松平広忠包囲網・前編
信長が初陣を飾る時が近づきつつある。
戦いの舞台は、三河である。
しかし、その前に、この時期の三河国の混迷ぶりについて説明しておかねばならない。
天文十五年(一五四六)現在、三河岡崎城(今の愛知県岡崎市康生町)の松平広忠(徳川家康の父)はまさに四面楚歌の窮地に立たされていた。
まず、尾張の織田信秀が勢力を東に伸ばして、西三河を侵食しつつある。それと呼応するように、広忠の政に不満を持つ三河国内の諸勢力が反抗の狼煙を上げていた。その反広忠勢力の中心にいるのは、広忠の叔父・松平信孝などの同族や譜代の重臣たちであった。
政略結婚で同盟を結んでいた水野信元(家康の生母・於大の方の兄)も、すでに信秀側に寝返っている。
尾張知多郡東部から三河碧南郡西部にかけて大きな勢力を張っている水野氏との姻戚関係が破れ、三河国内での孤立がますます深まった広忠には新たな同盟者が必要だった。苦慮の末に広忠が新たな同盟者として選んだのが、
田原の戸田氏
である。
渥美半島の田原城(現在の愛知県田原市田原町)を拠点にしている戸田康光(宗光)は、東三河の有力豪族といっていい。広忠は戸田氏を頼みとすべく、戸田康光の娘の真喜を新たな正室に迎え、戸田氏と同盟関係を結んだ。
しかし、生き残りのためのこの外交戦略が、松平家に思いがけない危機をもたらすことになってしまったのである。
この頃、戸田氏は今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町)の領地をめぐって牧野氏と対立していた。
その牧野氏を後押ししていたのが、駿河・遠江二か国の大大名である今川義元だった。
つまり、松平広忠は、同盟者の戸田氏が今川義元と敵対してしまったため、これまで広忠の庇護者であった義元とも反目しあう仲に陥ってしまったのである。
かくして、西は織田信秀・水野信元・松平信孝ら三河の反抗勢力。東は今川義元とその傘下の牧野氏……という「松平広忠包囲網」が自然発生したのであった。
広忠には、もう頼るべき味方がほとんどいない。三河国内には同族の松平氏が他にも数多いるが、彼らの多くは好き勝手に動いていて、一族が結束して戦うなど到底無理だった。
この時、後の徳川家康――竹千代はわずか四歳。松平家にとって、今がまさに危急存亡の秋だった。
* * *
「……というのが、現在の三河国の情勢でござる。おのおのがたもすでにご承知だとは思いますが、評定を始める前にもう一度頭に叩きこんでおいてくだされ」
ここは、信秀の新拠点・古渡城。城の外郭はまだ普請中だが、城主館はあらかた完成している。
平手政秀が、召集命令に応じて集まった重臣たちを前に、筆者がしたのとほぼ同じ内容の説明をし終えていた。
上座に座る信秀と信長はもちろん、織田秀敏(信長の大叔父)・織田信光(信長の叔父)ら一門衆、林秀貞・内藤勝介ら家老たちも、隣国の政治情勢ぐらい十分に分かっている。今さら説明を聞くまでもない……はずだったのだが。
「も、申しわけありませぬ。も……もう一度だけ、三河の情勢をお教えくだれ……。三河の豪族たちの勢力や人間関係があまりにも多くて、ややこしくて……。松平家などなぜこんなにも分家があるのです? 十六? 十八? いや、もっと……?」
額ににじむ汗を忙しなく拭いながらそう言ったのは、柴田勝家だった。どうやら、重臣たちが集う評定に初めて参加したため、緊張のあまり小難しい話が頭に入って来ないらしい。
「そういうことは評定が始まる前日までに勉強をしておけ、馬鹿者! いついかなる時でも事前の備えを怠らぬのが武士というものだ! そんなことでは、戦場で不覚を取るぞ!」
短気者で知られる兄の信秀よりもさらに気が短い信光が、拳を床に激しく叩きつけながら割れ鐘の大音声で怒鳴った。
後に「鬼柴田」と渾名されることになる勝家も、この時期は未熟な二十代の青年に過ぎない。尾張国内で「一段の武辺者」と恐れられる信光に一喝されてしまったら、熊みたいな巨体を小さく縮こまらせて「め、面目ございませぬ……」と泣きそうな顔で謝ることしかできなかった。
「まあまあ、信光。もうそのへんにしておいてやれ。若い頃は誰でも何かと粗相をするものじゃ。儂など、元服したての頃、初めて評定に参加する前夜に緊張を紛らわそうと思って大酒を飲んでしまってなぁ。朝方まで飲んでいたせいで、評定の最中におおいびきをかいて眠りこけてしまったものよ。若気の至りじゃのう。わはははは」
評定中でも緊張感が全くない呑気者の秀敏がそう言って大笑いする。評定の席にいた一同は、
(それは若気の至りではなく、ただ単に性格が図太いだけでは……)
と、一様に心の中で呟いていた。
「……こほん。では、もう一度説明しましょう。権六(勝家の通り名)、今度は一言一句聞き漏らすでないぞ」
「は、はい。申しわけありませぬ、平手様……」
政秀は三河国の地図を扇子で指し示し、先ほどよりもゆっくりの口調で勝家に三河の情勢を説明し直してやった。信光に再び怒鳴られるのが恐い勝家は、顔から血管が浮き出そうなほど力んで集中し、政秀の話に聞き入っている。
(鬼瓦のようないかつい顔が、棗みたいに真っ赤ではないか。面白い奴だなぁ)
城下町を歩いたら子供たちが泣いて逃げ出すほど獰猛な風貌の勝家が、幼子のようにうんうんと無心に頷いて平手の爺に教えを受けている。その光景が滑稽で微笑ましく感じ、信長は口を手で覆いながらクスクスと笑っていた。
勝家という男は、馬鹿正直でどこまでも一途な性格の武人らしい。信長は、そういう真っ直ぐな人間を好みやすい傾向がある。勝家のことが気に入った信長は、
(こいつはいずれ、俺の下で働かせてみたい)
と、考えていた。
* * *
「では、改めて評定を始める」
ようやく勝家が三河国の情勢を理解し、今回の「今川義元の東三河侵攻」に関する評定が始まった。
「駿府(現在の静岡県静岡市)の今川館に忍ばせていた間者の報告によると、今川義元は牧野氏と連絡を取り合い、今年の十一月には戸田康光が立て籠もる今橋城を攻める予定らしい。松平広忠にしてみたら、舅の康光を介して恩人の義元と対立してしまったかたちだ。今頃はどう対処すべきか苦慮している頃であろう。――そして、我らも、この機に応じてどう行動すべきか、早々に方針を決める必要がある」
信秀が重臣たちを見渡しながらそう語ると、林秀貞が「我らの行動……とは、具体的に言うと、何でしょうか?」と問うた。
(新五郎(林秀貞の若い頃の通り名)め。相変わらず、ボケっとしおって……)
信秀は、眉をひそめ、幼友達を睨んだ。わざわざ主だった武将たちを集めて評定を開いたのだから、戦をするか否かの話し合いに決まっているではないか。
何を言っているんだこいつ、と言いたげな呆れた顔で秀敏や信光――そして十三歳の信長にまで見つめられ、秀貞もようやく(あっ、そういうことだったか……)と気がついた。
「ま……松平広忠が東三河の兵乱に気を取られている隙を狙って、我々も西三河に侵攻するか否か……ということを話し合うのですな! わ、分かっていました。最初から分かっていましたとも。はい!」
「嘘をつけ、このぼんやりめ! お前は家督を継いだばかりの権六とは違うのだから、もっとしっかりせんか。それで、よく信長の一番家老が務まるな」
「……ひ、ひっ! 申しわけありませぬ!」
怒らせたら猛獣よりも危険な信光に鋭い眼光で睨まれ、秀貞は恐れおののいた。さっき怒られたばかりの勝家も、ビクッと肩を震わせている。
信光の声は、屋敷内の空気がビリビリと震えるほど馬鹿でかい。戦場では怒声一喝で敵兵たちの戦意を奪う頼もしい声なのだが、こういう評定の場では家臣たちを萎縮させてしまう危険性がある。我が弟ながらあまりにも性格が激しすぎて困った奴だ、と信秀は思っていた。
「兄上よ。このようなこと、話し合うまでもない。この機を逃さず、西三河の反広忠勢力を従えて広忠の背後を斬りつけてやろう。ぼさっとしていたら、戸田氏を撃破した今川義元の軍が三河全体を呑みこんでしまうぞ。義元よりも先に、広忠の居城・岡崎城を攻めてしまえ」
勝家や秀貞を叱り飛ばした荒々しい語気のまま、信光は兄の信秀にそう進言する。物騒の塊のような男の信光は、評定の場でも物騒なことしか口にしない。戦か否かと問われたら、絶対に「即、戦じゃ!」と怒鳴りたてる無類の戦好きである。信秀も、信光が三河に攻め込もうと言い出すのは大方予想していた。
(俺も、今回は信光と同じく三河に侵攻すべきだと考えている。……だが、信康が生きていたら、思慮深いあいつがまた別の意見を出してくれたであろうな)
三男の信光が強気な意見を言い、次男の信康が慎重論を唱える。そして、二人の弟の助言を熟考した長男の信秀が最終的な判断を下す……。それが、信秀にとって理想的な決断の仕方だった。
しかし、信康は美濃の戦場で散ってしまった。信秀には他にも弟たちはいるが、心の底から頼れる弟は、もう信光しかいない。自分の両翼と言うべき弟の一人が欠けてしまったことが、信秀にとっては大きな不安だった。
信秀の子供たちはまだ年少である。他に頼りになる一門衆といえば、萬松寺住職の大雲永瑞(信長の大伯父。秀敏の兄)、そして、飲兵衛の秀敏ぐらいだろうか。
※「同盟者の戸田氏が今川義元と対立したため、松平広忠も今川氏と敵対関係に陥ってしまっていた」という説は、芝裕之氏著『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社刊)を参考にしました。




