華燭の典・後編
花嫁が初夜の準備を整えている間、信長は佐久間信盛、池田恒興、山口教吉、千秋季忠ら年の近い家臣たちを一室に集め、双六遊びで暇を潰していた。
「はぁ~……うらやましい。信長様と私は同い年だというのに、私にはまだ縁談の一つも来ませぬ。まさか信長様に先を越されてしまうとはなぁ~。毎日、熱田大神に『一日も早く嫁を娶らせてくだされ!』とお祈りしているというのに……」
季忠がため息交じりにそう嘆くと、恒興が彼の極太の眉と脂ぎった顔を見つめながら「千秋殿は、その暑苦しい容姿で信長様に勝てると思っていたのか……」と小声で呟いた。真面目な教吉は、「貴殿は熱田神宮の大宮司なのですから、そんな邪なことよりも尾張国の平和を祈ってくだされ……」と眉をひそめながら文句を言った。
信長は、仲間たちのたわいもない会話を聞き流しながら、賽(サイコロ)を指先で弄んでぼんやりとしている。
じきに花嫁が待つ寝室へ行かねばならない。楓ではない女を、この手で抱かねばならない。そのことが、たまらなく憂鬱だった。
第一、今日会ったばかりの女子と閨で二人きりになって、どのような会話をすればよいのか……?
「……なあ。信盛」
「え? 何でしょう?」
「そなた、荒子村の前田家から嫁を迎えたばかりなのだろう。男と女が共に暮らすとは、どんなものなのだ」
「ど、どんなものだと言われましても……」
何を想像しているのか、信盛は顔を赤らめている。
信長がじっと凝視めて返答を待っているため、彼はもじもじしながら答えた。
「え……ええとぉ~……。男女の睦事ってけっこう癖になるというか、カ・イ・カ・ンというか……。うへへへ」
信盛が鼻の下を伸ばしながら照れ笑いすると、信長はあからさまに不愉快そうな顔を作った。
「……俺はそういう話を聞きたかったのではない」
「ええ⁉ 助平な話がお望みだったのではなかったのですか⁉」
「阿呆。年上のそなたに、夫婦とはいかなるものなのか教えてもらいたかったのだ。……もうよい。そなたにたずねた俺が馬鹿であったわ」
信長はプイッと顔を背けた。
信盛は額に大汗をかきながら、「も、申し訳ありませぬ……」と謝る。
呆れた季忠、恒興、教吉が、
「信盛殿! そういうところ! そういうところでござるぞ!」
「そんな調子だから家中で『弱いほうの佐久間』とか渾名されるのですよ」
「これはもう、『助平なほうの佐久間』と改名したほうがよいのでは……」
と、口々に言った。信盛はこの中では一番の年長者だが、とことんなめられているので言われたい放題である。『助平なほうの佐久間』は、しょんぼりと肩を落とした。
「信長様。そろそろ閨へ。奥方様がお待ちでございますよ」
乳母のお徳(池田恒興の母。信秀の側室)が部屋に入って来て、そう告げた。
信長は「デアルカ……」と物憂い声を吐き、ゆっくりと腰を上げる。
その沈鬱な表情を見たお徳は、部屋を出て行こうとする信長を「少しお待ちを」と引きとめ、優しく言い聞かせるような声音でこう言った。
「……信長様。閨に入られる時は、どうか笑顔で。そんな嫌そうなお顔を帰蝶様に見せてはなりませぬ」
「お徳……」
信長はちょっと気まずそうな顔になり、母親代わりの乳母を見つめた。
帰蝶姫との初夜を嫌がっていることを見抜かれ、隠していた悪事をお徳に見つけられてばつの悪い思いをした幼い頃の記憶がふと蘇ったのである。
「楓殿のことはまことに残念ではございましたが、帰蝶様が信長様と楓殿を引き離したわけではありません。信長様の破れた恋と、帰蝶様との祝言は全くの別事……。そう己に言い聞かさねば、互いが不幸になりまする。帰蝶様は先夫を実の父に殺された可哀想なお方です。今日より織田家のお身内となられるからには、信長様があの方を守ってさしあげねば。身一つで美濃より参られた帰蝶様にとって、頼れるのは夫である信長様だけなのですから」
「……今日より織田家の身内……か。たしかに、お徳の言う通りじゃ。織田家の嫡男たるこの俺の役目は、尾張に生きる人々を守ること。帰蝶姫も織田家の嫁となったからには、尾張の人間。織田家の家族……。大事にしてやる責務が俺にはある」
さすがは育ての母というべきか、お徳は信長の扱い方を知っている。生真面目で責任感が強く、身内愛が強いこの少年城主は、
――彼女もまた、あなたが守るべき家族の一人なのですよ。
とお徳に諭され、なるほどと納得していた。
織田家の家族となったからには、帰蝶姫はこの俺が守るべき対象なのだ……。そう己に言い聞かせることで、ままならぬ感情をどうにか割り切ることができた。
「あい分かった。なるべく仲良くなれるようにつとめる」
信長は、まるで戦に赴くような気負い込んだ口調でそう言うと、帰蝶が待つ寝室へと向かうのだった。
お徳は信長の背中を見送り、ホッとため息をついていた。
(最初は義務感からでもいい。少しずつ打ち解けて、まことの夫婦になってもらえたら……)
* * *
「むっ。この匂いは――」
寝室に足を踏み入れた途端、信長は強烈な甘い香りに包まれて軽い目眩を覚えた。
織田家随一の風流人である平手政秀の教育を幼少期から受けたおかげで、茶や舞、香など一通りの文化的教養は身につけている。だから、寝室に漂う匂いの正体も、信長はすぐに分かった。この芳烈な香りは、平安王朝の人々も愛用していたという麝香だ。
麝香は、麝香鹿の牡の下腹部にある香嚢(へそと生殖器の間にある分泌腺)から得られた特殊な分泌液を乾燥させて作る。麝香鹿の牡は、発情期にこの分泌液を排出して、遠く離れた場所にいる牝鹿を誘うという。それだけ強く、甘やかに、異性を誘惑する香りだということである。
(楓の体臭は、生まれつき、黄葉した桂の木が放つ甘い香りに似ていたが……。清々しく匂い立つ彼女の香りは、俺に子供の頃の優しい記憶を思い出させてくれたものだ。……だが、いま部屋に充満しているこの甘く蕩ける香りはどうだ。嗅いでいるだけで心がざわつき、頭の芯が痺れていく。まるで、俺を……)
俺を大人の世界へと誘惑しているかのようだ――。くらくらしてきた頭で、信長はそんなことをふと思った。
寝床の傍らでは、帰蝶が端然と座している。彼女は狐火のように妖しく輝く眼で信長を見つめ、艶めかしい朱唇をゆっくりと動かした。
「斎藤道三の娘、帰蝶にございます。どうか末永くよろしくお願いいたしまする」
丁寧な口調でそう言い、静かに頭を下げる。緑なす黒髪が、はらりと顔にこぼれかかった。
「……デアルカ」
思わずぶっきらぼうに答えてしまった信長は、ちょっと慌てて「こちらもよろしく頼む」と短い言葉を付け足すと、帰蝶と対座した。
「面を上げてよい」
「はい」
夫の言葉に従い、彼女が顔を上げる。
信長は、(妻に優しく接するというのは……こういうことだろうか?)と思いつつ、女の美貌を隠している前髪を少しぎこちない手つきでかきあげてやった。
その瞬間、官能を誘う甘い香りが、再び鼻をつく。
どうやら、帰蝶の髪や衣服にも、麝香が焚き染められているらしい。
彼女が身じろぎし、その髪に触れただけで、信長は蠱惑的な匂いに眩惑される。
(……初夜を首尾よく終えるため、俺の男の本能に働きかける匂いで部屋中を満たしたのだな。俺が蝮の娘を嫌い、夫婦の契りを拒むことを恐れたのやも知れぬ。俺に好かれたい、と思ってくれているのか)
育ちがいい信長は、基本的に人の行為を否定的にとらえる習慣がない。特に、家族や家臣など、身内の者には甘い。だから、花嫁が準備したこの妖しい香りを好意的にとらえ、健気であるとすら感じていた。
(信長様を操って最初の夫・土岐頼純様の仇討ちをするためにも、信長様の心を私の物にせねばならない。そのためには、初夜に情熱的な愛の契りを交わす必要がある――)
帰蝶がそのような思惑を胸に秘めていることなど、知るよしもない。
信長は、お徳の助言に従い、「妻を慈しむ努力」をさらに続ける。
「故郷の美濃とは勝手が違い、戸惑うことも多いであろう。だが、尾張は豊かで良き国じゃ。きっとそなたも気に入る。何か困ったことや欲しい物があれば、遠慮なく申せ」
「……ありがとうございまする。では、一つだけ所望の物があるのですが。よろしいでしょうか」
「うむ。何じゃ。熱田や津島の港から何でも取り寄せて――わっ」
帰蝶は、信長に抱きつき、彼の口を吸った。
信長が部屋に現れるまでの間、彼女はずっとこの甘い香りの中で待っていたのである。とっくのうちに心は昂り、体は火照ってしまっていた。信長がいっこうに自分を抱こうとしないため、痺れを切らしてこちらから襲ったのだった。
(――楓)
別離した想い人の顔が脳裏にちらついたが、信長はそれを懸命に振り払い、眼前にいる女を愛撫することに集中した。
女に襲われてなすがままでは、男として恥ずかしい。少し強引に押し倒して主導権を奪い返すと、荒れ狂う愛欲の海原を泳いだ。
やがて、女の謎めいた深部にたどりつく。神秘の深海へと、信長は深くふかく潜っていく……。
(誰かの視線を感じる)
何者かに凝視められているような感覚。
背中を刺す冷え冷えとした視線に気づいたたのは、ちょうどその時である。
ぞくりと身震いしながら振り向くと、部屋の隅に小さな黒い壺があった。帰蝶が美濃から持って来た物であろうか。あの壺が置かれている場所から人の視線を浴びたような気がしたが……。
「痛ッ」
帰蝶に耳を噛まれ、信長は眉をしかめた。荒い息遣いの彼女は、
「私が欲しいのは、美濃です。美濃国が欲しい。父から奪って。斎藤道三を殺してっ」
そう叫んでいた。しかし、ほとんど喘ぐような声だったため、信長にはほとんど伝わっていない。「美濃が何だって?」と聞き返しながら、彼は再び愛欲の海に飛び込んだ。
若い二人は男女の営みに慣れていない。信長と帰蝶が繋がり、尽き果てるまでに、それなりの時間がかかった。
(処女だったのか……)
信長にとっては、それが一番の驚きだった。
事後、疲れ果てて裸で眠っている帰蝶の顔を見下ろしながら、「前の夫は、まだ幼かった帰蝶に手を出していなかったのだな」と呟く。
土岐頼純は若いながらも心優しく立派な人物だと風の噂で聞いていたが、幼な妻の帰蝶をそれほど大事にしていたということなのだろう。
会ったことも無い頼純という男について思いを馳せつつ衣服を着ていると、背筋にまた、あの視線を感じたような気がした。その凍てつくかのごとき視線は、相変わらず部屋の隅――小さな壺があるあたりからする。
なぜ壁から人の視線を感じるのか。あの壺は何なのか。
生来好奇心が強い信長は、湧き出た疑問をそのままにしておくことができない。帰蝶には悪いと思いつつも、彼女が寝息を立てているのをいま一度確認すると、壺の蓋を開けて中をのぞいてみた。
夜明けが近く、室内は薄っすらと明るくなりつつある。灯火で照らさなくても、そこに何があるのかぼんやりと分かった。
「これは、骨壺だったのか……」
壺の中身は、何者かの遺骨だった。
ということは、信長と帰蝶の情交をじっと凝視めていた者の正体は、骨と化した死人だったということになる。
「…………」
信長は無言で壺に蓋をすると、近くに脱ぎ捨ててあった女の着物を帰蝶の裸体にかぶせ、濡れ縁に出た。
「藤吉郎」
小声でそう言うと、どこからともなく藤吉郎が現れ、草履を差し出す。
この草履取りの少年は、城の者が全て寝静まっている真夜中の時間帯であっても、呼ぶとすぐに駆けつける。いったいいつ寝ているのだろうか。
「信長様。花嫁様は美しいお方でしたか」
「知っているくせに。お前、木から盗み見していただろう」
「へ、へへへ……」
草履を履くと、信長はポツリと言った。「藤吉郎。お前、亡者と遭ったことはあるか」
「へっ? も、亡者ですか?」
「俺はある。姿こそ見なかったが、ついさっきまでそいつにじっと睨まれていた」
「ええと……。おっしゃる意味が分からぬのですが……」
「彼女は少し病んでいるようだ。初夜を迎える部屋に、人骨が入った壺を置いておくとは。恐らくあれは……いや、やめておこう。我が妻なのだから大事にしてやらねばとは思うのだが、どう接すればよいのかいよいよ分からなくなってきたぞ」
信長は憂鬱そうに深いため息を吐き、「気が滅入ってきたゆえ、気晴らしでもするか……」と呟く。藤吉郎はその短い言葉だけで察したらしく、
「朝駆けでございますな。今すぐ馬をひいてきます」
そう言うや否や、厩へと疾風のごとく走って行った。
信長は薄闇の庭で一人になると、またひとつ吐息を漏らす。白みつつある東の空を仰ぎ、愛しき女の名を苦しげな表情で口にしていた。
「楓……。逢いたい……。そなたに逢いたい」
<麝香について>
麝香は、古来から媚薬として用いられることもあったそうです。
楊貴妃は自分の体に麝香を塗っていたらしいですね。
ただ、私は試したことがないので、麝香に本当に催淫効果があるのかは分かりません。
信長と帰蝶がムラムラしてしまったのは、あくまでもフィクションということで……(^_^;)
※これにて尾張青雲編六章の信長結婚編は終了です。次回以降、三好長慶と配下の松永久秀が颯爽と現れる「三好松永登場編」に突入します。
そして、今後の更新予定ですが……。毎夏おなじみ(?)の「児童小説を執筆するための夏休み期間」をいただきたいと思います。
去年の夏は公募の締切に間に合わなかったけれど……今年は間に合わせたい!! まだ一行も書けてないけれど!! 書いたところでまた一次落ちかもだけど!!
なお、『天の道を翔る』の連載再開は9~10月を予定しています。申し訳ありませんが、ご了承ください。
秋以降の物語は、
・三好長慶の台頭!
・信秀ぶっ倒れる!
・明智頼明もぶっ倒れる!
・信広またまた大ピンチ!
……などなど目まぐるしい展開が待ち受けている予定です。どうぞご期待ください!!
今年の夏も異常に暑いし、コロナもおさまってくれないし、色々と大変な世の中ですが、みなさまなにとぞ健やかにお過ごしくださいませ!!m(__)m
ここで信長様から暑中見舞いのひとこと!!
信長「二十一世紀の夏はそんなに暑いのか? ふむ……。では、俺みたいに素っ裸で川に飛び込んで泳げばよいのでは?(名案)」
アキラ「危険なので真似しないでください!! 夏は川辺の事故が多いから要注意!!」




