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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 二章 父たちの戦国
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月下の決死隊

 合戦において、一部の部隊が壊滅したことによって連鎖反応で友軍たちが続々と潰走することを「友崩れ」という。今の尾張軍が、まさにそれだった。


 達広みちひろ隊と宗伝そうでん隊を撃破した斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)の軍勢は、草地に燃え広がるほむらのごとき勢いで猛然と南下して、藤左衛門とうざえもん寛故とおもと(骨左衛門)の部隊を攻撃した。

 信秀の本隊と共に安藤あんどう守就もりなり氏家うじいえ直元なおもと卜全ぼくぜん)を迎え撃っていた寛故隊は、北と西から挟撃される形になり、瞬く間に崩れ立った。


 もう、利政の猛攻を止められる者は誰もいない。戦場のあちこちで尾張軍の部隊が撃破され、信秀のもとには続々と討ち死にの報せが届いた。


「織田主水正(もんどのかみ)様、討ち死に!」


千秋せんしゅう季光すえみつ様、討ち死に!」


毛利もうり藤九郎とうくろう様、討ち死に!」


岩越いわこし喜三郎きさぶろう様、討ち死に!」


 いつの間にか、陣形を辛うじて保っているのは信秀の本隊と寛近とおちかおきなの部隊だけになっていた。


「くそっ。やはり、我らが別働の奇襲部隊を撃破する前に味方の後詰めがまむしにやられてしまったか……。こうなったら、尾張の領内まで死に物狂いで逃げるしかない」


「もはや、それしかありますまい。兄上さえ生きのびてくれたら、こたびの戦の雪辱を果たすこともできるでしょう。……私が蝮の軍に決死の突撃をして時間を稼ぎますゆえ、兄上は残った軍勢を立て直して一刻も早くお逃げ下され」


「待て、信康のぶやす。兄の俺よりも先に死ぬ気か。よせ、行くな」


 信秀は弟を呼び止めたが、信康は聞こえぬふりをして馬に飛び乗った。そして、振り向くことなく、


「兄上! 我が息子とおさと殿の祝言のこと、よろしく頼みますぞ!」


 そう言い残して、敵軍めがけて駆けて行った。血気盛んな内藤ないとう勝介しょうすけまで、「信康様に続けッ!」と突撃していく。


「信康! 勝介! お前たちは死んではならぬ! 待つのだ!」


「信秀殿、総大将が取り乱してはならぬ。今は軍勢を立て直すことが先決じゃ。敵勢はもう目の前まで押し寄せておるのだぞ。弟が捨て身で時間を稼いでくれているというのに、それを無駄にしてはならぬ」


 数多の修羅場を数十年間くぐり抜けてきた寛近の翁が、輿こしの上からそう怒鳴った。信秀は「ぐっ……」と唸り、何とか私情を押し殺して全軍に号令をかけた。


「者ども、落ち着け! 数里退いて立て直すぞ!」




            *   *   *




 信康と勝介の決死の突撃は功を奏し、一時的ではあるが美濃軍の進攻を鈍らせることに成功した。しかし、信秀が軍を立て直している間に、


「信康様、討ち死に!」


 という悲報が飛びこんで来たのである。


「の、信康が……。おのれ、蝮めッ。よくも俺の弟を……!」


 信秀が足元に采配を叩きつけて悲憤の涙を流していると、勝介が血みどろの姿で本陣に舞い戻って来た。


「勝介、大丈夫か⁉ 血まみれではないか!」


「ご……ご心配には及びませぬ。だいたいは返り血でござる。信康様の……信康様の御首級みしるしを敵将から取り戻して来ました……」


「お……おおっ。よくぞやってくれた。礼を言うぞ」


 信秀は弟の首をかき抱き、絞り出すような声で「蝮よ……この恨みは必ず晴らしてやるぞ」と復讐を誓った。


「信秀殿。弟を失って悲しい気持ちは分かるが、急いで木曽川を渡って逃げよう。げほっ、ごほっ……。渡河の最中に襲われたら、ひとたまりもないぞ。……ごふっ、げふっ」


 部隊を撃破されて命からがらここまで逃げて来た骨左衛門・寛故が、信秀の肩に手を置いてそう進言する。戦場の砂埃すなぼこりが体に障ったのか、さっきから咳が止まらないようである。


「し、しかし、信康殿の突撃でいったん足を止めていた美濃軍が、再び進撃を開始しているようです。我ら全員が木曽川を渡り切る前に追いつかれてしまいますぞ」


 宗伝があわあわと狼狽うろたえ、そう言った。今は夜でよく見えないが、その顔は真っ青だった。平時は無口で落ち着いているように見えるのに、いざという時にはまったく頼りにならない男のようだ。兄の寛近の翁とはぜんぜん違う。


「ならば、俺がもう一度突撃しましょう。この『向こう傷の勝介』が、命に代えてでも、蝮めの軍勢を押し返してみせまする」


 勝介が、さっきの突撃で新しくできたあごの傷を撫でながら、そう名乗りを上げた。常に最前線で戦い続けるこの猛将は、額に二か所、鼻に一か所、左頬には十字傷ができている。その渾名あだなの通り、向こう傷だらけだった。


「待て、待て、勝介。お前ばかりに美味しいところを取られてたまるか。今度は、俺に出撃させろ」


 再度出撃しようとする勝介を引き止めたのは、青山あおやま与三右衛門よそうえもんだった。


「うるさいぞ、与三右衛門。その手を放せ。功名争いをしている場合か。今は、殿様を尾張に逃がすことが一番大切なのじゃ」


 勝介が怒鳴ると、青山与三右衛門は、「聞けッ。俺は、ふざけて言っているのではない」と、いつもふざけているこの男にしては珍しく、怒ったような顔をして言った。


「おぬし、右腕に傷を負っているだろう。そんな腕で、蝮と全力で戦えるのか? 今のおぬしが行くよりも、俺が行ったほうが時間を稼げる」


「むっ……。そ、それは……」


「…………それに、だ。俺のような強欲な男が生き残るのと、おぬしのような忠義の士が生き残るのでは、どちらが吉法師きっぽうし様のおためになるか考えたのだ。――吉法師様の将来を考えたら、おぬしが生きるべきだ。ここで死ぬな、勝介。吉法師様のために、生き残ってくれ」


「与三右衛門、お前……」


 不意を突かれたような思いだった。勝介は、与三右衛門のことを不真面目で自分の出世のことばかり考えている大馬鹿野郎だとずっと思っていた。正直言って、煩わしい奴だと嫌っていた。その与三右衛門が、俺ではなくお前が生き残るべきだ、と真剣な顔で言ったのだ。


(俺は、こいつのことを見誤っていた)


 そう思った瞬間、目頭が熱くなり、与三右衛門を抱きしめて謝罪したい衝動にかられていた。


「与三右衛門……与三右衛門……。俺は、俺は……」


「勝介。もう時間がない、俺は行く。さらばだ」


 馬上の人となった与三右衛門は鉄放を肩に担ぎ、戦友に今生の別れを告げた。そして、最後にニタリと笑い、


「これで、こたびの戦の一番手柄は俺で間違いなし。三番家老の座は、俺のものだ」


 そう捨て台詞を残して出撃していくのであった。


 勝介と信秀、他の武将たちは、しばらくの間、去りゆく与三右衛門の背中をポカーンと見守っていたが、やがて勝介は苦笑して、


「阿呆め……。あいつは、最後の最後まで阿呆だったわ。ずっと誤解していて悪かった、などと謝らなくてよかったわい」


 と、呟くのであった。左頬の十字傷は、涙で濡れていた。




            *   *   *




「急げ、急げ! 信秀が木曽川を渡ってしまうぞ! 奴を美濃から生きて返してはならん!」


 斎藤利政はそう喚きながら、猛然たる速さで愛馬を駆っていた。その後ろには、次男の孫四郎まごしろうと三男の喜平次きへいじ。そして、安藤守就、氏家直元、稲葉いなば良通よしみち一鉄いってつ)ら智将勇将たちが続いている。


 信秀の弟の命がけの反撃によって、美濃軍は思わぬ足止めを喰らってしまった。本当は、逃げる間も与えずに恐慌状態の尾張軍を一網打尽にするつもりだった。ここまで面白いように敵部隊を撃破したので、それは不可能なことではないと利政は考えていた。


(俺の考えが甘かったようだな。やはり、信秀の本隊は他の武将たちとは違って容易には倒せぬ。……奴の下には、さっきの信康という弟といい、信康の首を血まみれになって奪い返したあの傷だらけの猛将といい、綺羅星のごとき人材がそろっている。油断をすると、こちらが手痛い目に遭うであろう)


 信秀という男には、優れた将たちを惹きつける何かがあるのだろう。謀略においては利政のほうが上だが、人望においては信秀が利政を遥かに凌駕りょうがしている……。

 身内である美濃の武将たちにさえ「陰険な蝮め。成り上がり者のくせに……」と陰口を叩かれている利政にとって、逆立ちをしても手に入らないのが君主に最も必要な「人徳」だった。


(今ここで信秀を殺さなければ、次の戦ではどうなるか分からぬ。奴の徳が、俺の智を呑みこむやも知れぬ……)


 勝ち戦だというのに、利政は焦燥感に駆られていた。


「父上! 前方に敵影が!」


 喜平次の呼びかけにハッとなった利政は、「止まれ!」と兵たちに命じた。


 下弦の月の下、美濃軍の行く手を槍兵たちが槍衾やりぶすまをつくって遮っている。信秀を逃がすために戦場に残った決死の殿しんがりの兵たちであろう。


「小勢のようです。一気に蹴散らして、進みましょう」


 孫四郎がそう進言すると、利政は頭を振って「待て、落ち着け」と言った。


「今は夜だ。小勢と思ってなめてかかったら、近くに潜んでいる伏兵が脇から襲って来るやも知れぬ。まずは矢を射かけて相手の出方を見るべきだ」


「ち、父上。俺は安藤と氏家のせいで、初陣を台無しにされたのです。ここで手柄を上げなければ、城でぼんやりと留守番している新九郎しんくろう(斎藤義龍(よしたつ))兄上と何も変わらぬ阿呆ではありませんか。俺にやらせてください!」


「あっ、待て! 孫四郎、よさぬか!」


 止める間もなく、孫四郎は手勢を引き連れて飛び出していた。


「尾張の兵たちなど、みんな血祭りにしてやるわ!」


 敗北を喫した軍の兵たちだ。士気も低いに違いない。騎馬兵で突撃して脅してやれば、悲鳴を上げて逃げて行くに決まっている。愚かにも、孫四郎はそう見くびっていた。


 殿しんがりは、さっきも書いたが決死の部隊である。味方を逃がすために死地に残った者たちが、そんな臆病者のはずがない。特に、彼ら決死隊を率いている武将は――。


「よぉし! 十分に引きつけた! 者ども、散開せよッ」


 今にも歌いだしそうで呑気な声が、夜の戦場に響いた。その合図とともに、槍を構えていた兵たちはパッと左右に散らばる。兵たちに隠れて鉄放を構えていたのは――。


「織田家嫡男・吉法師様の三番家老、青山与三右衛門! 参上なり!」


 鉄放を見たことがない孫四郎は、「フン! 何だ、その棒切れは!」と嘲笑いながら突撃を止めない。真っ直ぐ、与三右衛門に向かって行く。ニヒヒ、と与三右衛門は笑った。


 ズダァーーーン‼


 火花が、夜の闇を引き裂いた。

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