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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 六章 大暗転序幕
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ラブレターフロムノブナガ・後編

「さあさあ、藤吉郎とうきちろう。信長殿のふみをこちらへ。早く早く」


 そう急かすかえでの声は、先ほどよりもいくぶん元気がある。藤吉郎の猿そっくりの滑稽な動きを見て笑い、ほんの少し気分が良くなったらしい。


「ははぁー! 楓様!」


 藤吉郎は、楓の声が明るくなったことに気づいてニコニコ喜び、ふところに大事にしまっていた手紙をおかつに手渡した。

 お勝はそれをうやうやしく頭上に掲げながら楓の寝床まで運ぶ。まるで神へ供物を捧げるような丁重な扱いだが、姫様にとって待ちに待った想い人からの恋文なのである。お勝が大仰な扱い方をしてしまうのも無理はなかった。


 一方、恋文の差出人である信長も、その手紙をひと目見れば、


 ――楓恋しや。


 と彼が煩悶しているであろうことは丸分かりだ。思いのたけを書きつづったその手紙は巻物のように長大だったのである。


 短気な信長は、言葉がいつも短く、多くのげんを費やして何かを語ることを好まない傾向が強い。そんな男が、楓のためにはくどくどしいほどの長文の手紙を書くのである。彼女がどれだけ深く愛されているかがよく分かる。


(……ああ。まことに美しい姫様だぎゃぁ。信長様のご寵愛を一身に受けるのも至極当然じゃ。以前から天女のごとく可憐な方だったが、たった半年お会いせぬうちに息を呑むほどの麗人になられた。天女も恥じらって逃げ出してしまいそうじゃ)


 愛おしげに信長の筆跡を撫でながら手紙を読んでいる楓。

 藤吉郎は、その玲瓏れいろうたる光を放つ美貌をうっとりとした表情で見つめ、不覚にも涙を流していた。


 楓様がこんなにも美人に成長なされているというのに、信長様は清須きよす衆との睨み合いが続いているせいで生駒いこま屋敷に通うことができない。楓様の美貌をその目に焼き付けることができぬとは……あまりにももったいなく、信長様がお可哀想じゃ――などと主君を思って泣いていたのである。


 だが、楓が急に怒ったような口調で「もぉ~! 信長殿ったら嫌になっちゃう!」と言い出したため、藤吉郎は泣いている場合ではなくなった。


「こんなにも長いふみなのに、『風邪を引いていないか』『体調を崩すといけないから夜更かしするな』『ちゃんと飯を食え』とか、そんなことばかり書いているのだもの。私は信長様の子供じゃないんだから……。もっと恋人らしい愛の囁きを期待していたのにこれはどういうことなの⁉ ねえ藤吉郎!」


 手紙をあらかた読み終えた楓は、ぷくぅ~と可愛らしく頬を膨らませながらそんな文句を口にする。どうやら、信長の恋文があまりにも色気が無かったため立腹しているらしい。


 藤吉郎はいきなり責められて大いに困り、「お、俺にそんなことを言われましても……」とあたふたする。


「あ、あのあの……。信長様は文にそんなことばかり書いてしまうほど楓様を案じていらっしゃるのです。楓様のことだったら何でも心配なのです。お体のことだけでなく、岩倉の若様(織田信賢(のぶかた))が楓様にまたちょっかいをかけていないかとか……」


 尾張上半国守護代・信安のぶやすの嫡男、織田信賢――彼はあの白鹿の騒動以来、自分に屈辱を味わわせた信長に敵愾心てきがいしんを燃やしている。しかも、楓に横恋慕した挙句、信長を暗殺しようとしたこともあり、両者の間にはいくつもの因縁があった。


 そういった経緯から、信長は、自分が生駒屋敷から遠のいている間にあの暴発男が楓を乱暴な手段で略奪しないだろうか、と密かに案じていたのである。


 ちなみに、藤吉郎は、


「俺がやきもちを焼いていると思われると嫌だから、信賢殿のことは楓に絶対言うなよ」


 と信長から釘を刺されていたのだが、慌てていたためについ口を滑らせてしまったのだった。


 案の定、その話を聞いた途端、楓は悪戯っぽい表情を作って信長のことを笑った。


「なぁーんだ。信長様ったら意外と心配性なのね。信賢様みたいなバカ殿を恋敵だと思ってオロオロしているの? 私があんな男になびくわけがないじゃない」


 恋人が嫉妬してくれているという事実が少女には嬉しかったのだろう。ついさっきまで色気の無い恋文に怒っていたというのに、コロリと機嫌が良くなっていた。


 藤吉郎は無邪気に笑う楓を見て、


(よ、良かった。機嫌を直してくださった……)


 と胸を撫で下ろした。


 これは余談だが――信長が信賢の横恋慕を気にしているのは、楓が「私、他にも縁談話があるのよ。ずっと放っておいたら浮気するからね」と悪戯心で信長を脅したことがあるからである。ただし、彼女本人は、そんなことはすっかり忘れてしまっているが。


「藤吉郎よ。信賢様のことだが……。『妹には指一本触れさせぬとお約束する』と信長殿に伝えておいてくれ。信賢様が楓を狙って屋敷の近くをうろついている姿をよく見かけるが、はっきり言って迷惑千万めいわくせんばんだ。父と私は、あの御仁が楓に近寄るのを快く思っていない」


 家長が、楓と藤吉郎の会話に割って入り、そう言った。


 信賢は、父親の信安も手を焼くほど傍若無人な男である。また、神の御使いである白鹿を射殺そうとするような粗暴極まりない性格だ。いくら主家の長男でも、あのように徳の無い人物には秘蔵の姫を嫁がせたくない。父の生駒家宗(いえむね)と兄の家長はそう考えているのだ。


 しかも、噂によると、信安は次期守護代の座を次男の信家のぶいえに譲る決心をしたらしい。信賢がいずれ廃嫡されるのならば、あの若者にはなおさら楓は渡せない。藤原北家の血統を受け継ぐ生駒一族の姫は、信長のごとく将来有望な若武者の元へ嫁がねばならぬ――。親心、兄心としてそう切に願っているのだった。


「家長様のお言葉を聞けば、信長様もきっとお喜びになることでしょう。必ずやお伝えします」


「藤吉郎。兄上の言葉だけでなく、私の言葉も伝えておいてね。今度は『そなたに逢えぬ苦しみで胸が張り裂けそうだ』くらいの愛の囁きをふみにしたためてくださいって。こんな色気の無い恋文では返事なんか書いてあげませんから」


「し、承知しました……。楓様もどうかご自愛くださいませ」


 藤吉郎は、楓にたじたじになりながらもそう言い、部屋から退出していった。




            *   *   *




 藤吉郎が部屋から去った後。


 楓は顔に貼りつけていた笑顔を消し去り、幽愁ゆうしゅうを帯びた暗い表情になっていた。

 膝の上に広げた信長の文をじっと見つめ、物憂げなため息を何度か吐き出す。


 家長とお勝は、また熱が上がってきたのだろうかと心配し、不安げに顔を見合わせた。


「……どうした、楓。疲れたのか」


「いいえ。何でもないわ、兄上。私は元気よ」


「そうか。ならばよかった。……しかし、元気なら、信長殿に返しぶみぐらい書いてさしあげればよかったのに。信長殿が気の毒だろう」


「次に……三か月以内に新しい文が来たら書く」


「三か月だと? ……いやぁ、さすがにその頃になったら、信長殿も元のようにここに足繁く通ってくださるようになるのではないか? 信秀殿が清須衆との和平交渉にそこまで手こずるとは思えぬしな」


「そうかしら……」


 兄の楽観的な意見に、楓はなぜか懐疑的のようである。遠い目で庭の雪を眺め、「尾張に悪しき風が吹いているような気がするの」とポツリと言った。


「信長殿から文をもらって嬉しいはずなのに、なぜか心がもやもやする。美しい雪の景色を見つめていても胸のざわめきがおさまらない。あと三か月……三か月以内に何も悪いことが起きなければ……」


 それは、女の直感と言うべきものだったのだろうか。

 自分はもう信長殿とは逢えないかも知れない、という嫌な予感が、暗雲がたちこめるかのごとく楓の胸を侵食しつつあった。


 三か月後。その胸騒ぎは現実のものとなり、彼女の運命は激変する。そして、恋人の信長、顔も見たことのない美濃のある姫君の人生もまた大きく変わっていくことになる。


 天文十八年――織田家をめぐる多くの人々の生き方が大暗転してしまう恐るべき一年が、かくして幕を開けたのだった……。

※次回の更新は、5月2日(日)午後8時の予定です。

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