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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 二章 父たちの戦国
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死のうは一定・前編

 ところで、宗牧そうぼくの『東国日記』には、吉法師きっぽうしの名前がいっさい出てこない。

 信秀の嫡男であり、人の記憶に残るような眉目秀麗の少年と会えば、宗牧も旅の記録に書き残していたはずである。いったい、勅使ちょくしが到来した時に吉法師は何をしていたのだろうか――。




「俺は、連歌会には出ない。絶対に、出ないぞ」


 連歌会が行われたその日、吉法師は自室に引き籠っていた。というより、籠城していた。

 信秀が何度も「平手の屋敷に早く来い」と催促の使者を遣ったのだが、吉法師はその使者たちをみんな追い返してしまっていたのである。


「フン……。信康のぶやす叔父上や与三右衛門よそうえもんたちがまむしに殺されたのに、父上はなぜ呑気に連歌会などやっているのだ。……与三右衛門は、俺の家老になるはずだった男なのだぞ。今すぐ、仇討ちのための兵を挙げるべきではないか」


 吉法師はごろ寝しながら天井を睨み、そうブツブツと呟いていた。生まれて初めて、父に対して激しい反発心が芽生えていたのである。


 生真面目な吉法師は、いくさに負けたばかりなのに連歌のごとき遊びにうつつを抜かしているのはよくない、そんな暇があるのなら死んでいった家臣たちの仇を討ってやるべきではないか、と思っていたのだ。


「父上は、蝮にこてんぱんにやられてしまって、腑抜けになったのだ」


「吉法師様、そんなことを言ってはいけませんよ? 信秀様には、きっと何かお考えがあるのでしょう」


 乳母のお徳がなだめるようにそう言うと、吉法師は何も反論せずに黙りこんだ。


 さっきから、同じことを繰り返している。

 吉法師が信秀の悪口を言い、お徳がそれを諌め、それに対して吉法師は言い返さない。そして、また間を置いて父の悪口雑言を言い、お徳が信秀をかばう……という二人のやり取りが続いているのだ。


(お父上に対する不満はぶちまけたいけれど、その悪口を誰かに「あなたの父は凄い人だ」と否定してもらいたいのね。吉法師様は、心の底から信秀様のことを尊敬しているのだわ。

 ……でも、斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)に負けたまま尾張で大人しくしている今の信秀様を見ているのが歯がゆいのでしょうね)


 お徳は、幼い頃から吉法師の身の回りの世話をしているので、身内愛が非常に強いこの少年の気性をよく理解している。吉法師は、大切な家臣たちが殺されたまま泣き寝入りしている現在の状況が我慢ならないのだろう。


 ――敵に愛する者を奪われたからには、その十倍の復讐をしなければ気がすまない。


 むかっ腹を立てている吉法師の横顔を見ていると、彼の心の声が聞こえてくるようだった。


 愛する人々を守りたいという強い意思は頼もしく感じるが、生真面目な性格とあいまって極端な行動を取るようにならなければいいけれど……とお徳は少し心配である。


(……でも、信秀様の英才教育を受けた吉法師様ならば、天道に背くような過ちを犯すことはないはず。きっと大丈夫だわ)


 お徳はそう自分に言い聞かせつつ、寝転んでいる吉法師の頬をそっと撫でた。

 お徳は信秀に抱かれて以来、心に余裕ができたのか吉法師にあまり説教をしなくなり、母親代わりになれるよう努力するようになっていた。


「何だ、お徳。くすぐったいぞ」


「少し眠ったら、イライラした気持ちも鎮まりますわ。膝枕をして差し上げますので、どうぞこちらへ」


「俺はもう子供じゃない」


「そんなことをおっしゃらずに、乳母である私にもっと甘えてくださいませ」


「……前はガミガミうるさい堅物女だったのに、ここ一年ほどおかしいぞ、お前。頭でも打ったのか?」


「え? いえ、その……。頭は打っていませんが、恋の稲妻に打たれたというか何というか……ごにょごにょ」


「言っている意味が分からない」


「あ、あうう……」


 お徳は目を泳がせた。顔が真っ赤である。根っからの堅物だった彼女には、


「乳母の身でありながら、あなたのお父上と男女の仲になりました」


 と言い出す勇気はない。


 信秀からは「息子の乳母に手を出す男なんて、他にもいるぞ。別に気にせず、俺の側室になったことを言えばいいのに」と言われているが、恥ずかしくて恥ずかしくて、とてもではないが打ち明けられないのである。年齢はそろそろ三十路に近いが、心は生娘のごとく純情な女だった。


「もぉ~、もぉ~。吉法師様の意地悪ぅ~」


「い、痛い、痛い。なぜ叩く? 赤面しながら腰をくねくねさせて、気持ちの悪い奴だなぁ……」


 恥ずかしさのあまりお徳が吉法師をポカポカ叩き始めると、吉法師は大いに困惑するのであった。




            *   *   *




「まったく……。お徳の奴、近頃変だぞ」


 かわやで用を足した吉法師は、城主館の真っ暗な廊下を歩きながら、独り言を言っている。


 すでに深夜である。結局、吉法師は連歌会に顔は出さなかった。


(今頃、父上は怒っているだろうか。お徳が言っていたように、父上にも何か考えがあるのかも知れない。

 ……いや、連歌会なんてただの遊びじゃないか。家臣たちの仇討ちをせず、芸事にうつつを抜かすのは、やっぱり許せない)


 かつてここまで父に反発心を抱いたことがない吉法師は、このモヤモヤとした感情をどう処理していいか分からず、苦悶の表情を浮かべていた。


 そんな時である。夜風に運ばれて、獣が唸っているような声が聞こえてきたのは。


「何だ? 狼の遠吠え……ではないな。これは、人の声だ」


 耳がいい吉法師は、獣に似たこの声が人間のものであることをすぐに気づいた。何かを激しく罵っているような、それとも泣き喚いているような……そんな雰囲気を獣じみた声に感じたのだ。


 そろそろ連歌会が終わった頃だろうし、平手の屋敷から戻って来た家臣の誰かが酔っ払って叫んでいるのだろうか? そう考えた吉法師は、何とはなしに声が聞こえてくる方角――城主館の庭へと向かってみた。


「おのれ、蝮め! 次こそは……次こそお前を倒してやる! 弟や家臣たちの仇を必ず取ってやるからな! 覚悟しておれッ!」


 そこにいたのは、なんと父の信秀だった。血走った目の信秀は、無我夢中で刀を振るい、何もないくうを斬っている。刀を振るたび、ビューン、ビューンという風を切る音が響き渡った。その音はとても切なく、まるで信秀の心の悲鳴のようである。


(……父上は、闇の向こうに見える斎藤利政の幻影と戦っているのだ)


 そう直感した吉法師は、しばらくの間、暗闇の中で白刃を振り回す父の背中を呆然と見つめているのであった。

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