天王の森
信長軍は北へ北へと追いつめられ、ついに天王の森を背にしてしまった。
「こうなったら、やむを得ぬ。中備えと後詰めの部隊が中心となって、森に潜む伏兵たちと戦い、血路を切り開くしかない」
平手政秀も、ようやく腹をくくったようである。駆けつけた恒興から「我らの敗北はもはや覆らぬ。今は、信長様をこの戦場から逃がすことこそが一番大切だ」という内藤勝介の言葉を聞き、勝介の言うことは最もだと考えを改めたのだ。
「皆の者、信長様をお守りするのだ。後ろの森から、敵兵が現れるぞッ」
政秀が声を張り上げて将兵たちに警戒を促した直後、天王の森から無数の矢が飛んで来た。予測通り、長田重元が森に兵を伏せていたのである。
「くっ……。折悪しく北から強風が吹いているせいで、矢の勢いが凄まじい」
信長は眉をしかめ、おのれの不運を呪う。「信長様、この強風では矢がここまで飛んで来る恐れがあります。馬上で流れ矢に当たらぬよう、急ぎ下馬なされよ」と政秀に注意され、舌打ちしながら馬から飛び降りた。
後詰め部隊の兵たちが続々と敵の矢の餌食となっていく。数人の名のある侍までもがあっけなく斃れてしまった。
矢の雨が止むと、森に潜んでいた長田軍の別動隊が姿を現した。巣から飛び出て来た蜂の群れのごとく、信長軍の後詰め部隊へと一斉に襲いかかる。
かくして、信長軍は、南から進軍して来る重元軍本隊の猛攻を防ぎつつ、北の森から出現した奇襲部隊と戦わねばならなくなってしまったのである。
信長軍が生きて尾張に帰還するためには、この奇襲部隊を退け、森を抜けて北へ逃げるしかない。
* * *
「フン。挟撃作戦とは、三河武士も小狡いことをしやがる」
後詰め近くの部隊にいた信清(信長の従兄弟)は、押し寄せて来る敵兵たちと激しく切り結んでいた。
「父の信康は、兄であり主君である信秀のために美濃で無残に死んだ。俺は父のように死んでたまるものか、絶対に生き残ってやる。
お里よ、お前には悪いが、俺はお前の弟を守るためには戦わんぞ。俺が助かるために……おのれ自身のためだけに、戦ってやる」
そう喚きつつ、信清は荒々しい剣さばきで戦う。すでに大量の返り血を浴び、顔は赤く染まっていた。
信長のためには戦いたくはないが、ここで自分だけが尻尾を巻いて遁走したら、織田の将兵たちに軽蔑されるだろう。いずれ織田弾正忠家から独立して尾張国内に新勢力を打ち立てるためには、自分についてきてくれる味方がいる。この戦場で信清という男がいかに強く頼もしい武将か人々に見せつけておくべきだと考え、率先して激闘に加わっていたのである。
(俺には、信長のように他者を惹きつける人間的魅力がない。だが、乱世において最も大事なのは、強さだ。強くさえあれば、美濃の蝮のごとき悪漢でも、多くの武将や民衆を従わせることができる。ここで俺の強さを誇示して、俺の大将としての器を皆に見せつけてやるのだ)
斬りかかって来た敵の足軽の首を力任せに刎ね、また血の雨を浴びる。
おお、おおおッと狂った獣のように吠えまくり、信清は戦い続けた。元々粗暴な性格だったため、むせ返るような血の匂いを嗅いで、野獣のごとき闘争心が燃えたぎりだしたのである。
「うおおお……うおおおおーーーッ‼」
相手が、信長でなければ。
お里でなければ。
愛しい人たちでなければ、俺はこんなにも無慈悲になれる。
もっと、もっと、殺さなければならない。殺しに殺して、自分の中に残っている甘さや優しさを粉々に砕かなければ……妻の弟であり、友である信長に牙をむく非情さを持つことなどできない!
「殺せ、信清! おのれの敵は、全て殺せッ! それが、俺がこの乱世で生き残る唯一の道だ!」
* * *
「信長様。後詰めの多くの部隊が苦戦を強いられていますが、信清様の隊が森の奥深くまで進み、血路を切り開いてくれているようです。信清様が力尽きぬうちに、我らもこの森を駆け抜けて逃げましょう」
側近の山口教吉が、信長に襲いかかろうとした敵兵を槍で突き殺し、周囲を警戒しながらそう進言した。
敵の大将の長田重元は、天王の森のいたる場所に兵を伏せているようである。森を抜けて北へと逃走しようとしている信長たちは、さっきから何度も木々の陰から飛び出して来る敵兵の不意打ちを喰らっていた。現代の軍事用語で言えば、ゲリラ戦法である。
「そうか。やはり、信清は頼りになる従兄弟だ。最近は険悪になってしまうこともたびたびあったが、俺が危ない時には助けてくれるのだな」
「はい、そうですね。信清様は乱暴なところはありますが、ああ見えてお優しいところがありますから。……信長様、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが」
「心配するな、何でもない。ただ……初陣で俺は負けてしまったのだな、と思っていただけだ。父上は俺に失望なされるであろう」
信長は、珍しく気落ちしているようだった。開戦前に「まだ勝敗が決まったわけではない」と政秀に啖呵を切った時の勢いは失せ、すっかり意気消沈してしまっている。
「そ……そのようなことは……」
そのようなことはない、と教吉は主人を励ましたかったが、武家の子息が戦場で不覚を取って跡継ぎ候補から外されるということはよくあることである。家臣たちから「あの若殿は初陣で戦に負けた。一族を率いていく器量がないのではないか?」と疑念を抱かれてしまったら、これまで不動であった信長の世継ぎとしての立場が揺るぎかねないことは若い教吉でも分かる。
「……の、信長様、今はとにかく逃げましょう。このままでは、我らは挟み撃ちにあって全滅……あぐっ⁉」
「どうした、教吉⁉」
突然、教吉がドサリと倒れた。見ると、教吉の背に矢が突き刺さっている。信長は「しっかりしろ!」と叫びながら、教吉に駆け寄ろうとした。
「わ……私は大事ありませぬ! それよりも、急いでここから離れてください! て、敵の新手が来ます……!」
教吉がそう叫ぶや否や、四方八方から敵兵が現れ、一斉に矢を射かけてきた。
「チッ……! 不覚を取ったか!」
尾張兵たちが、続々と斃れていく。信長の傍らにいて無傷で立っているのは、池田恒興と虎若ら三十数名の足軽たちだけであった。平手政秀や千秋季忠、佐久間信盛らは、この混戦の中で散り散りになってしまっている。勝介の部隊は、いまだに森の入り口あたりで長田重元の本隊の進攻を防ぐべく激闘を繰り広げていることだろう。
「織田一族は美男美女ぞろいだという。あの目が覚めるような美貌の若武者こそが、織田三郎信長に違いない。ようやく獲物が現れたな……。者共、信秀の嫡男を討ち取れぇーッ!」
松の大木から姿を現した長田家の侍大将が、胴間声でそう下知した。どうやら、信清や他の部隊が通過するのをやり過ごし、信長の本隊がここに現れるのをずっと待っていたようである。
森の中での戦闘で信長軍を翻弄し、味方の部隊を分断させ、信長の本隊が孤立してしまったところで襲いかかる……。そこまでが、長田重元の策略だったのだ。土地勘がある長田軍だったら、容易く行える作戦である。信長がこの森でどのように逃げようとするかも先読みできるはずだった。
(たかが焼き働きだけの戦だと油断をしてのこのことやって来たら、命の危機にさらされるとは……。敵の領内に攻め込むという行為は、これほどまでに危険なことであったか)
敵兵たちは、槍衾を築いて信長たちに襲いかかってきた。虎若ら足軽部隊が死に物狂いで防ごうとするが、どうあがいても多勢に無勢である。どんどんと押されて、信長たちはあっという間に包囲されていく。
「牛頭天王よ、我に加護あれッ!」
長田家の侍大将が強弓を引き絞り、ぴゅうっと矢を放った。
森の中を駆け抜ける強風に乗り、矢は光のごとき速さで飛ぶ。避ける暇も無かった。矢は鎧を貫通して、信長の胸のど真ん中に突き刺さった。
――吉法師。
矢を受けた衝撃で倒れゆく刹那、父の声が確かに聞こえた。
――吉法師よ。我が一族は、牛頭天王……お天王様のご加護を受けて繁栄するであろう。
幼い頃、父に肩車をしてもらって、牛頭天王を祀る津島の天王祭を見物した時の記憶が蘇る。
――荒ぶる鬼神の前ではどんな邪悪な輩であろうとも赤子同然、敵無しじゃ。お天王様はおのれを信仰する者に恵みを与え、救ってくださる。
父が牛頭天王という鬼神について語ってくれたあの時、自分は何と言ったであろうか……。
そうだ、自分は……俺は……。
――吉法師は、父上や母上、くら姉上たち家族を守りたい。平手の爺、林、内藤、青山たち、たくさんの家来たちを守りたい。そんな頼もしい殿様になりたい。そのためには、お天王様と同じくらい強い男にならなければいけませんね。絶対に、そうなってみせます。
――吉法師。お前なら、必ずやなれるぞ。牛頭天王のごとく、逆らう敵をことごとく屠り、領民たちに幸福をもたらす荒ぶる鬼神にな。
――はい! その時は、父上のことも絶対にお守りいたします!
そう……父と約束したのだ。
俺は、牛頭天王のごとき武将になると、父上に誓ったのだ。
それなのに、こんなところで死ぬわけにはいかない。「天王(牛頭天王)の森」などという名を冠した森の中で討ち死にするなど、冗談にしてもたちが悪すぎるではないか。
(俺は……死なぬ! ここは、俺の死に場所ではない!)
信長は、心の中で絶叫した。
その直後、信長の肉体は草むらの中に倒れていた。




