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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 三章 乱世の下の青春
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帰蝶

「父上……。本当に帰蝶きちょう頼純よりずみ様に嫁がせるのですか?」


 美濃稲葉山(いなばやま)城の城主館。

 新九郎しんくろう斎藤さいとう義龍よしたつ)は、庭で花摘みをして遊んでいる妹の帰蝶を悲しげに見つめながら、父の斎藤利政(としまさ)道三どうさん)に同じ質問をしつこくしていた。


「くどいぞ、新九郎。それが講和の条件なのだから、どうしようもないのじゃ」


「しかし、長らく敵対していた頼純様のもとにまだ十二歳の帰蝶を嫁にやるのは、心配です。頼純様は骨の髄まで父上のことを憎んでいるでしょうし……」


「これもまた戦国の世の習いだ。図体が馬鹿でかいくせして、いつまでも女々しいことを言うな。

 ……それに、帰蝶は蝮と渾名される俺の娘とは思えぬほど純情可憐で、人に愛されやすい子じゃ。帰蝶ならば、頼純の警戒心を解きほぐして寵愛を受けるに違いない」


 館の縁先に座っている利政と新九郎が、帰蝶に聞こえないぐらいの小さな声で言い争いをしていると、父と兄の視線に気づいた帰蝶が数輪の女郎花おみなえしを手に持って駆け寄って来た。


「父上、兄上。ほら、とっても綺麗ですよ」


 無邪気に微笑み、その清楚な黄色い花を両手で差し出す。深刻そうな顔をしている父と兄を励まそうとしてくれているのだろう。


「ああ、お前のように可愛らしい花だな」


 新九郎は妹の優しさに胸を打たれ、涙ぐみながら女郎花を受け取る。利政も微笑みつつ娘に礼を言い、頭を撫でてやった。


 帰蝶はくすぐったそうな顔をして笑い、汚れなき瞳で父を見つめている。世間では美濃の蝮だの梟雄きょうゆうだのと罵られているこの男のことを、心から信じ切っているようだ。


 帰蝶という少女は、この世に醜いものがあることを知らない。

 幼い頃から、父の利政は娘に人間の醜さや愚かしさを極力見せないように育ててきた。帰蝶がいる前では新九郎を怒鳴らなかったし、口汚い言葉を吐かないように気をつけていたのである。

 また、利政が教育上よくないと判断した書物は、帰蝶に読ませなかった。


 以前、こんなことがあった。

 帰蝶が「『源氏物語』という有名な恋物語を読んでみたいです」と言い出し、利政は美濃国内で『源氏物語』を所持している人間がいないか聞き回ったのである。主君・土岐とき頼芸よりよしの正室が持っていることが分かると、頼みこんで貸してもらい、政務の合間を見つけて娘のために書写した。


 だが、書き写すうちに、


「何じゃ、この光源氏という奴は。ほうぼうで女を泣かすし、最愛の妻である紫の上を裏切ってばかりいるではないか。まだ幼い娘であった紫の上を誘拐同然に屋敷に連れ込んだというのに、幸せにしてやらんのか」


 と、若い頃にたくさんの女遊びをしていた自分の過去を棚に上げて、物語の内容に文句を言った。そして、帰蝶にこの物語をそのままの内容で読ませるわけにはいかない、と判断したのである。


 結局、利政は、桐壺の巻から葵の巻までの九巻――光源氏の出生から、若紫(紫の上)と出会って結ばれるあたりまで――の序盤の内容だけを書写して、帰蝶に与えた。


 しかも、光源氏が義母の藤壺と禁断の関係になる箇所や、若紫がある日突然兄のように慕っていた光源氏に肉体関係を迫られて事後に塞ぎこむ箇所などは、削ったり修正したりして、人間の業深さを描いた部分を可能なかぎり抹消した。おかげで、『源氏物語』のあらすじを知っている者から見たらかなりスカスカの内容になった。


 帰蝶の生母・小見おみの方が、その『利政検閲版・源氏物語』というべき書物を読み、「これはさすがに物語としての面白味がないのでは……」と眉をひそめると、利政は、


「俺は、帰蝶には清純無垢なまま大人になって欲しいのだ」


 そう答えるだけであった。


 そんな利政の愛娘への溺愛ぶりは美濃だけでなく隣国の尾張にまで伝わっており、「あの冷血漢の蝮でも自分の娘だけは可愛いのか」と物笑いの種になっている。


(あんなにも帰蝶のことを可愛がっていたのだ。口にこそ出さないが、父上も帰蝶を手放すのは辛いであろうな……)


 利政の気持ちをおもんばかった新九郎は、とうとう大粒の涙を流し始めた。


(チッ……。泣いている顔も醜いな、こいつは。日頃から俺に疎んじられているというのに、反吐が出るほどのお人好しだわい)


 利政は馬鹿息子の涙など無視しようとしたが、心優しい帰蝶は笑顔を曇らせて「兄上、どこか痛いのですか……?」とたずねた。


「心配しなくてもいいのだよ、帰蝶。新九郎は、可愛い妹のお前を嫁にやりたくなくて泣いているだけなのだ」


「お嫁? 私はどこか遠くへ嫁ぐのですか?」


 甘えん坊で同世代の少女たちよりも幾分か精神年齢が低い帰蝶は、両親や兄弟と離ればなれになってしまうことを心配して、不安そうに言った。


「案ずるな。他国に嫁ぐわけではない。いずれ美濃の新しい守護となるお方の正室となるのじゃ。土岐頼純様といってな、お前よりも十一歳年上の見目麗しき貴公子よ」


「十一歳年上の貴公子……。あっ、八歳年上の光源氏様と結婚した若紫と似ていますね!」


 若紫という少女が光り輝く美しさの光源氏に見初められ、その妻となって何の苦悩もなく末永く幸せに暮らしたと思いこんでいる帰蝶は、自分と若紫を重ね合わせて目を輝かせた。


「ああ、そうだ。お前は、若紫だ。物語の姫のごとく、優しくて素敵な殿方と夫婦になるのだよ。だから、夫となる頼純様のために良き妻となりなさい。いいね?」


 利政は帰蝶を抱き寄せ、まるで幼子に言い聞かせるようにそう語った。素直で疑うことを知らない帰蝶は、「はい!」と無邪気に返事をする。そして、


「ねえ、深雪みゆき。私、光源氏様みたいな殿方と結婚するんですって!」


 と、そばに控えていた深雪という名の侍女に微笑みかけるのであった。


「……おめでとうございます、帰蝶様」


 その名の通り雪のごとく白い肌を持った少女は恭しく頭を下げ、糸のようにか細い声で祝福の言葉を述べた。


 深雪は幼少期から帰蝶に仕えている娘で、帰蝶にとっては姉のような存在である。

 彼女の父や兄は利政に従う武将だったが、いくさで一族のことごとくが城を枕に討ち死にしてしまい、母によって館の奥深くに隠されていた幼い深雪だけは奇跡的に助かった。天涯孤独の身となった深雪は、利政の保護を受け、稲葉山城で帰蝶の侍女として養われている。


 そういった境遇のためか、深雪はいつも何かに怯えるようなびくびくした表情をしていることが多い。まるで、雨に打たれて震えている哀れな捨て犬のようである。


 だが、そんな彼女でも、三歳年下の愛らしい主人が幸せな結婚をすると聞いて嬉しいと感じたのだろう。「おめでとうございます」と言った時の表情は、深雪にしては晴れやかなものだった。


「父上。寂しくなったら、この城に遊びに来てもいいですか?」


「もちろんだ。お前は、この美濃国の平和を守っている斎藤利政の娘なのだからな。誰にも遠慮する必要はない。いつでも、父と母に会いに来なさい」


「嫁ぎ先のお城には、深雪も一緒に行くのですよね? 夜に深雪がおとぎ話を聞かせてくれないと、私眠れないの……」


「はっはっはっ。お前はまだまだ子供だなぁ。深雪はお前の侍女なのだから、同行するのは当たり前じゃ。心配するでない」


 父の言葉を聞いた帰蝶はホッとため息をつくと、ニッコリ微笑んだ。


「孫四郎兄上と喜三郎兄上に、自慢してきます。私、光源氏様みたいな人と結婚するんだわ。行きましょ、深雪」


 どこまでも無邪気で、元気いっぱいの少女だ。帰蝶はキャッキャッとはしゃぎながら深雪の手を引っ張り、孫四郎たちを探しに行った。


「……帰蝶は優しくていい子ですが、いささか心が幼すぎますね。頼純様に邪険に扱われて、城の中でめそめそと泣いていなければよいのですが……」


 家族思いの新九郎は妹の行く末を案じ、手元の女郎花に視線を落としながらそう呟いた。


 何を言っても父が自分の話をまともに聞いてはくれないことぐらい分かってはいる。しかし、可愛い妹が敵地に人質として行くのだ。心配のあまり心がかき乱されて、不安を口にせずにはいられなかった。


「フン。心が幼すぎるから、よいのではないか」


「えっ?」


 自分の言葉に父が何かしらの反応をしてくれるとは思っていなかった新九郎は驚き、弾かれたように顔を上げた。


「それは、どういう意味で……」


「帰蝶こそが頼純を消すための切り札だということだ。まあ見ておれ」


 利政はそう言い放ち、すっくと立ち上がる。


(妹が頼純様を消す切り札? そんな、まさか……)


 新九郎がそう困惑しながら父を見上げると、利政はゾッとするほど残酷な顔で微笑んでいた。


「さて、これから忙しくなるぞ。婿殿が美濃入りするまでに、祝言の準備をしておかなければ」


 そう独り言を言うと、利政は呆然としている息子を放置して自室に戻ろうとした。


「……あっ、父上。帰蝶がくれた女郎花を忘れています」


 新九郎は、利政が脇に置いていた花に気づき、そう呼び止めた。利政は振り向かず、「いらん」と答える。


「帰蝶に気づかれないように、こっそり捨てておけ。俺は女郎花が嫌いなのだ。……この花は可憐だが、腐るとひどい悪臭を放つからな」




            *   *   *




 その年の九月。

 斎藤利政と織田・朝倉の和睦が成立し、越前で保護されていた土岐頼純が美濃に帰国することになった。


「頼純様。斎藤家の姫には、けっして心を許してはなりませぬぞ。まだ十二歳とはいえ、あの蝮の娘です。どのような毒をその幼い体に飼っているか分かりませぬからな」


 越前国を去る際、頼純は朝倉宗滴(そうてき)にそう警告された。


「ああ、重々承知している。父親の利政に私を陥れる謀計を吹き込まれているかも知れないからな。私のために戦死していった越前や尾張の将兵たちの命を無駄にしないためにも、油断は絶対にしない」


 力強く頷きながらそう言い、頼純は朝倉家の人々と別れを告げた。


 そして、花嫁との祝言が待つ美濃大桑(おおが)城(現在の岐阜県山県市。頼純の美濃における拠点)へと向かったのだが――。


(何だ、この子は……。本当に蝮の娘なのか?)


 祝言を終えたその日の夜。頼純はねやで困惑していた。幼妻の帰蝶が急にしくしくと泣き出したのである。


 いったいどうしたのだ、と聞くと、父と母が恋しいと言う。

 両親に会いたいと訴えるその口調はとても子供っぽくて、まだ十二歳にしても幼すぎる。しばらくは手を出すつもりはないが、これでは夜伽もままならないのではないか。


(やれやれ……。嫁いでまだ一日目だというのに、実家が恋しくて泣き出すとは。蝮にどれだけ甘やかされて育ったのやら)


 そう呆れはしたが、頼純は心の優しい青年である。自分を一時期美濃から追い出した憎き敵である蝮の娘だと分かっていても、泣いている少女に冷たい態度を取ることはできなかた。


「泣くな、帰蝶。この城にはそなたの両親はいないが、夫である私がいる。幼いそなたには男女の愛などまだ分からないだろうが、心と体が成長するまでは私のことを兄とでも思って頼りにするといい」


 頼純は帰蝶の涙に濡れた頬をそっと撫でてやった。


 彼女の肌は絹のように柔らかく、瑞々しい。今は幼い顔立ちをしているが、あと二、三年もしたら美しい姫に育つことだろう。


「頼純様……。私、良き妻になります。父上とそう約束したもの、一生懸命がんばらなくちゃ」


 光源氏のように優美な貴公子である夫が優しい言葉をかけてくれたのが嬉しかったのだろう。帰蝶は潤んだ瞳で頼純を真っ直ぐ見つめ、花のように可憐な笑顔を咲かせた。


(この少女の体内にも、蝮から受け継がれた「毒」が流れているというのだろうか。とてもそのようには見えないが……)


 帰蝶の愛らしさに心を奪われかけた頼純は、一瞬、宗滴の警告を忘れそうになった。しかし、すぐに我に返り、


(いやいや……。惑わされるな、頼純。あの蝮には何度も手痛い目にあわされたではないか。美濃守護の地位を手に入れるまでは、蝮の罠には十分気をつけなければ。この娘には表面上優しくて、心を許さぬようにするのだ……)


 と、何とか気持ちを引き締めるのであった。


 頼純の葛藤を知るよしもない帰蝶は、ただ無邪気に微笑んでいる。物語のお姫様のように自分が幸せになれることを信じて疑っていなかった。


 こうして、頼純と帰蝶のたった一年間の夫婦生活が始まったのである。



 一方、その頃、帰蝶の二番目の夫となる信長は――初恋の少女との再会を果たしていた。

※近年の研究では、「濃姫(帰蝶)は信長に嫁ぐ以前に、土岐頼純の妻になっていたのではないか?」という説が出てきています。

今作品では、横山住雄氏の著作(『織田信長の尾張時代』、『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上』。いずれも戎光祥出版)を参考にして、この説を採用しています。

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