父たちの出陣・後編
同じ頃、信秀は那古野城の城主館で兵たちが集結するのを待っていた。
信秀の居室には、信秀の出陣を見送るために正室の春の方、嫡男の吉法師、甥の信清(信長の従兄弟)、重臣の平手政秀が集まっている。また、共に出陣する弟の信康(信清の父)と林秀貞もいた。
「殿。どうか、ご武運を……」
「お春。もっと元気よく俺を送り出してくれ。武家の妻が、戦があるたびにそんな泣きそうな顔をしていたら、戦場に赴く夫は後ろ髪を引かれる思いじゃ」
「も、申しわけありませぬ。でも、毎年のように三河や美濃へと目まぐるしく出陣なさる殿のことが心配なのです。ご無理をなされているのではと……」
「俺は元気健康だ。そなたのほうこそ病人のような顔をしておるぞ」
春の方は、もともと気弱でうろたえやすい性格の女性だったが、近頃は元気までない。どうやら、吉法師が落馬した一件をかなり後になって聞かされて、「母親なのに、私だけ知らなかった……」と気に病んでいるらしい。
春の方様がまた倒れたら大変だと家来たちが気を利かせたのだが、
(私は信秀様の正室なのに、そこまで頼りに思われていなかったのか)
と情けなく感じ、自分を責めているようである。
「父上、ご心配には及びません。父上が留守の間は、俺が母上を必ずお守りします。兄弟や姉妹、城に残る家臣たちのことも、この吉法師にお任せください。俺の補佐として平手の爺も残ってくれますし、三河に不穏な動きがあっても、安祥城(三河碧海郡)の信広兄上や守山城(尾張春日井郡)の信光叔父上と連絡を取り合って見事対処してみせます。だから、美濃にて存分にお働きください」
「おお、吉法師。嫡男であるそなたからそこまで頼もしい言葉を聞けたら、俺も安心して蝮退治に赴けるというものだ」
「はい、蝮になんか負けないでください。俺は、清須の評定での父上の熱い言葉を――『室町幕府を自らの手で再興させ、戦の世を終わらせる』という途方もなく大きな志を聞いて、感動しているのです。やはり、俺の父上は天下一の英雄だと思いました」
吉法師は強い尊敬の眼差しを父に向け、はしゃぐようにそう言った。
大雲和尚は、「全力で生き、全力で死ぬのが武士の道だ」と教えてくれた。吉法師はまるで父上のような生き方だと思ったが、あの時の大演説で「父は、おのれの大志のために、全身全霊をもって戦っているのだ」と確信することができた。やはり、我が父は尊敬すべき武士だった、と吉法師は嬉しかったのである。
「……うむ。日本全国が乱れに乱れているのは、争いごとの仲裁や裁判の権限を持っていた室町幕府が弱体化しているからだ。だから、各地で武士たちが好き勝手に土地を奪い合っている。乱世を終わらせ、世の中の秩序を回復させるためには、室町幕府の再興が必要不可欠だ。
……しかし、その前に、京都への通り道である美濃の戦乱を鎮める必要がある。また、上洛中に背後を襲われたら危険ゆえ、三河の松平とその後ろ盾の今川義元は倒しておくべきだ。これが、俺の『天下静謐』の夢を実現させるための企てじゃ」
「天下、静謐……ですか」
「左様。日本六十余州の大乱を鎮めるためには、まず、天下人である室町将軍が支配する京の周辺国に平和をもたらさなければならぬ。今の京の周辺国は戦乱が相次ぎ、将軍家の威光も地に堕ちている。俺の狙いは、京都に上洛し、我が武力をもって将軍様が京の周辺国を支配する手助けをすることだ。京の周辺国が静謐となり、室町将軍の権威が復活しさえすれば、室町幕府が全国の大名たちに『戦をやめよ』と命令できるようになる。いずれ、日明貿易を盛んに行って繁栄した足利義満公の時代のごとき御世がやって来るに違いない」
信秀は、我が子を相手に、まるで夢物語を語る子供のように自らの「天下静謐」論を説いた。だが、本人は、けっして夢物語ではない、俺ならば可能だ、と信じているのだった。
ちなみに、この物語の序章で一度説明したが、「天下」について念のために再び説明しておく。
「天下」という言葉をこの時代の人々が使う場合、将軍そのものまたは将軍の支配地域である京周辺の国々――五畿内(山城・大和・和泉・河内・摂津)を指すことが多く、信秀が今語っている「天下」も京周辺の地域のことである。
つまり、これまで日本国の秩序を守っていた室町幕府が応仁の乱などで弱体化してしまったから、今の戦国時代になってしまった。だったら、室町幕府の力を復活させ、再び日本国の秩序が守れるようにすればいい。そのためには、室町将軍の支配地域である「京の周辺国」を静謐にする必要がある、ということだった。
口にしたら簡単に聞こえるが、これは途方もない企てである。しかし、ロマンチストの傾向がある信秀は、自分こそが天下に静謐をもたらす英雄になるのだと夢を抱いていた。そして、どこまでも生真面目で父の抱いた志こそが正義だと思う吉法師――後の織田信長も、
(生は全機現なり、死は全機現なり。どんなに困難な挑戦でも、武士が一度決めた志は必ず果たさねばならぬ。全力で生き、全力で死ぬ覚悟で、俺も父の夢の実現のために戦うぞ。天道よ、照覧あれ! 我ら父子は正義を成す者ぞ!)
そう覚悟を決めていたのであった。
一方、従兄弟の信清はというと、二人の会話が半分も理解できず、
「父上。伯父上と吉法師殿は、いったい何の話をしているのですか?」
と、あくびを我慢しながら父の信康にたずねていた。信康は深々とため息をつき、呆れるしかない。
(そろそろ元服だというのに、私の子は……。こんな粗暴で無教養に育ってしまったのは私のせいだ。兄上と私が亡くなった後に吉法師殿の足を引っ張らなければよいのだが……)
これは、美濃攻めから帰還したらもっと厳しく躾ける必要がある。今回の戦では絶対に死ねないぞ、と信康は思うのであった。
* * *
場面変わって、美濃稲葉山城――斎藤利政(道三)の居城である。
薄暗い居室の中、利政は蛇のように鋭い目で美濃国と周辺国の地図を睨み、ひたすら思案を続けていた。朝からずっと雷が鳴りやまない。美濃の大地には、この数日の間、暗雲がたれこめていた。
「信秀と宗滴のジジイは、どのように美濃を攻めて来るか……」
地底の闇から湧き出た亡霊のごとき声が、室内に不気味に響く。利政のそばに控えている小姓は、毒蛇に背中を這われたような感覚に襲われ、ゾッと寒気がして身を小さく震わせた。
「信秀は、先年占拠した大垣城という足がかりがある。それに、東美濃との国境近くには、信秀の味方の犬山城もある。西美濃と東美濃のどちらからでも、奴は侵攻できるだろう。……宗滴のジジイも油断ならぬ。あの百戦錬磨の老将のことだ、抜け目なく俺と六角・浅井の連携を絶とうとするに違いない」
前にも書いたが、南近江の六角定頼は利政の主君・土岐頼芸の妻の父である。また、北近江の浅井久政は六角氏の従属下にあり、浅井氏も頼芸・利政主従の味方に回ると誓ってくれていた。
しかし、名うての戦上手であるあの朝倉宗滴が、美濃と近江の連携を簡単に許すはずがない。越前から南下しつつ、六角・浅井との連絡路を遮断しようとするはずだ。
「チッ。信秀と宗滴、どちらか片方だけでも強敵だというのに、南と北から同時に攻め込んで来るとは厄介な……」
さすがの蝮も、この窮地には命の危機を感じているようで、その声は苛立ちに満ちている。
「父上! 父上!」
利政がイライラしながら軍略を練っていたそんな時――ドン、ドン、ドンと大熊のように重く荒々しい足音が城内に響き渡り、雲を衝くばかりの大柄な若者が興奮ぎみに叫びながら部屋に入って来た。
「やかましいぞ、新九郎ッ。もっと静かに歩けぬのか」
利政は、煩わしそうに我が子・新九郎利尚――後の斎藤義龍を見上げた。
仰ぎ見ただけで首が疲れる。こいつは化け物か、と父の利政が呆れるほどの背の高さだった。六尺五寸(約一九七センチ)はあるだろう。
「も、申しわけありませぬ。されど――」
と言いながら、新九郎は父の真正面に座った。巨体のため、座る時にもドスンと床が揺れて、利政は不快そうに息子から顔を反らす。
「弟の孫四郎や喜平次に初陣を許して、何ゆえ嫡男の私は許されないのですか。私はもう十八歳です。主君・頼芸様への忠義のため、父上への孝行のため、私も戦いとうございます。父上、私の出陣をお許しください」
新九郎は切々と訴えたが、利政の心には息子の想いが届いてはいないようである。思いきり眉をしかめ、まるで汚らわしいものを見るように横目で新九郎を睨んでいた。
(馬に乗るのも難儀するほど異様に背が高く、顔は女たらしと呼ばれた俺の子とは思えぬほど醜い。異形の姿をした物の怪のくせに、忠義だの孝行だの常識ぶったことを言いやがる。……俺とは、ぜんぜん違う。気持ちの悪い奴め)
新九郎は生来穏やかで、下の者の意見をよく聞く若者である。しかし、苛烈な陰謀家の利政には、そんな息子の性質が鈍重で優柔不断な馬鹿者に見えて、いちいち気に障ったのだった。こんな耄碌した奴に俺の跡を継がせて大丈夫か、とまで考えていた。
「……こたびの戦は、美濃の命運を左右する大戦になるだろう。お前のようにぼんやりとした奴が戦場に出ても、犬死してしまうだけだ。この城で大人しく留守番をしておれ」
「ち、父上ッ。俺のことをそんなにも頼りなく思っておいでなのですか。俺は、父上をお支えしたい一心でこれまで鍛錬を励んで……」
「ええい、うるさい! とっとと部屋から出て行け! お前の醜い顔を見ていたら、気分が悪くなるわ!」
利政がそう喚いた直後、外がピカッと光り、ひときわ大きな雷鳴が轟いた。どうやら、かなり近くに落ちたようである。
「…………俺はただ、父上のお役に立ちたいだけなのです」
新九郎は、一瞬、ひどく傷ついた顔をしたが、悲しみと怒りの感情を押し殺して苦しげな声でそう言った。
利政は気まずそうに黙りこんでいる。顔は背けたままで、息子の顔を正視するつもりはないらしい。
(こいつは、人として真っ当すぎる。油商人から成り上がった父と俺の父子二代に渡る国盗りの野望は、達成間近だが……。俺が主君の土岐頼芸に成り代わって美濃の国主となった時、こいつは俺に従うだろうか? 主君を排斥するなど天道の罰が恐ろしい、などとくだらぬことを言うのではないか? ……新九郎は、俺の野心を受け継ぐ器ではない)
どうして蝮の子供にこんな平凡な男が生まれたのか、よりにもよって嫡男として……。利政はそんなことを考え、うんざりとしていたのだった。
「必要ない」
「え?」
「こたびの戦にお前は必要ない、と言ったのだ。お前の力など借りなくても、必勝の策はある。……俺は、織田信秀という男の弱点を知っているからな」
そう言ったきり、利政は再び地図に目を落とし、新九郎が何を話しかけても反応しなくなった。もう話すことはないので無視することに決めたらしい。
新九郎はしばらくねばっていたが、やがて諦めて、小さなため息とともに部屋を去って行った。
「ドスン、ドスン、ドスンと、遠くに行ってもうるさい奴だ。…………信秀の嫡男は元服前の十一歳で、たしか吉法師とかいったか。どんな子供かは知らないが、美男美女ぞろいだという噂の織田家の息子だから、きっと容姿は女子のように美しいのであろうな。できることなら、俺の醜い長男と交換して欲しいわい」
利政――斎藤道三が実際に織田信長と会い、その異才と美貌に目を見張るのは九年後のことである。
利政は、信長よりも先に、その父の信秀と戦場であいまみえなければならない。戦国の父たちの運命の対決が、目前に迫っていた。
※斎藤義龍は、時期によって「新九郎利政」「新九郎高政」「范可」「斎藤義龍」「一色義龍」と名前が頻繁に変わり、とてもややこしいです。今作品では、義龍と名乗る以前は「新九郎」表記で統一し、それ以降は「義龍」と呼ぶことにする予定です。




