今川からの誘い
太原崇孚――以降は一般的に馴染み深い「雪斎」の名で語りたい――は、前にも書いたが、今川義元が僧侶であった時代に教育係を務めていた臨済宗の名僧である。
先代の今川氏輝(義元の同母兄)が急死した後、義元が家督争いで庶兄の玄広恵探を破って今川家当主の座につくと、雪斎は義元の補佐役として政治だけでなく軍事方面でもその異才を発揮するようになった。義元にとっては第二の父であり、人生の師と言うべき存在である。
そんな今川家の宰相が、今、織田信秀を訪ねて尾張古渡城に姿を現していた。
「お初にお目にかかりまする、信秀殿。拙僧は雪斎と申す者です。こたびは、居城新築のお忙しい時期にお目通りが叶い、誠に恐悦至極に存じまする」
「お顔をお上げくだされ、雪斎殿。天下に名高き名僧である貴殿にそこまで畏まった態度を取られたら、こちらが逆に恐縮してしまう。
……だが、色々と立て込んでいて忙しいのは事実だ。世間話は抜きにして、早速、用件を伺いましょう」
評定の間に通された雪斎が恭しく頭を下げると、短気な信秀はあいさつもそこそこに本題に入るように促した。今川義元がどのような用件で懐刀の雪斎を寄越したのか、早く知りたかったからである。
雪斎は「ははっ」と寂声で言い、静かに顔を上げた。織田家の重臣たちの警戒心に満ちた視線が雪斎の体にいくつも突き刺さったが、法衣を身にまといし宰相はいっさい動じている気配はない。その威風堂々たる姿は秋霜のごとく、何人たりとも犯し難いものがある。彼がただの僧侶ではなく千軍万馬を率いる名将であることは、この場にいる誰もがすぐに理解できた。
「…………」
「俺の顔をじろじろと見て、いかがなされた。さあ、用件を話されよ」
顔を上げてもなぜか黙ったままこちらを凝視してきた雪斎のことを気味悪く思い、信秀はわずかに苛立ってそう急かした。
雪斎は深く鋭い視線を信秀から外すと、「御意」と短く答え、ようやく用件を語り出す。
その内容を聞いた信秀や重臣たちは驚き、
「信長様のおっしゃった通りになりましたな……」
と、林秀貞が思わず呟いていた。
雪斎が持ちかけた提案というのが、「共に三河を攻めないか」ということだった。
「西三河を南北に貫く矢作川――この川を両軍の境目として、信秀殿には矢作川以西の西三河地域を自由に切り取って頂きたい。我ら今川軍は、織田軍が矢作川を越えぬ限り、信秀殿の西三河支配を邪魔立てせぬと誓いましょう」
「矢作川、か……」
信秀は三河国の地図に目を落としながら、静かに呟いた。
矢作川のすぐ東には、松平広忠の岡崎城がある。つまり、広忠の生殺与奪の権利は今川軍に寄越せ、ということらしい。
(今川義元は、俺に広忠を殺させたくないのだろう。広忠をもう一度屈服させ、いずれ来るであろう我ら尾張衆との決戦で広忠軍の勇猛な三河武士たちを戦力として使いたいのだ)
信秀と同じことを考えていたのだろう、弟の信光も「フン……。今川殿は美味しいところ取りをする気か」と嫌味を言った。
「ハハハハ。美味しいところ取りとは心外ですな。我らが手を結んでいるという事実ひとつで、三河の武士たちに大いなる脅威を与えられるのです。織田軍は、戦意喪失した敵勢を容易く蹴散らして、矢作川以西の西三河を制圧できることでしょう。信秀殿にも十分に益があるではありませんか」
「な、なるほど……。信長様も先ほど似たようなことをおっしゃっていましたな」
雪斎の言説を聞き、秀貞が再び感嘆の声を漏らす。十三歳の少年が雪斎ほどの人物と同じ思考ができたことに心から驚いているのである。
「ほほう……。ご嫡男の信長殿が、拙僧と同じことを……」
雪斎は、秀貞の独り言を耳聡く聞いていたようだ。ぎょろりと大きな眼を動かし、上座の信長に視線を注ぐ。
刀の切っ先のように鋭い眼差しを肌に感じた信長は、
(何だ、この坊主。人をじろじろと見て失礼な奴だ)
と思いながらも、臆することなく無言で睨み返してやった。
信長と雪斎の視線が、バチバチと稲妻のごとくぶつかる。
すると、雪斎の瞳がほんの一瞬だけ大きく揺れ動き、
「この少年は……なるほど。こんなところにも、龍神がいたか」
わずかに高ぶった声でそう呟いた。その囁き声は評定の間にいた誰の耳にも届かなかったが、平手政秀は今川家の宰相の小さな異変を見逃してはいなかった。
嫌な予感がする――そう思った政秀は、さっきから信長様がああ言ったこう言ったとペラペラ喋って無邪気に喜んでいる秀貞の肩をつつき、
「林殿、使者の前で余計なことを話してはならぬ」
と、小声で忠告した。しかし、秀貞はよく分かっておらず、「へ? 何のことです?」と言いながら首を傾げる。
「とにかく、黙っておるのだ。あの坊主はただならぬ。不用意に、奴の前で信長様の話をするな。信長様が目をつけられたらどうするのだ」
(……私が信長様の一番家老なのに、二番家老の平手殿に何故指図されねばならんのだ)
と、秀貞は内心不快に思ったが、政秀は秀貞よりも二十一歳も年上である。親子ほど年の離れた熟練の老将に面と向かって逆らう意気地がない秀貞は「承知した……」と言うと、渋々ながら黙ることにした。
一方、今川家からの誘いに乗るか否か悩んでいた信秀は、政秀と秀貞が密かにそんなやり取りをしていたことに気づいていない。「とりあえず……」と顔を上げ、雪斎に言った。
「家臣たちと相談いたす。しばし別室にてお待ちあれ」
「はい。色よいお返事が頂けることを願っておりまする」
信長から視線を外してすでに冷静さを取りもどしていた雪斎はそう言うと、近習に案内されて評定の間から退出するのであった。
* * *
評定の間から雪斎がいなくなると、真っ先に口を開いたのはまたもや信光だった。
「雪斎だか雪隠だか知らんが、あの得体の知れない坊主は信用できんぞ。手を結んでも、裏で我らの足元をすくおうとするやも知れぬ」
「矢作川より東には足を踏み入れるな、と今川に指図されるのも気に入りませんな。義元が矢作川以東の領域を制圧したら、三河国の最大勢力である松平広忠とその麾下の勇猛な三河武士団が今川家の走狗となりまする。義元にとっていいことだらけではありませぬか」
信光に同調して発言したのは、評定が始まった当初は緊張してガチガチだった柴田勝家である。どうやら、少しずつ緊張がほぐれて、自分の意見が言えるようになってきたようだ。
そんな信光と勝家の意見に対して、「ですが、当面の間は今川家と手を結ぶのも一つの手だと拙者は思いまする」と言ったのは平手政秀である。
「何だと? おい、平手。今川の誘いに乗って、お前は何かいいことがあると言うのか? 今川と連携など取らなくても……」
俺の意見に異を唱えるとは気に食わん、とばかりに信光が吠えかかると、政秀は右手を前に突き出して「落ち着いて聞いてくだされ、信光様」となだめた。
「よろしいですか。この約定の肝心なところは、我らが矢作川より東に攻め込まぬことを約束する代わりに、今川義元も矢作川を越えて我らに戦を仕掛けて来ぬことが保障されることです。
そうなれば、我らが攻め取った西三河地域の支配は安泰。西三河の統治が安泰ならば、その西方の知多半島が戦火に脅かされる危険性がいっきに薄れます。知多半島は、尾張にとって戦略面、財政面、両方において大事な……」
「おお、知多半島か! さすがは平手の爺だ! あそこは、すごく大事なところだぞ!」
政秀の言葉の途中で、信長が童のごとく突然はしゃぎだした。飛び跳ねるように上座から降りると、懐から取り出した尾張国の地図を政秀の前に広げられていた三河国の地図と繋ぎ合わせ、目を輝かせながら早口でまくしたて始めたのである。
「我が尾張の知多半島は、平安末期の頃より常滑焼という優美な陶器が名産品となっている。それに、ここには塩田があるからな。塩の生産で大儲けができる。交通の要衝で人と銭がたくさん集まる場所だから、裕福な商人も多い。
うむ、うむ。もしも今川軍に攻め込まれて、西三河だけでなく、この知多の地域までもが戦乱に巻き込まれたら大損だ。銭が集まる場所は、絶対に守らねばならん。朝廷への献金や美濃攻めで莫大な出費をしてしまった今は特に、この地域から戦を遠ざけて知多半島の豪族たちの調略や懐柔につとめねばならぬ。
そういった理由で、今のところは今川と喧嘩にならないようにしておくべきなのだ。なあ、そういうことだろう、爺ッ⁉」
「は、はい……。信長様のおっしゃる通りです……」
政秀は、若干身を引きながら頷いた。他の重臣たちも、唐突に大興奮して鼻息荒く語り出した信長に戸惑っているようである。そんな様子を見て、信秀は苦笑していた。
子供の頃に信秀から「銭を使いこなす者こそが、真に富める者である」と教えられて以来、信長は銭儲けの話に異様な興味を示すようになっていた。暇があったら、尾張や周辺地域の特産物や物の値段を家臣に調べさせて、個人的に記録しているらしい。今目の前に広げてある尾張国の地図にも、各町の様々な情報が殴り書きされている。事情をよく知らない家臣たちの中には、「うちの若殿様は商人にでもなりたいのか……?」と、首を傾げる者も多かった。
「信長、少し落ち着け。ここは評定の場じゃぞ。
…………ふむ。政秀よ。今はまだ、義元と雌雄を決するのは早いとそなたは思うのだな? 三河をめぐって争うべき時ではないと?」
信秀が思案げに腕組みをしながらそう問う。
政秀が「ははっ。時期尚早かと」と答えると、「儂も政秀と同じ意見じゃ」と秀敏が言った。
「叔父上。口からよだれがたれていますぞ。さっきまで居眠りをしていたのに、話の内容を理解しているのですか」
「たわけ。儂は歴戦の兵の織田玄蕃允秀敏じゃぞ。眠りこけながらでも、周囲の物音や話し声ぐらい聞こえるわい。…………で、何の話じゃったかな?」
「……今川と手を組むか否かの話です」
「ああ、それそれ。雪斎が言っておったやつか。
……まあ、いずれ敵となる人間と一度は手を組んでみるのも策の内じゃよ。協力関係にある間は、お互いの手の内をのぞける機会が増えるからの。今回の三河攻めで共に戦って、今川義元という男がどんな武将なのかその目で見極めてみるといい」
「一度は敵と手を組んでみるのも策の内、か……。なるほど、一理ありますな」
信秀は迷いを打ち消すように大きく頷くと、「決めた」と力強く言った。
「雪斎をここへ呼べ。俺は、今川義元の誘いを受けるぞ」
※作中における「矢作川を境にして西三河を分割する、という談合が織田と今川の間にあったのでは……?」という内容は、かぎや散人氏が翻訳と解説を入れた『現代語訳 信長公記 天理本首巻』(デイズ刊)を参照しました。




