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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 三章 乱世の下の青春
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「こ、こら! 楓! 三日前まで熱を出して寝ていたくせに、こんなところで何をしておるのじゃ! ……というか、その子鹿に悪戯などしておらんだろうな⁉」


 転げ落ちるように馬から降りた生駒いこま家宗いえむねが、血相を変えて、桂の木の下で遊んでいるかえでの元へと駆け寄って行く。可愛い娘の体が心配だし、神の御使いの白鹿のことも心配なので、てんてこ舞いである。


「まあ、父上ったら。私のことを何だと思っているのですか? こんな愛らしい生き物に悪戯をするわけないじゃないですか。私がここで遊んでいたら、この子が迷いこんで来たので、一緒に遊んでいただけなのに」


「いやいや。そなた、生まれたばかりの子馬の顔に墨で落書きしたことがあっただろう。『生駒家宗』と、わしの名前を書いたではないか」


「あれは、あの子馬の顔が父上とそっくりだったから、つい」


「つい、じゃない!」


「いいではないですか。呉の孫権そんけんという偉い皇帝も似たような悪戯をしているのですから、許してください。もう二度としませんから」


 楓はそう言いつつ、悪戯っぽく笑い、ペロリと舌を出した。信長主従が家宗の顔を見ると、たしかに見事な馬顔である。信長は「ぶふふっ」と思わず吹き出してしまった。


『三国志』に、呉の名臣・諸葛瑾しょかつきん諸葛亮しょかつりょうの兄)が面長の顔をしていたため、驢馬ろばの額に「諸葛子瑜(しゆ)」(子瑜は諸葛瑾のあざな)と主君の孫権に落書きされてからかわれた、という逸話がある。楓はその話を真似して、そんな悪戯をしたようである。まだ子供なのでやっていることは幼稚だが、古代中国の故事に相当詳しいようだ。


(見たところ男勝りの性格ようだから、生駒家の兄弟に混ざって漢籍などの書物を幼い頃から読み漁っていたのかも知れないな)


 信長は、そんなふうに想像した。


 普通の親なら、「女に学問など不用じゃ」などと叱って書物を取り上げるところだが、家宗は明らかに娘のことを溺愛している。かなりのびのびと育てて、娘のやりたいようにさせていたのだろう。


「心配しなくても、藤原北家の血を引く娘である私が白鹿を虐めたりなどしません。我が生駒家のご先祖がいらっしゃった大和国では、『春日大社の御祭神・建御雷命タケミカヅチノカミ(藤原氏の守護神)は、白鹿に跨ってご降臨なされた』という伝説がありますもの。虐めるどころか、左耳を怪我していたので薬を塗ってあげました。ちゃんと褒めてください」


 本当にハキハキと物を言う娘だ、と信長は感心した。


 他の女子たちが持っていない知識を備え、親に愛されているという自覚があるためだろう。楓は高い自己肯定感を持った少女のようだ。

 その言動にはおどおどしたところが一切なく、桂の大木のように心の芯がしっかりとしているように思われる。しかし、そんな勝ち気な言動とは裏腹に、その仕草はあくまでもたおやかで、貴種の姫らしい上品さは損なわれていなかった。


 貴族の姫君のような外面と雄々しい少年のような内面を併せ持つこの少女に、信長は一気に惹かれていた。三年前はちょっと言葉を交わしただけなので、「美しい娘だな」という淡い好意を抱いただけであったが、この娘は俺好みだという確信を持ちつつあった。


「楓……殿。俺のことを覚えているか」


 信長は、ちょっと緊張しながら少女に歩み寄り、そう声をかける。


 城下町を歩けば町娘たちにキャアキャアと黄色い声で騒がれる美男子の信長だが、本人には自分が美形だとか女にもてているという自覚はあまりない。だから、三年前に一度だけ会っただけの楓にどのような反応をされるか少し不安だったのである。


「あら? あなた様は…………あっ! 馬から落ちた人だ!」


 楓はようやく信長に気づいたような素振りを見せ、笑いながら無邪気にそう言った。娘の無礼に慌てた家宗が、「こら!」と叱った。


「信長殿は、そなたを助けるために落馬したのだぞ。馬鹿にしたような言い方をするな」


「べ、別に馬鹿になんかしていません。私はただ本当のことを言っただけなのに……」


 父に怒鳴られ、楓は唇を尖らせる。


(とても正直で、飾り気のない奴だ。こういう娘がいつもそばにいたら、楽しいであろうな)


 気ままに笑ったり拗ねたりする楓の自由さに、信長は春の清風のごとき心地良さを感じ、クスリと笑っていた。さっきまでの緊張感も雲散霧消してしまっている。


「そう怒るな、家宗殿。俺は別に気にしてない」


 信長は、馬顔を真っ赤にして怒っている家宗を手で制した。


 とはいえ、この愛らしい少女に「落馬した人」という印象を持たれたままでは、男として面白くないのも事実である。「だがな、楓殿」と言いながら、ちょっと挑みかかるような目で楓に微笑みかけた。


「俺も三年前とは違う。もう二度と、武士が馬から落ちるなどという不覚は取らぬつもりだ」


 楓を見つめる信長の瞳には、ほむらのごとき煌めきが宿っている。


 その熱を帯びた眼差しの意味に彼女は気づいているのだろうか。楓は、白い子鹿を撫でながら、鷹揚にウフフと笑った。


「そうですか。では、いつか見せてください。あなた様が落馬せずに天翔る姿を」


 上から目線ともとれるその言葉に面食らい、池田いけだ恒興つねおき山口やまぐち教吉のりよしが顔を見合わせる。主人の信長が満足そうに笑っていたため、怒るべきかどうか分からなかったのだ。


「ば、ば、馬鹿者ぉー! 無礼なことばかり言って信長殿に嫌われたら、嫁にしてもらえないぞー!」


 もちろん、家宗は激怒していた。息子の家長いえながはため息をつき、


「……父上。本音がだだ漏れですぞ」


 と、父を諌めるのであった。




            *   *   *




 すでに時刻は夜である。


 信長たちは、生駒屋敷へ行く予定を変更して、再び葉栗はぐり郡に向かっていた。

 子鹿の歩幅に合わせて移動していたため予定よりもかなり遅れてしまったが、葉栗郡に入ると同時に、叩きつけるような雨が夜天から降り注ぎ始めていた。


 せっかく桂の香りの少女と再会できたのに……と後ろ髪を引かれる思いではあったが、楓と屋敷でゆっくりと話している場合ではない。


 一刻も早く、白鹿を葉栗郡の民たちに保護されている母鹿の元へと連れて行ってやらねばならない。民たちも、神の御使いの鹿が生死不明のままでは不安であろう。


(彼女が何者なのか分かったのだ。これからは会いたい時に会いに行けるのだから、今は尾張の民たちの心を安んずることを優先せねば)


 信仰する者たちをあらゆる病魔から守護する牛頭天王ごずてんのうのごとく、俺は俺が愛する尾張の大地と人々を守れる男になりたい――。

 幼き日に、津島の天王祭てんのうさいを父と見てそう誓った。その志を今でも忘れていない信長は、恋心で燃え立ちそうになる気持ちを必死に抑えて、葉栗郡の民たちの元へと急いでいた。


 生真面目な性格ゆえに、他人だけでなくおのれに対しても怠惰や不誠実を許せないのである。自分の恋を優先して、神鹿の祟りに恐れおののく民たちを放置するのは、信長にとってはこの上もない不誠実であった。


「……信長様。もしもこの子鹿を親元に帰しても葉栗郡の豪雨がやまなかったら、どうしましょうか。神の怒りは凄まじいものがある、と大騒ぎになりませんか?」


 教吉が、小さな歩幅でちょこちょこと歩いている子鹿をチラチラ見ながら、そう言った。逃げ出さないように生駒領の農民たち六名に守らせているが、もうすぐ母親と会えることが分かっているのか、今のところは大人しく信長一行について来ている。


「もうそうなると、雨がやむのをじっと待つしかない。

 ……だが、元凶である信賢のぶかた殿は窮地に陥るだろうな。父上は俺にいつもこう言っている。『家臣や民衆は、頼もしき大将にのみ従うものだ。下の者たちに見限られた領主は滅びるしかない』と……。神の怒りを買ってしまった信賢殿を次の守護代として推戴したがる者はぐっと減り、父親の信安のぶやす様に似て温厚な性格の次男・信家のぶいえ殿を慕う者が増えるだろう。自業自得、だがな」


 信長は、切って捨てるように冷ややかに言った。


 父親の信安の治政を見習わず、家臣や領民たちを振り回し、織田伊勢守(いせのかみ)家の次期当主としての自覚が全くない。そんな信賢のことを、なんて怠惰な人なのだと信長は腹立たしく思っていたのである。織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家を父の信秀から立派に受け継ぐために日々研鑽を怠っていない自分とはまったく異なっていて、相容れそうにない。同じ織田一族だから辛抱してやっているだけである。


「……噂をすれば影ですな。まずいですぞ、こんなところで若様と遭遇してしまうとは」


 ゴロゴロと雷鳴が鳴る中、生駒家宗がそう呟いた。


 その視線の先では、馬上の織田信賢が信長たちの行く手を遮っていた。この豪雨の中、子鹿を執拗に探し回っていたのだろう。


「おお、信長。子鹿を見つけたのか。――そいつをこっちに渡せ」

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