げるように慌てて草むらから飛び出て来ました。草むらの向こうには、我らを狙う伏兵が潜んでいるのやも知れませぬ」


「なるほど。孫子の兵法書曰く、『鳥のつ者は伏なり。獣のおどろく者は覆なり』というわけか。鳥が飛び立ち、獣たちが驚いて走り出て来るのは伏兵の兆しだ。……者共、武器から手を放すな! 敵襲に備えるのだ!」


 信長は、兵たちに再度警戒を促した。


 その直後のことである。左右から矢の雨が飛来したのは。


「うろたえるな! 矢が飛んで来る方向を狙って、こっちも射返すのだ!」


 信長はそう叫んで兵たちを励ます。だが、草地に潜んでいる敵に当てずっぽうで矢を射ても当たるはずがなく、こちらは敵から丸見えである。一方的に矢の集中攻撃を受けるしかなかった。


 しかも、敵は隊列のどこに総大将がいるのか把握しているようである。信長直属の兵たちを集中的に狙って矢を浴びせかけてきた。


(兵たちに号令をかけている若々しい声の主が敵の大将・信長に違いない、と判断したのか)


 そう察した政秀は、刀で矢を払いながら「信長様を守れ!」と怒鳴る。しかし、隊列が長く伸びきった状態では、まともに守備などできない。兵たちは、続々と矢にたおれていく。


 矢の雨がやむと、野盗のような身なりの男たち五十数人が草むらから飛び出して来て、機敏な動きで織田の兵たちを斬り伏せていった。野盗とは思えないほど、各個人が相当な剣の腕を持っているようである。


「何だ⁉ 長田おさだ重元しげもとの兵たちではないのか⁉」


 先頭の部隊を率いている勝介は、後ろの隊列を襲撃している野盗集団を見て驚いた。


 なぜこんなところに野盗どもが? 近くに賊たちの隠れ家でもあるのか?


 ……いや、敵が何者であれ、戸惑っている場合ではない。ただちに中備えの部隊に駆けつけて、信長様を助けねばならない。

 そう思った勝介は、麾下の兵たちに後方の部隊へ応援に行くように命じようとした。


 だが、その直前、今度は正面からたくさんの雄叫び声が聞こえてきた。何事だ、と見ると、またもや野盗姿の男たち。こちらも四、五十人はいる。


 勝介はチッと舌打ちしながら、襲いかかって来た野盗どもを十文字槍でほふっていく。


(信長様の本隊を襲撃している野盗たちは、見たところ尋常ない強さのようだが、正面から現れた野盗どもはたいしたことないな。同じ盗賊の一味とは思えない力量の差だ。どう見ても、信長様の本隊を襲っているのは歴戦の強さを誇る武士の一党だ。

 ……まさか、野盗の姿に化けた敵の侍が、野盗たちを金で雇って、信長様の襲撃を手伝わせているのか? しかし、なぜ野盗のふりをしている⁉ 長田家の武士ならば、身分を隠さずに我らに襲いかかって来るはずだぞ)


 勝介は、長年のいくさ人生で培った勘によって、野盗の半分がどこかの家の武士とその郎党たちであることを見破っていた。


 正体を隠して信長を襲うということは、織田家と公で対立関係にある松平まつだいら広忠ひろただ派の三河武士ではないはず……。

 考えられるのは、ただ一つ。信秀と同盟もしくは主従関係にある味方の武士が、信長の暗殺を目論んでいる――ということだ。


「くそっ、裏切りか! 裏切ったのは、どこのどいつだ! 織田家に従っている三河武士か? それとも今川か⁉」


 勝介は、野盗どもを薙ぎ倒しながら、怒り狂う。かつてないほど焦っていた。


 疲労困憊の信長様の兵たちを襲っている奴らは、手練れの正規兵たちである。俺がこの野盗どもを倒して救援に駆けつける前に、信長様は討たれてしまうかも知れない……。




            *   *   *




 信長軍の隊列は、すでにズタズタになっていた。


 野盗集団(?)の頭目らしき長身痩躯の男が巧みな用兵で織田兵たちを攪乱し、信長の中備え部隊が前後の部隊たちと連携を取れなくしていたのだ。


 先鋒隊の勝介も、後詰め部隊の信清も、自分たちに襲いかかって来る敵を倒すので精いっぱいで、信長を助けに行けない。中備えの信長本隊では、政秀が左足に刀傷を負い、いよいよ追いつめられ始めていた。


じい、しっかりしろ。傷は浅いぞ」


「わ……私などの心配をしている暇はありませんぞ、信長様。何とかして、血路を切り開かねば……」


「この賊どもを統率しているあの長身の男を倒せば、敵の士気も下がるだろう。誰か、あの人相の悪い男を討ち取れッ!」


 信長が政秀に肩を貸しながらそう怒鳴ると、武闘派神職の千秋せんしゅう季忠すえただ池田いけだ恒興つねおき虎若とらわから勇気のある足軽五、六人が、賊の頭目――その正体は今川家の隠密の御宿みしゅく虎七郎とらしちろう――に一斉に攻めかかった。佐久間さくま信盛のぶもりも、「お前も行けッ!」と信長に背中を蹴られたため、ヤケクソで刀をブンブン振り回しながら攻撃に加わる。


「……フン。ひよっこどもが束になってかかってきても、数々の修羅場をくぐり抜けて来た俺は倒せぬぞ」


 虎七郎は眉一つ動かさず、刀を下段に構えて待ち構える。


「おりゃぁー! 一撃入魂!」


 空気を震わすほどの大音声を上げながら、季忠が薙刀を振り落とした。


 虎七郎は風になびく柳のようにさらりとかわすと、刀を一閃させて季忠とすれ違う。


「待て、逃げるなッ」


 季忠は怒鳴って、振り向きざまに薙刀を横に払おうとした――が、柄が真っ二つに切られてしまっていることに気づき、「い、いつの間に⁉」と驚嘆した。


「おぬしの首になど興味はない。目指すは、織田信長の首級のみ」


 そう言い捨てて、虎七郎はすぐそばまで接近した信長目指して駆けだす。


 そうはさせじとばかりに、今度は恒興と信盛が立ちはだかった。

 信盛は逃げたいのだが、後ろの信長が物凄く恐ろしい形相で睨んでいるので、さすがにここで敵前逃亡はできない。二人同時に、わぁー! と叫びながら斬りかかった。


 虎七郎は鼻で笑うと、恒興の刀を受け流し、滅茶苦茶に刀を振り回す信盛の攻撃を軽々とかわして尻に一撃浴びせた。信盛は、「ふぎゃぁ⁉ し、尻が割れたぁ!」と叫び、大げさにぶっ倒れて泣き喚く。


「の……信長様を守るんじゃー!」


 虎若ら足軽たちも、勇を鼓して、槍を突き出す。

 だが、全く当たらない。曲芸じみた身のこなしで安々と回避されていく。「もう一丁!」と突き出した虎若の槍の柄は、季忠と同じようにスパンと切り落とされてしまった。


「ぎぇっ⁉」


 敵の理不尽なほどの強さに及び腰になってしまった足軽の一人が、顔面を真一文字に斬られる。槍衾やりぶすまを築いていた足軽たちは、恐怖のあまりほとんどの者が腰を抜かしてしまった。


(こ……この恐るべき剣術、駿河で今川家の足軽をやっていた頃に見たことがあるぞ? あと、ゾッとするほど冷酷そうなあの顔にも覚えがある……)


 勇気だけは人一倍ある虎若は、使い物にならなくなった槍を捨てて、刀を構えながらなおも戦おうとした。しかし、何やらこの長身痩躯の男には見覚えがあるような気がする。まさか、この男は……。


「皆の者、退け。これではらちが明かぬ。俺自ら、この無礼者を討ち取ってやる」


 味方の将兵たちが続々と傷つけられていくのを見て、賊の頭目に対して烈しい殺意が湧いてきたらしい。信長は、燃え上がる闘志を宿した瞳を煌めかせ、刀の切っ先を虎七郎に向けた。


「来い、賊徒。この信長の命を狙った代償として、八つ裂きにしてやるぞ」


「い、いけませぬ、信長様!」


「ここは私が!」


 政秀と山口やまぐち教吉のりよしが必死になって止めたが、信長は二人の手を乱暴に振り払った。


「お前たちは怪我をしていてまともに戦えぬ。大人しく見ておれ。この俺が父上の望む『乱世を終わらせ、世に秩序をもたらす英雄となる男』ならば、このような場所でこんなつまらない男に討ち取られぬはずだ。天が、必ずや俺を守ってくれる。……もしも、ここで死ぬのならば、俺はしょせんその程度の男だったということだ」


「……この俺がつまらない男だと?」


 虎七郎は、これまでずっと表情に乏しかった顔を初めてくしゃりと歪ませ、大胆不敵な若武者をねめつけた。


「何だ、怒ったか。追いはぎをして日々を食いつないでいる野盗など、この世で最もつまらない人間の部類に入ると俺は思うがな。

 ……それとも、盗人ぬすっとのふりをしているだけで、どこぞの身分ある武士か? その巧みな技の数々、野盗が用いる剣術とはとても思えぬ」


「そのようなこと、そなたが知る必要はない。そなたは……ここで死ぬのだからな!」


 虎七郎はダッと地を蹴り、稲妻のごとき速さで信長との間合いを一気に詰めた。そして、信長の首をねるべく剣を一閃させ――。


「う、うおっ⁉」


 直前で、虎七郎は殺気を感じて飛び下がっていた。


 北の方角から、槍が物凄い勢いで飛んで来たのである。槍の刃は、虎七郎の鼻をかすめた。あともう一歩踏み出していたら、顔面は串刺しになっていただろう。


 鼻先から、ぼたぼたと血が滴り落ちる。怒った虎七郎は、槍が飛んで来た方角――こちらに向かって駆けて来る一騎の騎馬武者をギロリと睨んだ。


「おぬし、何奴だッ⁉」


「よそ見をするな、たわけ!」


 間髪を入れず、信長が虎七郎の懐に飛び込んで来た。

 さすがの虎七郎も、まだ動揺から立ち直れていなかったため、上手く回避できない。ぎりぎりよけたつもりだったが、信長の刃は虎七郎の左腕を傷つけていた。


「こ……この……!」


 体勢を立て直して反撃しようとしたところで、馬のいななき声と荒々しい馬蹄の音が耳に飛び込んで来た。

 もしや、と嫌な予感がした虎七郎はさらに飛び下がる。その直後、虎七郎と信長の間を槍投げの騎馬武者が猛然と駆け抜けていった。危険を察知して逃げていなかったら、馬に蹴り殺されていたことだろう。


「さっきから邪魔ばかりしおって……。何者だ、おぬしは」


「賊ごときに名を名乗るのも馬鹿々々しいが、冥途の土産に教えておいてやろう」


 騎馬武者は巧みな手綱さばきで馬を停止させると、そう静かに言ってひらりと馬から飛び降りる。そして、地面に転がっていた愛用の槍を拾い上げ、ブーン、ブーンと肩慣らしをするように数度旋回させた。


「拙者は、織田家中において最初槍はなやり造酒丞さけのじょうと呼ばれている者だ。我が殿の命により、嫡男の信長様の救援に参った。痴れ者どもよ、我が槍の餌食とならぬうちに降参するがいい」

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