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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 三章 乱世の下の青春
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覚醒

「わ……若殿様がやられちまった! に、逃げろぉ~!」


 信長が射倒されたと見るや、尾張兵たちは一気に大混乱に陥った。数人の雑兵たちが我先に逃げようとする。


「ばっかやろう! お前らのお国の若様が矢に当たって倒れたっていうのに、心配もせずにさっさと逃げ出そうとするな! この薄情者たちめ!」


 虎若とらわか甲斐かいなまりで怒鳴り、逃げようとしていた兵たちの一人の首根っこをつかんだ。信長の恩情で織田軍の足軽に再雇用されたことに恩義を感じているらしい。


「重い税で殿様に苦しめられている農民たちだったら逃げ出してもいいが、お前ら尾張の民たちは織田信秀様に可愛がられているじゃねぇか。ここで逃げやがったら、『尾張の民たちは、恩義のある殿様のご嫡男を見捨てて逃散した愚か者ぞろいだ』と日本国中歩き回って言い触らしてやるぞ!」


 よそ者の虎若にそこまで叱られると、領主の信秀から受けた施しや情けを思い出した農民たちも何人かいたようである。逃走しようとした兵たちの半分ほどが、逃げる足を止めた。


「馬鹿言うな! 命あっての物種じゃ! ……あぎゃぁー!」


 足を止めなかった残りの半分は、ことごとくが森の中から現れた新手の敵兵たちに惨殺されてしまった。


「み……皆の者、逃げてはならぬ! 戦って血路を開くのだ! 散り散りに逃げても、順番に殺されていくだけだぞ!」


 矢を背中に受けて立ち上がれない山口やまぐち教吉のりよしが、口から血を吐きながら、兵たちを叱咤する。


(信長様は大丈夫だ。必ず生きておられる……)


 仰向けに倒れたまま、信長はピクリとも動かない。だが、教吉は信長の強靭な生命力を信じていた。あの方は、矢に当たった程度で死ぬような人ではない……。


「敵の侍大将よ、来い! この池田いけだ恒興つねおきが相手だ! 信長様には、指一本触れさせんぞ!」


 乳兄弟である恒興も、信長を信じている。今はとにかく、信長様の命を狙う敵の侍大将を倒さねば、と闘争心を激しく燃やしていた。


「邪魔だ、小僧! どけい!」


 信長を射た長田おさだ家の侍大将は、立ち塞がる恒興に対してそう威嚇したが、恒興は怯まない。


「やぁっ!」


 気合一閃、侍大将に斬りかかった。しかし、まだ十二歳の恒興は体力的にそろそろ限界が来ていたようである。その一撃は、腕に覚えのある武士ならば容易くかわせるほど遅かった。


 長田家の侍大将は、身を小さくひねらせて攻撃を回避すると、刀を使わずに恒興を殴り飛ばした。


「う……がはっ……」


 吹っ飛んだ恒興は、松の木に頭を打ち、気絶してしまった。


 侍大将は十二歳の若武者を放置して、信長へと歩み寄る。信長は敵の総大将なのでどうしても討ち取らねばならないが、まだ十二、三歳に見える恒興を殺すつもりはないらしい。この胴間声の武将は、主君の長田おさだ重元しげもとほど峻厳な気性ではなく、できたら子供は殺したくはないと思っているようだ。


「信長殿。まだ十四歳の貴殿を殺すのは忍びないが、これも武門の習いだ。大人しく観念して、とどめを刺されてくれ」


 長田家の侍大将は、目を瞑っている信長に刀の切っ先を突きつけ、ためらいがちにそう言った。

 虎若や尾張の兵たちが信長を救援しようとしたが、長田家の兵たちに阻まれ、信長に近づくことすらできない。


「……ここは、貴殿の尾張国でも祀られている牛頭天王ゆかりの森だ」


「…………」


「ここで死ねば、牛頭天王が貴殿をすぐにあの世へと誘ってくれるはず。それゆえ、安心して――」


 そこまで言いかけて、長田家の侍大将はハッとなって体を硬直させた。


 瀕死の重体のはずの信長が、いつの間にか目をぎょろりと開き、まばたきもせずに自分を睨んでいたのである。死にかけている人間の眼差しとは思えないほど、その瞳は爛々と燃えていて、獰猛どうもうな狼のごとき鋭い眼光を放っていた。


(……は、早くとどめを刺さねば)


 侍大将はそう焦ったが、金縛りにあったかのように、刀を握る手が動かない。信長にひと睨みされただけで、かつてないほどの恐怖に陥っていたのである。


 この少年は、ただ者ではない。そう思った次の瞬間には――。


「ぐだぐだとうるさい奴め」


 稲妻のごとく目を光らせた信長は、射倒されてもしっかりと握りしめていた愛刀を一閃させ、侍大将の刀を弾いた。


「なっ……!」


 侍大将は手から刀を取りこぼす。


 拾わねば、と思った時にはすでに遅かった。


 信長は恐るべき瞬発力で身を起こし、胸に刺さっていた矢を左手で軽々と抜く。そして、敵に猛然と飛びかかった。


「よくも、俺の大事な家来と尾張の民たちを傷つけてくれたな」


「あぎゃぁ⁉」


 矢じりを、敵将の右目に深々と突き刺す。天王の森に、絶望と恐怖の悲鳴が響き渡った。


「な……なぜ……? 我が矢に胸を射貫かれて、なぜ平気で立っていられ……ゴフッ」


「俺は牛頭天王の化身だ。歯向かう敵はことごとくほふり、尾張の人々を守る。大切なものを守り抜くために、敵は皆殺しにする」


「や、やめ……たすけ……」


「戦場で敵の大将を殺すことに一瞬でも躊躇したお前が悪いのだ。そんな半端な覚悟で、味方の命を守れるか! たわけッ!」


 信長はそう怒鳴ると、倒れた敵の体の上に馬乗りになった。そして、刀の柄を両手で持ち――敵の左目へと刃を振り落とした。


 長田家の侍大将は叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。泣き喚き、よだれをたらしながら、哀れな声で命乞いをする。信長は冷ややかな目でそれをしばし見下ろしていたが、


「無様な……。俺がいずれ死ぬ時は、かくのごとき振る舞いを絶対にせぬようにしなければな」


 そう一言呟くと、泣き叫んでいる侍大将の口に刀をぶっ刺し、息の根を止めてやるのであった。




            *   *   *




 信長が壮絶な手段で侍大将を討ち取ると、敵も味方もしばらくの間、呆然と信長を見つめていた。


 当の信長はというと、初めて殺人を犯したのにも関わらず、涼やかな顔で平然としている。ゆっくりと周囲を見回して、味方たちに死者や負傷者がどれだけ出たか確認しているようだった。恐ろしいほどに冷静である。つい先ほどまで初陣で負けたことを落胆していた感傷的な少年の顔は完全に消え失せており、


 ――あれは、人か、鬼神か。


 と、敵兵たちが震え上がるほどの威風をその身から放っていた。


 義元と同じく瞳に龍神を宿せし者――信長を抹殺せんと企てた寿桂尼じゅけいにの謀略は、かえって信長の「覚醒」を促してしまったのだった。


「お……おのれ! よくもやってくれたな!」


 侍大将の部下であった副将が、ようやく我に返り、怒りに身を任せて信長に斬りかかった。


 信長は棒立ちのまま、動こうとしない。目をすがめ、迫りくる敵を無言で睨んでいる。


 敵の副将が雄叫びを上げながら、刀を大きく振り上げた。


「の……信長様!」


 教吉がそう叫んだ直後。

 なんと、信長は脇差を抜き放って、電光石火の早業でそれを投げつけていた。


「な、何ッ⁉」


 猛然と走りながら刀を大上段に構えていた敵の副将は、立ち止まることも、飛来した刀を防ぐこともできなかった。


 喉元に刃が突き刺さり、敵将はゴフッと血を噴き出しながら斃れる。


 信長は、死んだな、とボソリと呟くと、むくろとなった敵将の顔を踏みつけて、喉元に深々と突き刺さっていた脇差を乱暴に抜いた。そして、「お前たち、何をボーっとしている」と甲高い声で味方の兵たちを叱るのであった。


「敵将たちは俺が討ち取った。残りの雑兵どもを、さっさと片づけぬか」

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