もう一つの失恋・前編
信長の正妻となる運命の帰蝶は、いまだに、母の小見の方と共に明智家の土岐高山城(現在の岐阜県土岐市土岐津町)にいた。
織田と斎藤の縁談は、着々と話が進みつつある。嫁入りの準備のため、道三は帰蝶をいったん稲葉山城に連れ戻す必要があった。
「頼明殿との面会を求める。我が妻と娘を返してもらいに来た」
ある日のこと。斎藤道三は、たった数人の供だけを連れて、土岐高山城の城門前に姿を現した。
驚いたのは、明智頼明(明智家の当主)である。昨冬の戦から帰還して以来、病に伏していた頼明老人は、寝床から難儀そうに身を起こして「蝮が来たじゃと? 何かの罠ではあるまいな?」と三人の息子たちに言った。
息子たちとは、すなわち、戦狂いの嫡男・定明。
少し慎重すぎる嫌いがある次男・定衝。
そして、近江国の佐目村から迎えられて猶子となった彦太郎(後の明智光秀)のことである。
「罠でも何でも関係ない。飛んで火にいる夏の虫とはこのことです。城内に迎え入れると同時に、蝮を殺しましょう。我が血吸の槍であの男を串刺しにしてやります」
血生臭いことが大好きな定明は、開口一番、瞳をキラキラ輝かせながら物騒なことを口走った。定衝が慌てて「それはいけません、兄上」と止める。大義を重んじる彦太郎も、定衝に同調し、「蝮はいつか討つべきですが、正々堂々と戦場で倒すべきです」と言った。
「そりゃあ、たしかに、俺だって戦場で蝮をぶち殺したいが……。目の前に獲物がいるのに、殺すなと言われても我慢ができぬぞ」
「聞いてください、定明義兄上。暗殺などやるべきでない理由が三つあります。
暗殺は、後ろめたい心を持った小人物のやること。大義の旗のもとに世を正そうとする大人物がすることではありません。成功しても、明智の家名を汚すだけです。理由これひとーつ。
そして、万が一にも討ち漏らして稲葉山城に逃げ込まれたら、我らは守護代暗殺を謀った逆徒として討伐される恐れがあります。理由これひとーつ。
最も懸念すべきなのは……事実上の美濃の支配者である道三が突然死ねば、国内が大混乱に陥ることは必定であること。彼を守護代の座から引きずり下ろすにしても、道三亡き後に明智家がいかに美濃国を治めていくかという理念や計画が無ければ、我らの天下は三日ももたずに瓦解するはずです。理由これひとーつ」
彦太郎は得意気に、天に向かって人差し指を真っ直ぐ立て、早口でまくし立てる。定衝は「早口過ぎて、何を言っているのか半分も分からぬ……」と眉をひそめたが、定明はちゃんと聞きとれたらしい。
「なるほどのぉ。彦太郎は俺などより物事をよく考えておるなぁ」
腕を組みながらそう感心し、「じゃあ、やめておくか」と言った。血の気の多い狂戦士にしては珍しく、あっさりと諦めたようである。
(ふぅ~む……。父親である儂以外の人間の言葉には全く耳を貸さぬ定明が、まだ子供に過ぎぬ彦太郎の諫言を素直に受け入れたか。天下無双の武を誇る定明と、深謀遠慮の彦太郎……なかなか面白い組み合わせじゃ。この二人が力を合わせれば、美濃国の未来を守ることもあるいは可能やも知れぬ)
頼明老人は、定明と彦太郎を見つめながら、そう考えていた。
とにかく、ここは彦太郎の言を採れ、道三を城内に通すべきだろう。この城には小見の方と帰蝶がいるのだ。彼女たちの目の前で、道三の首を刎ねることはさすがにできない……。
* * *
息子たちに助けられて服を寝間着から着替えると、頼明老人は城内の大広間で道三と面会した。道三が何か仕掛けて来た際に父を守るため、定明と定衝、彦太郎も同席している。
彦太郎は、斎藤道三という男をこの時に初めて見たが、
(マムシマムシと呼ばれているから、怪物のごとく醜い容貌だと思っていたが……。鋭い眼光が蛇みたいで不気味に見えること以外は、予想と異なってなかなか眉目秀麗な男だ。お美しい帰蝶様の父親だけのことはある)
と、不覚にも帰蝶の美貌を思い出してしまっていた。
しかし、この男は、娘の夫となった土岐頼純を騙し討ちにしているのである。あの澄ました微笑の裏では、おぞましい姦計を巡らせているに違いない。絶対に油断は禁物だ、と彦太郎は己に言い聞かせた。
「頼明殿、お久しゅうござる。先日、主だった国人衆を稲葉山城に召集した際、頼明殿のお姿が見えず心配していましたが……。まさか病に罹っておられたとは。そうと知っておれば、それがしが調合した薬を持参しましたものを」
「フン! おぬしの作った薬など恐くて飲めぬわい! 儂はこの通り元気だ。余計な気遣いは無用じゃ」
「おや、そうでしたか。薄く白粉を塗っておられるゆえ、てっきり顔色の悪さを隠そうとされているのかと思いましたぞ。ハハハハ」
「…………」
図星を突かれた頼明老人は、不愉快そうに顔を歪め、無言で道三を睨めつけた。
剣呑な空気を察した定衝が、「そ、それで、守護代殿はいかなる用件にて当家に参られましたか」と少し口ごもりながら道三に問うた。
「おお、そうであった。それがしが参ったのは、余の儀に非ず。小見と帰蝶を迎えに来たのです。帰蝶の新しい嫁ぎ先が決まったゆえ、嫁入りの準備をせねばなりませぬ。相手は織田信秀の嫡子、三郎信長……。これは斎藤家と織田家を結ぶ大事な政略結婚でござれば、ゆめゆめ疎かにはできません」
「えっ。帰蝶様が織田の若君と結婚――」
初恋の姫君が嫁ぐと聞き、彦太郎は思わず大きな声を上げていた。
しかし、その言葉は、定明のさらに大きな怒声でかき消されたのである。
「何じゃとぉぉぉ⁉ 頼純様を殺し、帰蝶姫をたった十三歳で未亡人にしたくせに……哀れなあの姫をまた己が野望のための道具にするつもりかッ!」
「あ、兄上! 落ち着いてくだされ!」
定明が立ち上がって刀の柄に手をかけそうになったため、定衝が慌てて兄を止めた。
頼明老人も「そなたは座っておれ!」と叱ったが、帰蝶の再婚話を不快に思っているのはこの老将も同じである。道三に険しい眼差しを向け、苛立った口調で苦言を吐いた。
「織田家との縁組が進んでいるらしいという噂は、儂も知っていたが……。おぬしには他にも娘がおるであろう。別の姫ではいかんのか。帰蝶姫は、父であるおぬしに前の夫を殺されて以来、ずっと心を病んでおる。精神が不安定な姫を他国に嫁がせるのは酷であろう。おぬしのせいであの子は地獄を見たのだ。もうそっとしておいてやれ。おぬしに恨みを抱く帰蝶姫をそばに置いておきたくないのならば、儂がこの城で養おう。我が猶子の彦太郎と娶わせ、大事にするゆえ心配は無い」
帰蝶と彦太郎の縁組。
それは、頼明老人がかねてから考えていたことだが、彦太郎少年の縁談話は尾張からももたらされていた。
犬山城主・織田寛近(寛近の翁)が、
――よんどころなき理由で、生駒家の娘の嫁ぎ先を大急ぎで探している。できれば、明智家の一門で最も年若い彦太郎殿に嫁がせたい。
という内々の話をついこの間、持ちかけてきたのだ。
しかし、頼明老人はその誘いを拒み、家来の三宅氏に生駒氏との縁談をふった。先方はよほど生駒楓という少女を嫁がせることを急いでいたのか、家格が劣る三宅氏との縁組を渋々受け入れた。
藤原北家の流れをくむ生駒家の娘ならば、彦太郎の嫁にしても不足は無かっただろう。だが、頼明老人は、心傷付いた帰蝶姫を手元に置き、彼女を守ってやりたいと思っている。そのためには、姫を彦太郎と結婚させるのが一番都合が良かったのだ。
ただ、まだ元服前の彦太郎には、一言もその話をしていなかった。そのため、
(義父上がそんなことを考えていてくださったなんて……)
と彦太郎は大いに驚き、顔を真っ赤にしていた。
だが、道三は、そんな縁組を受け入れるつもりなど毛頭なく、頼明老人の言を一笑に付した。
「ハッハッハッ。娘のことでお気遣い頂きかたじけないが、織田家に嫁がせるのは帰蝶でなければならぬのです。帰蝶には、『土岐家嫡流・頼純殿の妻であった』という煌びやかな箔がある。そして、土岐家の流れをくむ明智一族の血も引いている。それがしの他の娘とは格が違うのです。足利一門に連なる今川義元には『油売りの血筋など嫁にいらぬ』とすげなく縁談を断られたが、尾張守護・斯波氏の陪臣(又家来)に過ぎぬ家柄の織田弾正忠家(信秀の一族)ならば、帰蝶はまたと得難い花嫁となることでしょう。帰蝶の嫁入りは、濃尾(美濃と尾張)同盟の実現には外せませぬ」
「……じゃが、心が病んでいる妻を信秀殿の倅が大切にするとは思えぬぞ。冷たい夫婦生活が目に見えている。娘が女としての幸せを得られずともよいのか」
「帰蝶が新しい婿殿に愛されるかどうかなど、それがしにはどうでもよいこと。斎藤家と織田家の同盟を一刻も早く成立させることこそが肝要……。政略結婚でいちいち娘の幸せ云々を考えるのは愚かなことです」
道三は軽薄な微笑を浮かべながら、冷淡にそう言い放った。
国人衆の前では「心を改めて善政を布く」と涙ながらに語っていたが、この男の本性はやはり「蝮」なのである。どこまでいっても残忍で、温かい血など通ってはいないのだ。
頼明老人がチッと舌打ちすると、定明が「この人でなしめ……」と殺意を込めた声で呟いた。温厚な性格の定衝も、道三の鬼畜極まりない発言にはさすがに怒りが隠せぬようで、下唇を強く噛んで手を震わせている。
(自分のせいで不幸のどん底に落ちた娘に、何の罪悪感も持っていないとは……。なんて奴なのだ、こいつは)
彦太郎もまた、激しい嫌悪感を抱いていた。汚物を見るような眼で、道三を力いっぱい睨んでいる。
道三は、乱世が生みだした魑魅魍魎だ。いつか必ず明智家が正義の剣で退治してやる――彦太郎は怒りの心火を燃やし、そう誓うのであった。
しかし、魑魅魍魎は、明智家の人々の憎悪に満ちた視線など全く気にしていないようだ。
「さあ、頼明殿。帰蝶と会せてくだされ。祝言の日取りはすでに決まっておるゆえ、急いで連れて帰らねばなりませぬ」
などと図々しく言い、頼明老人を急かした。
「残念じゃが、帰蝶はいま病――」
頼明老人は、哀れな帰蝶をどうしても手放したくない。分かりきった嘘を言ってでも、この場をしのごうとした。
だが、その言葉は、広間に急に入って来たある人物によって途中で遮られたのである。
「今度は尾張に嫁ぐのですか。いいでしょう。行ってあげます」
※次回の更新は、7月22日(木)午後8時の予定です。




