忍び寄る敗北
「敵軍襲来! 敵軍襲来! 間もなく我が軍に攻撃を仕掛けてきます!」
瑞龍寺山へ物見に行っていた斥候の一人が、信秀の本陣に舞い戻って来た。
敵兵と遭遇して矢を射かけられたのだろう、甲冑の袖(肩や腕を守る部分)に矢が突き刺さっている。たった一人で帰還したということは、他の斥候たちは殺されたようだ。
「やはり、さっきの大きな音は、敵兵に襲われた弥右衛門が鉄放を撃ったのか……」
「そのようです。山の麓あたりで、鉄放を抱くようにして死んでいる猿顔の兵の遺体を一体発見しました」
(結局、命の恩人のあいつを死なせてしまったか……。弥右衛門、許せ)
内藤勝介は心の中で弥右衛門にそう謝ったが、今は一兵卒の死を悼んでいる場合ではない。敵勢はすでに瑞龍寺山を駆け下り、尾張軍に迫りつつあるのだ。しかも、信秀の読みでは、背後からは斎藤利政(道三)の奇襲部隊が襲って来る。
「与三右衛門。どうやら、三番家老の地位をかけた功名争いなどやっている余裕は無さそうだな」
「馬鹿め。こういう危機一髪の時にこそ、大手柄を立てる好機ではないか。寄せ来る敵を倒して、倒して、大漁の大将首を獲ってやるわい。ガハハハハ!」
青山与三右衛門は鉄放の発射準備をしながら、とても楽しそうに大笑いする。勝介は「お前はどうしてそんなにも呑気なのだ……」と呆れるしかない。
「おお、それは明国渡来の鉄放ではないか。久し振りに見たのぉ。そいつは、敵兵が目と鼻の先まで近づいて来るまで撃つのを我慢しなければいかんぞ。離れた所から撃っても、敵にまったく当たらぬからのぉ」
輿に乗って兵たちを叱咤激励していた寛近の翁が、与三右衛門を見かけてそう声をかける。長く生きているだけに戦の経験も豊富な寛近の翁は、鉄放のこともよく知っているようである。
「なるほど! 敵をギリギリまで引きつけて撃つのですな! ……しかし、撃った後はどうするのですか? 次に撃つまでにかなりの時間がかかりますが……」
「敵兵が目の前にいるのに、次の弾の準備などできるものか。殴れ。そいつをブンブン振り回して、殴るべし。当たったら、物凄く痛い」
「え? でも、これは飛び道具……」
「撃つ前は飛び道具だが、撃った後はただの鈍器じゃ。そう割り切るのが、鉄放という武器との付き合い方じゃ。ふぉふぉふぉ」
寛近の翁はそう言い残すと、自分の部隊へと戻って行った。たしかに、次の弾の装填をしている間に敵兵に殺されたら元も子もない。次の弾が撃てないのならば、殴って戦うほうがまだマシというものだろう。
「……なるほど。撃ったら、殴る。頭の良くない俺には、一番分かりやすい戦い方かも知れない」
与三右衛門は、寛近の翁が教えてくれた戦法が気に入ったらしく、「よぉし、俺が一番手柄だぁー! ガハハハハ!」ともう一度高笑いするのであった。
「与三右衛門の阿呆! 大きな声を出すな! 敵兵に我が軍の位置が知れてしまう……と言っている間に来たようだな。弓兵たち、前に出よッ!」
勝介が号令をかけると、弓術が巧みな足軽たちが弓矢を構えた。
薄闇の向こうから、騎馬武者たちが数十騎。砂塵を巻き上げ、突撃して来る。
勝介麾下の弓兵たちは、ぎりぎりと弓を引き絞り、勝介の合図を待つ。与三右衛門の鉄放の準備は、まだできていない。
「まだだ……まだ射るな。敵が矢頃(射程距離)に入るまで、待つのだ。徒矢(無駄な矢)があってはならぬ。…………よし、今だ! 放てぇーーーッ‼」
ついに、尾張軍と美濃軍が激突した。
* * *
「殿ッ! 安藤様と氏家様が織田信秀の軍と交戦を開始したようです!」
「何だと? 早い、まだ早いぞ。俺は、信秀が兵を半ばまで退いたら攻撃せよと命令したはずじゃ。チッ……。あいつらめ、功を焦ったか」
安藤守就たちの事情を知らない利政は、伝令の報告を聞いて舌打ちした。
利政率いる美濃軍の本隊は、尾張軍の間近まで迫っている。敵に気づかれるギリギリまで接近して、瑞龍寺山の奇襲部隊の攻撃開始とほぼ同時に尾張軍を後ろから強襲する予定だった。しかし、すでに戦闘は始まってしまっているという。
「こうなったら、我らも突撃するしかあるまい。信秀の本隊が安藤・氏家らの部隊に釘付けになっている間に、尾張軍の後詰めを蹂躙してやる!」
美濃随一の策謀家と評されるだけあって、利政の頭の切り替わりは早い。速やかにそう決断すると、采配(大将が兵を指揮する時に使う道具。形状は、掃除に使うはたきに似ている)を振るい、「者ども、かかれッ!」と突撃命令を下していた。
* * *
一方、その頃。すでに戦場からの撤収を完了して、稲葉山城の西方に陣地を築こうとしていた朝倉軍は――。
「物見の報告によると、どうやら尾張軍が美濃軍の奇襲にあっているようですな」
「な、何だと? それはまことか⁉」
今回の戦の原因――土岐氏の嫡流・土岐頼純は、朝倉宗滴から織田信秀の危機を知らされて驚いていた。
この戦は、美濃国の正統なる国主の血筋である頼純を美濃守護職につけ、不当に美濃を支配する土岐頼芸(頼純の叔父)・斎藤利政主従を倒すことが目的だ。だから、宗滴は今回の戦争の旗頭として頼純を戦場に伴って来たのである。
「信秀と尾張の将兵たちは、私のために戦ってくれている。彼らを見捨てることはできぬ。今すぐ助けに行かねば……」
まだ弱冠二十一歳の頼純は、正義感が強く、純粋な心を持った若者だった。信秀が危ないと聞き、尾張軍の危機に駆けつけるべく出陣しようとした。
「お待ちくだされ、頼純殿。ここで我が軍が打って出るのは、愚策でござる。我らまで、蝮めの罠にかかりますぞ」
宗滴は頼純を押しとどめ、「我々は、越前に退却しましょう」と驚くべきことを言った。
「な……。ど、どういうことだ。なぜ、信秀を助けに行ってはならぬ。戦はこれからだというのに、おめおめと退却するというのか?」
頼純はわけが分からず、宗滴に詰め寄る。
老練なる武将・宗滴は、若造がぴぃぴぃ鳴いていても、いっさい気にしない。「左様」と冷徹な声で言った。
「あの狡知に長けた蝮が、信秀に罠を仕掛けておいて、我ら越前軍に対しては無策のはずがありませぬ。恐らく、どこかに伏兵を置き、信秀の救援に駆けつけようとする我らの軍を襲う手はずを整えているはずです。
第一、遠方の越前から遠征してきた我が軍は兵数が少なく、たとえ戦場に駆けつけても信秀を救えるかどうか怪しい。……逆に、尾張軍は大軍ゆえに思っていた以上に統率がとれていません。彼らは、もう長くは持ちこたえられないでしょう。連合軍の主力である尾張軍が潰走してしまえば、兵数の少ない我らは敵地で孤立してしまい、絶体絶命の危機に陥ります。蝮が信秀を殺すことに全力集中している今の内に、我らは速やかに退却するべきです」
宗滴は、無類の戦好きである。一人の武士として、織田信秀や斎藤利政たち名将と戦場で死力を尽くして戦うことを楽しみにしていた。
しかし、宗滴には、別の一面もある。それは、あくまでも朝倉家の利害だけを優先する冷徹な政治家の顔である。この状況は朝倉家にとって大きな危機だ、と判断した今は「越前の兵たちを一刻も早く危険な敵地から離脱させる」ことのみを考えていたのである。
「武士はどんなことをしてでも、戦に勝たねばなりませぬ。しかし、戦場で戦うことだけが戦ではない。あらゆる手段を使い、必ずや頼純殿を美濃の国主にしてさしあげましょう。最後に勝つのは我らです。それゆえ、今は儂の言葉に従ってくだされ」
当主の朝倉孝景や跡継ぎの長夜叉(朝倉義景)には頭ごなしに叱ってばかりいる宗滴も、いずれ朝倉家の有力な同盟者となる予定の貴公子には丁寧な言葉遣いである。しかし、老将の言葉の一語一語に有無を言わせぬ迫力があり、頼純は否と答えることができなかった。
「……あい分かった。だが、我らが背を向けて退却を開始したら、信秀の二の舞になるのではないか? 越前へ逃げるためには、稲葉山城の北方の長良川を渡る必要がある。渡河の最中に背後から襲われでもしたら……」
「ご心配には及びません。儂が少数精鋭を率い、殿をつとめまする。皆が長良川を渡り切るまでの間、敵兵に嵐のごとく矢を射かけて防ぎきってみせましょうぞ」
宗滴には越前軍を美濃から逃がす自信があるらしく、白髭を撫でながらニヤリと笑った。冷徹な政治家の顔から、戦好きの武者の顔に戻っている。
(蝮の狙いは、この戦で信秀の命を奪うことだ。奴にとって、遠方の越前からわずかな兵しか送りこめない朝倉家よりも、尾張の諸侍をまとめて大軍勢を率いて来る信秀のほうが脅威なのだ。今頃、死に物狂いで信秀を殺しにかかっているはず……。我ら越前軍を追いかけるために多くの兵力を割く余裕など無いだろうよ)
天は、信秀ほどの天下の名将をこんな戦場であっけなく死なせはするまい。それよりも、今はいかにしてこの敗北を大逆転へとつなげるか――それを考えるのが儂の役目だ。宗滴はそう思案しつつ、「全軍、退却開始ッ!」と号令をかけるのであった。




