忍べ滝川一益!・後編
一方、同じ頃。
一益は物陰に隠れて炎上中の物見櫓を見上げていた。櫓のまわりでは、守護代の居館から慌てて駆けつけた坂井大膳と清須衆の侍たちが「敵はどこだ⁉」と叫びながら右往左往している。
「はえ~。めっちゃ燃えてるじゃん。ちょいと火薬を使いすぎたな。まあいいか。あれだけ大勢の人数が城主館から飛び出して来たんだ。たぶん、今なら楽勝で忍び込めるだろう。那古野城から勝手に火薬を持ち出してきてよかったよかった」
そうなのである。手癖が悪い一益は、那古野城にあった貴重品の火薬を城主の信長に無断でかなりの量を盗んで来ていた。それを使い、物見櫓を爆破したのだ。
もぬけの殻となった館の中には、守護代の達勝と養子の信友が残っているはずである。二人の内のどちらかを見つけ出し、直接問いつめてやれば何らかの情報を得られるだろう。天井裏で聞き耳を立てて会話を盗み聞きするなどというまどろっこしいやり方は、面倒なので最初からするつもりはない。
どこまでも自由で横着な一益は、守りが手薄になった達勝の居館に楽々と入り込み、ぷぅーぷぅーと放屁の音を響かせながら館内を歩き回った。
「……何じゃ? この奇妙な音は?」
近くの部屋にいた初老の茶坊主が不審に思い、廊下に出て来た。そこでバッタリと凶悪な人相の一益に遭遇し、「ひえっ⁉」と驚きの声を上げる。
「おい」と凄みながら声をかけ、一益は茶坊主の肩に手をかけた。プッとまた屁をこく。
「お前が守護代か」
「ち、ちが――」
茶坊主が怯えながら否定しかけたところで、一益は「あっ、そう」と言いながら彼の股間を乱暴に蹴った。睾丸を潰された茶坊主は激痛のあまり悲鳴も上げられず、その場にうずくまる。
その後も一益は、
「あんたが守護代だな?」
「養子の信友っていう奴はてめえか?」
と、廊下や庭で遭遇する者たち(小姓、茶坊主、ただの下男)に次々と話しかけ、相手が「ちが――」と言いかけると金玉を潰して黙らせ、館の奥へ奥へと進んでいった。
* * *
やがて、居館の最奥の部屋へとたどり着いた。
そこで一益は、寝床に横たわる一人の老人を発見した。ここはこの老人の寝所のようである。そばには神経質そうな顔の青年がいて、不安げな表情で老人の寝顔を見下ろしている。
「ああ……。私はいったいどうしたらいいのだ。信秀のことは憎いが、本当にこのまま戦を続けてよいのか? 内乱で尾張国はバラバラになるのでは……」
「おい」
「義父上がこのまま目覚めずにお亡くなりになったら、私は坂井大膳の傀儡として守護代の職に就くのであろうか。不安だ。不安だ……」
「おい‼ 俺様が声をかけているのに無視するんじゃねえーよ‼」
「ひ、ひいっ⁉」
一益に耳元で怒鳴られ、驚いた青年は大仰にひっくり返った。
「お、お、おぬし! いったい何者だ! どこから入って来た⁉」
「その立派な衣服、てめえが織田彦五郎信友だな。ということは、こっちでお寝んねしている爺さんが守護代の大和守達勝か」
「あ……あわわわ。だ、誰か! 誰か来てくれ! 曲者がここに――もがぁ⁉」
信友は大声で助けを呼ぼうとした。
しかし、一益は大口を開けた信友の口腔に素早く拳を突っ込み、「うるせぇ。大人しくしねぇと、このまま拳を奥に入れて喉を潰すぞ」と凄んだ。
「あ……あが……あぎぎぎ……」
「騒がず、俺様の話を静かに聞け。問われたことにだけ答えろ。いいな?」
「ぐぎぎ……あがぁ……」
「いいなって優しく言ってやっているんだから、『はい』って答えろやボケぇ‼」
自分が口の中に手を突っ込んで喋れなくしているというのに、非常に理不尽である。しかも、騒ぐなと命令しておきながら一益本人が大声を上げている。
「ぎぎ……あぎぎ……」
「……ん? ああ~、そっか。俺様が口に手を突っ込んでいるから喋れねぇのか。だったら最初からそう言えよ、マヌケ」
一益はまたもや理不尽なことを言いながら、よだれまみれの手を引っ込めた。
「で、本題だ。見たところ、てめぇの義父はまるで死人のように青ざめた顔で眠っているが、重い病なのか。まさか……ずっと目を覚ましていないのか?」
べとべとに濡れている右手を信友の着物の袖で拭きつつ、一益は尋問を開始する。信友は言いたくなさそうに視線を反らしたが、一益が再び手を口に突っ込む素振りを見せると、ひっ……と女みたいな悲鳴を上げて素直に答えた。
「け……今朝、急にお倒れになったのだ。薬師に診せねばならぬのに坂井大膳が止めるからこのまま寝かせておくことしかできず……。
ああ、ケシカラン。私はなんと親不孝なのだ。大膳たちの言いなりになってこのような時に兵を挙げてしまって……。ケシカラン、ケシカラン、ケシカラン……私はケシカラン!」
「ケシカランケシカランうるせぇ。その坂井大膳という奴が、主君が倒れたことをいいことに、独断で兵を挙げたっていうわけだな?」
「う、うむ……。今、古渡城を攻めている坂井甚介・河尻与一・織田三位らも大膳の一味だ」
「なるほどな。だいたいはのぶな……こっちの予想通りだ」
「のぶな? おぬしは、もしや織田信長の……」
「黙れやボケ。金玉潰すぞボケ。今は俺様の問いにだけ答えろやボケ」
失言をしかけた一益は内心焦り、信友の胸倉をつかんで凄む。肝っ玉の小さい信友はそれだけで小便をちびりそうになるほど怯え、コクコクと無言で頷いた。
「……質問の二つ目だ。今回の挙兵の黒幕が坂井大膳だということは分かった。で、その大膳っていう野郎はいま何を企んでいる? 力の衰えた織田大和守家には、尾張随一の富者である織田弾正忠家を独力で族滅するだけの力はあるまい。美濃にいる信秀殿が軍勢を率いて馳せ戻れば、逆にやられかねんぞ。それぐらいのことは大膳の野郎も分かっているはずだ。どんな方策を考えているのか教えろやコラ」
「さ……さすがにそんなことまでベラベラと喋ったら、大膳に殺される。勘弁してくれ……」
「勘弁なんかすっかよボケ。話さなかったら俺様がてめえを殺すぞ童貞。てめえから極秘情報を聞きだせるか否かで俺様の将来が左右されるんだよ鼻毛ボーボー」
腰に差していた長脇差を抜き放ち、信友の喉元に突きつける。こいつはちょっと脅したらすぐに転ぶと見抜き、殺害をほのめかしたのである。
案の定、信友は「ひぃーッ! ひぃーッ!」と情けなく悲鳴を上げ、とうとう失禁してしまった。じょろじょろじょろ……と生温かい水が信友の股間のあたりから広がり、一益の足の指先をわずかに濡らす。うげっ、と一益は眉をしかめた。
「きったねぇなぁ~……。これで何も話さなかったら、マジでぶっ殺すぞ。とっとと吐きやがれ!」
「わ、分かった。分かったから殺さないでくれ。ちゃんと言うから」
信友は恐怖のあまり泣きじゃくっている。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。守護代家の世継ぎにあるまじき醜態である。傍らで深い眠りについている義父・達勝がこの無様な姿を見たら、何という軟弱者よと激怒したことであろう。
「じ……実は……。大膳は……」
信友は、しどろもどろになりながらも、坂井大膳の企みを語った。
信友が言うには――大膳はやはり、前々から「共に信秀を討とう」と誘いをかけてきていた美濃の斎藤利政(道三)との連携作戦を考えているらしい。
だが、美濃の国衆を上手くまとめられていない利政がどれだけ清須衆の力になってくれるかは正直言って怪しいところがある。
清須衆の裏切りに気づいた信秀が慌てて美濃から兵を撤退させても、利政は退却する信秀軍を積極的に追撃してくれない可能性が高い。信秀軍によって奪われた美濃の領地を回復することと国内の統一だけに力を注ぎ、清須衆と信秀の戦いは静観するかも知れない。
野心家として名高い利政だが、彼が興味を持っているのは「美濃国を我が物にする」ことただ一つ。目は外ではなく常に内に向いている。他国がどうなろうと知ったことではないし、俺は美濃の国主になれたらそれでよいと思っているふしがあった。信秀軍が美濃から消えたら、利用するだけ利用した清須衆を最後まで助けてくれるかどうか……。
大膳は、兵を挙げた後、そのことが気がかりになってきていた。そして、美濃の蝮だけに頼るのは心もとないと思い、別の味方を作ることを模索し始めたのである。その味方というのが――。
「駿河に使者を送る、と大膳は言ったのか? 今川義元と手を結ぶと? 馬鹿じゃねぇの?」
一益は呆れた声でそう言った。
駿河の今川義元は、信秀にとってはたしかに最大の敵と言っていい存在である。だが、その脅威は、信秀個人だけのものではなく、尾張国の武士たち全体の脅威だ。
義元は、西進して今川家の領土を東海地方全域に拡大させる意思を明白に見せている。三河国を信秀から奪取し、尾張国に軍勢を進軍させれば、信秀どころか尾張国主の斯波義統(武衛様)、二つの守護代の織田大和守家・織田伊勢守家まで十把一絡げに征服されかねない。羊たちの群れに狼を招き入れるような愚行だ。
「わ、私もそれにはさすがに反対しているのだ。今川家は、武衛家(尾張守護・斯波家)が遠江国をかの家から奪われて以来の仇敵。今川の軍勢を尾張国内に入れたら、信秀もろとも我らも滅ぼされかねぬ……」
「そりゃそうだろう。それぐらいの理屈、俺様にだって分かる。それなのに、大膳の野郎にはなぜ分からねぇ?」
「大膳も焦っておるのであろう。奇襲すれば半日で落とせると簡単に考えていた古渡城は、信勝が城に引き籠って守りを厳重に固めたため、まだ落城していない。あの城の堅固さと城内の兵力から考えて、信秀が美濃から取って返すまではもつ可能性が高い。……計算違いだったと今さらになって己の暴挙を悔い、信秀に返り討ちにされることを恐れているのだ。それゆえ、他国の軍勢を招き寄せて事態をさらに混沌とさせようとしているのやも知れぬ」
「許せねぇな……。坂井大膳は尾張の守護代家の家宰でありながら、この国のことを全く考えていねぇ。自分さえよければ、同郷の者たちが大勢死んでもいいと考えているんだ。そんな野郎が人々の命を左右できる立場にいるのは許せん。天の道から外れた奴は、天の道を正しくゆく英雄によって討たれるべきだ」
天下一の横着者であるこの男にも、天道を恐れる心ぐらいはある。
領地と領民を守るために戦うのが武士の正義であり、天の道というものだ。いたずらに乱を起こして国土を荒廃させ、民衆を苦しめるのは不正義この上なく、天の道から大きく足を踏み外している。ましてや、敵国の大名と通じて国内に大乱を望むなどあってはならぬことだ。天はこの悪行を見ており、必ずや天罰を下して坂井大膳を滅ぼすに違いない。
(信長様は、城内に民衆たちを避難させて、多くの命を守ろうとしている。己の領土とそこに暮らす領民の命を救うのが、領主の役目だ。国を治める殿様っていうのは、信長様みたいな人じゃないといけねぇ)
坂井大膳のごときつまらない男に、信長様が苦しめられている今の状況は面白くない。この極秘情報を早く信長様にお伝えせねば――そう考えると、一益は勢いよく立ち上がった。
「邪魔したな。小便の始末、ちゃんとしておけよ。部屋の中くせぇから。……あと、死にかけの義父を見殺しにすれば一生後悔するぜ。まあ、実の父親に勘当された俺様が偉そうに言えることではないがな」
びくびく怯えている信友にそう捨て台詞を残し、一益は達勝の寝所から去って行った。
そろそろ、坂井大膳たちが城主館を空っぽにしてしまっていることに気づいて戻って来る頃だ。急いでここから脱出せねばならない。
(……でも、このまま大人しく帰るのもつまらないな。脱出する前に、ちょいと俺様の存在を誇示しておこう。清須城の潜入任務達成の記念だ)
生来の目立ちたがりの性格が災いして、一益はろくでもないことをふと思いついてしまったようである。そこらへんの部屋にあった筆と墨、硯を拝借すると、
日ノ本一の美男子 滝川一益参上
と、大広間の襖にでかでかと落書きした。
任務中にさんざんド派手なことをやってきたというのに、こんな落書きまで残してしまったら忍者失格である。ぜんぜん忍べていない。
「ふふふ。これで良し」
満足げにニンマリと笑うと、一益は城主館をようやく脱け出した。そして韋駄天走りして、城の西側に流れている五条川にどぶんと飛び込んだ。
一益は、泳ぎが河童並みに得意である。すいすいと泳いで南下して、あっと言う間に川港の手前あたりまでたどり着いた。そこで陸に上がり、はっくしょん、はっくしょんとくしゃみをしつつ那古野目指して走り出した。
「やったぜ! これで信長様の家来になれる! ひゃっほーい!」
仕事を完璧にこなしたと思いきっている一益は大はしゃぎである。びしょびしょに濡れて気色が悪いので忍び装束を脱ぎ捨て、真夜中の清須の城下町を駆けて行く。
こんな夜更けに外で騒いでいるのは誰だ……? と思った町民たちが寝ぼけ眼で建物から出て来た。彼らは暗闇を疾走するふんどし一丁の男を目撃し、
「へ……変態だぁぁぁ‼」
「娘を隠せ! 犯されるぞ!」
と、ちょっとした騒ぎになった。
ウキウキ気分で走っている一益は、特に気にしない。ふんどし一丁のまま、那古野城に到着するまで「ひゃっほーい‼」とずっと叫び続けていたのであった。




