城盗り
天文七年(一五三八)春。尾張国那古野城。
ある男が、急病に倒れて苦しみ悶えていた。男の名は、織田弾正忠信秀である。
「だ、大丈夫ですか、信秀殿」
この城の主である今川氏豊は、病床の信秀が今にも死にそうなほど苦しんでいるのをどうすることもできず、涙を流しながら何度もそう問うていた。
勝幡城主の信秀は、氏豊より十一歳も年上だが、兄弟のように親しく交わっている仲だ。五年前、信秀が蹴鞠の師範を家業とする公家・飛鳥井雅綱を尾張に招いて蹴鞠会を催し、そこで出会った二人はすぐに意気投合したのである。
信秀と氏豊には、共通の趣味があった。それは連歌である。連歌の会を開くために互いの城を頻繁に訪問しあうほど、二人は連歌に熱心だったのだ。少なくとも、氏豊はそう信じていた。
数か月前のこと。いつものように那古野城に姿を見せた信秀は、残念そうにこう言った。
「こちらの城に来る途中で、連歌の道具を川にうっかり落としてしまったのだ」
それを聞いた氏豊は気の毒がり、
(前々から思っていたが、連歌の会を開くたびに那古野と勝幡を行き来するのは面倒だな)
と考えた。そして、
「よかったら、私の城に何日でも滞在してください。ずっとここにいれば、いつでも連歌が楽しめるではありませんか」
と、信秀に提案したのである。信秀は大いに喜び、それからは那古野城で数日から十日ほどの長期滞在をするようになっていた。
そんな交流が続いていたある日、唐突に、信秀は那古野城で倒れてしまったのである。
「お……俺はもう駄目だ。う、氏豊殿、頼みがある。……聞いてくれるか?」
「何でも言ってくだされ。我らは友ではありませんか」
まだ十八歳の若者である氏豊は、涙と鼻水を拭うことも忘れ、信秀の手を握ってそう言った。
駿河の大名・今川氏の一族である氏豊は、十二歳の時に父・氏親の命令で那古野今川氏の養子として故郷から離れた尾張に送りこまれ、心細い日々を過ごしていた。そんな孤独だった氏豊にとって、信秀は兄のような存在だと言えた。そんな兄の最後の頼みとあれば、どんなことであろうとも叶えてやりたい。
「身内の者たちに遺言を……託したい。貴殿の城に、俺の家臣たちを呼び寄せてもよいだろうか」
「そのようなこと、わざわざ問うまでもない。家臣だけでなく、お世継ぎの吉法師殿もお連れするように勝幡に使者をやりましょう」
「いや……倅はこの場には……」
信秀はためらうかのように何か言いかけたが、氏豊は信秀が寝ている部屋から飛び出し、「急ぎ勝幡に使者をやれ!」と家臣に命令を出すのであった。
「チッ。困ったな。幼子がそばにいたら色々とやりにくくなる」
信秀は独り病床でそう呟いていた。
* * *
その夜。那古野城には、信秀の叔父である織田玄蕃允秀敏が信秀の家臣たちを大勢引き連れ、信秀の見舞いに駆けつけた。
秀敏の傍らには、まだ五歳の嫡男・吉法師と乳母のお徳、そして、吉法師の腹違いの姉・くらまでもがいた。
「父上ぇ、父上ぇ、死んでは嫌です。死なないでください。うわぁーん」
そろそろ嫁に行ける年頃のくらは、まるで幼女のように泣き叫び、病床の信秀にすがりつく。信秀の胸のあたりに全体重をかけてすがりついているため、信秀は息苦しさのあまり顔をしかめた。
(なぜ、くらまで連れて来たのですか)
と、信秀が目で叔父に訴えると、秀敏は声を出さずに唇を動かし、
(ついて行くと言い張って駄々をこねたのだから、仕方ないではないか)
と言いわけをした。
「姉上、泣かないでください。吉法師がついています」
吉法師が、姉の袖を引っ張り、そう励ました。
幼いのでまだまだ滑舌は拙いが、幼子とは思えない頼もしさがこの子供にはある。吉法師は、二歳年下の同腹の弟(後の勘十郎信勝)だけでなく、母が同じではない兄や姉たちにも思いやりを見せるような優しい子で、特にこの異母姉のくらにはとても懐いていた。
(……少し様子がおかしいぞ)
駆けつけた織田弾正忠家の人々の様子を見て、氏豊は特に何の疑いも持っていないようだが、若い氏豊の補佐をしている家老は訝しんだ。
信秀の子たちは心から父のことを心配しているように見える。しかし、叔父の秀敏や平手政秀ら重臣たちは悲しげな顔をしてはいるものの、どことなく落ち着いていて、息も絶え絶えな信秀を目の前にしても切迫した雰囲気はない。また、林秀貞という家老だけは、額に脂汗をかいていて視線もきょろきょろとさ迷っている。明らかに挙動不審で、これもまた怪しい。何かを隠しているのではないか。
(そして、何よりもおかしいと思うのは、信秀殿の弟たちが一人としてこの場にいないことだ。兄が今にも臨終しようとしている時に、なぜ駆けつけぬ……?)
氏豊の家老がそこまで考え、「まさか……」と呟いた直後、嫌な予感は現実のものとなったのである。
「と、殿! 城下のあちこちで火の手が上がっておりまする!」
氏豊の小姓が慌ただしい足音と共に現れ、狼狽えた声でそう報告した。氏豊は「何だと⁉」と驚き、裸足で城主館の庭に飛び出す。
見ると、市場がある方角や天王坊、若宮八幡社などの寺社がある方角の夜空が、赤々と昼間のように明るい。城の周辺でかなりの規模の火事が起きているようである。鬨の声も聞こえ、だんだんと大きくなりつつある。これはただの火事ではない。何者かの軍勢が攻め寄せて来たのだ。
「いったい何者の兵なのだ……」
氏豊が呆然と立ち尽くしていると、「俺の兵よ」という声が背後からした。
「の、信秀殿⁉」
振り返った氏豊は驚愕した。さっきまで瀕死の容態だったはずの信秀が、白刃を抜き放って寝床の上で仁王立ちしていたのだ。秀敏や信秀の家臣たちまでもが抜刀している。
「おのれ! やはり、仮病であったか!」
氏豊の家老がそう怒鳴り、信秀に斬りかかった。しかし、刃が信秀に届く直前に、刀を握っていた家老の右手は宙を舞っていた。
大量の血しぶきが飛び、近くにいた吉法師の顔にかかる。くらが「きゃぁぁ!」と悲鳴を上げた。
家老の右手を斬り落としたのは、猛将の内藤勝介。後に若き信長の家老の一人となる男である。そして、青山与三右衛門というこれもまた豪の者が、片手を失ってもなお信秀に立ち向かおうとしていた家老に止めを刺した。
「殿、お逃げくだされ!」
氏豊の小姓がそう叫び、刀を抜こうとした。だが、狼狽のあまり手が震え、上手く抜けない。ガタガタと震えている間に、秀敏と平手政秀に同時に斬りかかられ、あっけなく落命してしまった。
「きゃぁぁ! きゃぁぁ!」
突然始まった殺戮に怯え、くらは吉法師の小さな体を抱きしめながら泣き喚いている。
吉法師はくらとお徳の手をギュッと握り、目の前に転がっている腕を睨みつけていた。その手には刀がまだ握られており、「敵を殺してやる!」という氏豊の家老の怨念が宿っているようだった。
もしもあの右手が宙を浮いて斬りかかって来たら、自分が姉上とお徳を守らなければ。吉法師は気丈にもそんなことを考えていた。
「お徳。子供たちには目の毒だ。吉法師とくらを掻巻(着物状の寝具)の中に隠せ」
血走った目の信秀がそう怒鳴ると、お徳は「は、はい」と頷き、素早く動いて子供たちを掻巻で覆った。
吉法師は掻巻の中でもがもがと何か言っている。敵の姿が見えなかったら姉上とお徳を守れないからこれをどけろ、と訴えているのだが、まさか幼子がそんなことを考えるとは想像もしていないお徳は、必死に二人を掻巻でおさえつけていた。
すでに、城主館は戦場と化している。氏豊の家来たちは主君を守ろうとして戦ったが、完全に油断していたため、館内で暴れ回る信秀の家臣たちの勢いを止めることはできない。
さらに、城下を放火して回っていた信秀の弟たち――与次郎信康、孫三郎信光、四郎次郎信実が武装した兵を引き連れて城内に突入すると、那古野城の手勢は次々と討ち取られていった。
「あっはっはっはっ。織田孫三郎信光、推参なり! 者共、殺せ殺せぇ!」
城主館に、獰猛な獣のごとき怒鳴り声が響き渡る。兄弟の中でも「一段の武辺者」として勇名を馳せている信光が、血刃を肩に担いで現れたのだ。とても愉しそうに笑っているのが氏豊には心底恐ろしかった。
氏豊を取り囲むように守っていた家来たちは、信光の手勢によって瞬く間に惨殺されていく。とうとう氏豊はただ一人になってしまった。
「の、信秀殿! 酷いではないか! 私は貴殿のことを信じていたのに……!」
氏豊がほとんど絶叫に近い声でそう喚くと、信秀は「黙れ!」と吠え返した。大量の返り血を浴びている信秀の着物は真っ赤に染まり、恐ろしい悪鬼のごとき姿になっている。
「騙し騙される戦国の世で、隙を見せたそなたが悪いのだ! 殺されても文句は言えぬ!」
「ならば、殺してくれ! このような無様な城の奪われかたをして、おめおめと駿河に戻ることなどできぬ! 兄の義元に合わせる顔がない!」
「よし、望み通りにしてやろうぞ」
信光が氏豊に刃の切っ先を向けた。だが、信秀は弟を荒々しく押しのけ、
「お前のような男、殺す価値もないわ」
そう叫びながら氏豊を乱暴に蹴り倒したのである。
「駿河に帰るのが嫌なら、都で隠棲でもしておれ。もう二度と、俺の前に顔を見せるな」
「う、うう、う……」
「泣いていないで早く去れ! さっさとしなければ、本当に殺すぞ!」
氏豊は「おのれ、おのれぇ……」と泣きじゃくり、這う這うの体で夜の闇の彼方へと走り去っていった。
「馬鹿めが。なぜ、俺のような男を信用したのだ……」
信秀は氏豊が消えていった闇の向こうを睨み、誰にも聞こえないような小声でそう呟く。そんな父の背中を、吉法師は掻巻の隙間からじっと見つめていた。
(父上が元気になったのは良かったけれど、寒いのかな。肩が震えていらっしゃる)
吉法師は父のことを心配していたが、掻巻に覆われてまわりがほとんど見えないため、自分と姉の周囲におびただしい数の死体が転がっていることは知らないのであった。