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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 五章 濃尾参州燃ゆ
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戦狂いの軍略

 総責そうぜめの号令を下した斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)は、各部隊を△の形――中央突破型の魚鱗ぎょりんの陣に配置し、突撃を開始した。


 魚鱗の陣にとって刃の切っ先となる第一陣を率いているのは、猛将の稲葉いなば良通よしみち一鉄いってつ)。安藤あんどう守就もりなり氏家うじいえ直元なおもと卜全ぼくぜん)の両将がその左右をかため、利政は後方から全軍を指揮している。


 斎藤軍は、開戦前から兵たちの士気が低く、脱走者が続出していた。今回の戦では精鋭の明智隊と大野郡の国人衆が頼りで、利政率いる本軍に戦う余力はほとんど無かったはずである。それにも関わらず、利政は無理を押して総攻撃に打って出たのだ。


 普通ならば、悪手も悪手。「兵法を知らぬ愚将の用兵だ」と織田方は嘲笑あざわらうところである。


 しかし、斎藤軍が総力をあげて迫りつつあるのを遠目に見た織田造酒丞(さけのじょう)佐久間さくま盛重もりしげ柴田しばた勝家かついえ道家どうけ尾張守おわりのかみらは、


「ま、まさか、我らの企みが利政に見破られたのか⁉」


 と、一様に驚愕きょうがくしていた。


 織田軍は、約束の刻限が来たら斎藤方の先鋒である明智隊に道を開けてもらい、利政の本陣に突撃する計画だった。敵勢が本陣に突如強襲をかけてきたら、さすがの利政もひとたまりもなかっただろう。


 利政が織田方のこの策を看破し、先手を打って総攻撃を仕掛けて来たのならば、やはり美濃のまむしは恐るべき智将である。


「ハッハッハッ。なぁーにをそんなに恐れておるのだ、最初槍はなやりの勇者。蝮が総責に打って出たのは完全に悪手じゃぞ」


 織田の猛将たちが動揺していると、明智定明が戦いの手をいったん止め、ニヤニヤ笑いながらそう言った。


 造酒丞は、馬鹿がまた何か言い出したと思いつつ、「なぜそう考える」と問う。


「分からぬのか、最初槍の勇者。我ら明智一族と織田の内通に勘付いたのならば、利政はさっさと尻尾しっぽを巻いて撤退すべきだったのだ。今の斎藤軍には、魚鱗の陣で織田の大軍を突き破る力などあるはずがない。

 そもそも、逃走兵が相次いだせいで兵力が足りぬ。あらゆる兵法書が『寡兵かへい(少ない兵)は平地で大軍を迎え撃つな』と戒めているというのに、斎藤軍は信秀にまんまと平野である響庭あえばに誘い込まれてしまった。この時点で、利政はすでに詰んでおる。蝮めが何をどうあがいてもこの戦には勝てぬのじゃ。今さら織田方の思惑に気づき、焦って決死の突撃などしても、己の死期を早めるだけというものよ。それゆえ、悪手だと申したのだ」


(あの戦狂いの明智定明が軍略を滔々(とうとう)と語っている……だと? こ、こいつ、脳みそが筋肉でできている戦闘馬鹿ではなかったのか⁉)


 造酒丞は、定明がまるで軍師のように利政の用兵のまずさを批評していることに愕然とし、危うく手に持っている槍を落としそうになった。まさかこの戦闘狂に兵法を語れるだけの知能があるとは夢にも思っていなかったのである。


「……と、とはいえ、我らの計画が台無しになったことには変わりがない。全軍総力をあげて突撃してきた斎藤軍を撃破するためには、こちらも相応の損害を覚悟せねばならぬ」


「いやいや、織田軍はさほどの損害を出さずに勝てるさ。俺とお前が力を合わせさえすれば、信秀殿が利政の本陣へと斬り込む道を開くことができる」


「何だと? 髭もじゃよ、いったい何を考えている?」


「髭もじゃって呼ぶなと前にも言っただろう。俺の名は明智彦九郎(ひこくろう)定明だ。いい加減、怒るぞ?」


 定明は子供みたいにムスッと頬を膨らませたが、今は口喧嘩をしている場合ではない。「ちょっと耳を貸せ」と造酒丞に言い、馬上で内緒話を始めるのであった。




            *   *   *




 一方、信秀の本陣にも、「斎藤軍動く」の報がもたらされていた。


 物見ものみの武者からその報告を聞いた信秀は、最初驚いて床几しょうぎから腰を浮かせかけたが、すぐに落ち着きを取り戻して「……蝮の奴め、最後の最後まで悪あがきをする気か」と静かに呟いた。


「我らの策が見破られたのならば、致し方ない。多少の犠牲は覚悟の上じゃ。真正面から迎え撃ち、利政を滅ぼしてくれん。

 ……平手ひらてよ、前線で戦っている造酒丞たちをいったん撤退させろ。向こうが魚鱗の陣で挑みかかってくるのなら、こちらは鶴翼かくよくの陣で包囲殲滅(せんめつ)してやる」


御意ぎょい。我々が斎藤利政と総力戦を開始すれば、近在に潜んでいる『彼ら』が決起し、斎藤軍の後方を攪乱かくらんしてくれるはずです。我らには勝機がまだ十分にあります」


 そばに控えていた平手政秀(まさひで)はそう言うと、信秀の下知を全軍に伝えるべく陣幕を出ようとした。


 前線の造酒丞が遣わした伝令が本陣に駆け込んできたのは、ちょうどその時のことである。


「申し上げまする! 我が大将の造酒丞が申すには……」


 と、伝令は造酒丞の言葉を早口で信秀に伝えた。それを聞いた信秀は「何⁉」と驚きと困惑の表情を浮かべた。


「魚鱗の陣で突っ込んで来る斎藤軍に対して、こちらも鋒矢ほうしの陣で突貫しろ……だと? ちょっと待て。それはおかしいであろう。造酒丞は何を考えている」


 前にも説明したが、鋒矢の陣とは、ほこか矢のごとく鋭く尖った陣形のことである。「↑」の形をしている。


 魚鱗の陣が一点突破型の陣ならば、鋒矢の陣はさらに攻撃性を増した超一点突破型の陣形と言っていい。強烈な攻撃力を持つ分、軍勢の横腹を突かれたら、小豆坂あずきざか合戦の時のように陣形がもろくも崩れ去る危険性があるのが難点だった。


 斎藤軍が魚鱗の陣で突撃してくるのに、同じ一点突破型の陣形で迎え撃ったら、大激戦となって被害が甚大となるのは必至だ。ここは大軍であることを活かして鶴翼の陣(鶴が羽を広げたような陣形で、敵を包囲攻撃する)で戦うべきではないか。なぜ、造酒丞はそんな脳みそが筋肉でできているような乱暴な戦法を献策してきたのか……。


「いえ、これは我が大将の策ではなく、明智定明殿の策です。『俺と最初槍の勇者が魚鱗の陣を無力化させ、信秀殿が利政の本陣へ突撃する道を開く。それゆえ、一撃必殺の陣で出撃されよ』……とのことでして」


「む、むむぅ……。頭が狂っているという噂の武将にそんな献策をされても、信じていいのか分からぬ……」


 信秀は大いに当惑し、眉をひそめた。


 そんな信秀に「鋒矢の陣で打って出られるがよい」と背中を押したのは、寛近とおちかおきな(織田寛近。犬山城主)だった。


「明智定明はあれだけ無茶な戦い方をしていて、一度も負け戦を経験したことがないとの噂じゃ。恐らく、ああ見えて軍学に通じている男なのじゃろう。戦狂いなりの兵法を用いて、蝮の魚鱗の陣を破ってくれるはずじゃ」


「……ううむ。寛近の翁殿がそこまで申されるのなら、明智の策に乗ってみるとするか。それに、我が最初槍の勇者も共にいるのだ。造酒丞が戦でしくじるとは思えぬ」


 最初は悩んでいた信秀だが、決断すると行動は早い。即座に「全軍、鋒矢の陣を布け!」と号令をかけ、馬上の人となっていた。


「目指すは斎藤利政の首ひとつ‼ 全軍前進せよ‼」


 信秀は、大軍の先頭をきって勇躍出撃し、猛将の織田信光(のぶみつ)(信秀の弟)・内藤ないとう勝介しょうすけらも後に続いた。


 かくして、信秀と利政の最後の直接対決がついに始まったのである。




            *   *   *




「稲葉様! 明智隊が織田造酒丞の部隊に押され、後退を開始しました! 明智隊を猛追する造酒丞の軍勢は勢い凄まじく、こちらに迫って来ておりまする! そのすぐ後には、佐久間・柴田・道家などの部隊が続いている模様!」


「おう、最初槍の勇者が攻めて来たか! 相手にとって不足は無しじゃ。我が隊はこのまま駆け抜け、造酒丞隊と刃を交えるぞ。……進め! 進め!」


 斎藤軍・魚鱗の陣の第一陣を率いる稲葉良通は、勇猛果敢にそう叫びながら愛馬を疾駆させた。


 敗走してきた明智隊の兵たちとすれ違い、「頼明よりあき殿! 後はそれがしにお任せあれ!」と頼明老人に声をかける。


せがれの定明がわしたちを逃がすために単騎で敵将と戦い、苦戦しておる。稲葉殿、すまぬが儂の馬鹿息子を助けてやってくれ」


「おう! 承知いたした!」


 良通は頼明のげんうなずくと、さらに部隊を前進。血みどろになって敵将の造酒丞と一騎打ちをしている定明の壮絶な姿を目撃した。「こ、これは……!」と良通は驚きの声をあげる。


「利政は明智一族の裏切りを心配していたようだが……。あれを見ろ、定明殿は満身創痍まんしんそういになって我が軍のために戦っておるではないか。やはり、利政の大きな読み間違えであったようだ。あの蝮は人を裏切ってばかりいるから、無実の人間すら疑ってしまうのであろう」


 良通はそう呟くと、槍を横にさっと払い、「者共ものども、定明殿を助けよッ! 味方を見殺しにしてはならぬッ!」と兵たちに下知した。


 稲葉隊の槍兵たちは、勇ましい咆哮ほうこうを上げながら、一騎打ち中の造酒丞と定明に駆け寄る。そして、造酒丞めがけて一斉に槍を突き出した。


「ちょこざいな!」


 造酒丞は、電光石火の槍さばきで、襲いかかってきた敵の刃をことごとく弾き返す。稲葉隊の槍兵たちがひるんだ隙をつき、ぐさっ、ぐさっ、ぐさっと疾風の連続技で雑兵数人をたおした。

 この間、わずか十数秒。猛将の定明を相手にしながら多勢の敵兵を軽々とあしらう余裕があるとは、さすがは最初槍の勇者である。


「ええい! 怯むな! 再度突撃せよ!」


 良通の命を受け、兵たちは遮二無二しゃにむに槍を突き出す。

 だが、今度も、十数の刃は馬上から振るわれたたった一閃いっせんの槍によってことごとくはね返されてしまった。兵たちは凄まじい怪力に吹っ飛ばされ、全員が尻もちをついた。


 稲葉隊の二度目の攻撃を弾き返したのは、造酒丞ではない。なんと明智定明だった。


 なぜ味方の救援を拒むのだ⁉ と良通は大いに困惑した。


「定明殿、錯乱さくらんいたすな! 我らは稲葉隊! 味方じゃ! おぬしを助けに来たのだ!」


 定明が敵と味方を見間違えたのかと思い、良通はそう怒鳴った。


 しかし、どうやらそうではないらしい。定明は鮮血で真っ赤に染まった顔を不機嫌そうにゆがませ、「ふざけるなッ‼」と振り返りながら吠えた。


「最初槍の勇者は、我が好敵手。こいつは俺が討ち取る。余計な手出しは無用じゃ。一騎打ちの邪魔ゆえ、我らに近づくな」


「……む、むむ。困った戦狂い殿じゃ。そんなにもボロボロで、まだ戦うつもりなのか。この稲葉良通がしばし代わってやるゆえ、傷の手当をして来い」


 いつものように戦闘狂の病を発症させ、強敵との決着をつけることに固執しているらしい。定明の狂った行動をそう解釈した良通は、そう言いながら馬腹を蹴り、両将に近づこうとした。


 だが――今の定明の「狂乱」は、真から暴走しているのではなく、この男一世一代の演技だった。斎藤軍の魚鱗の陣を崩壊させるため、わざと「狂乱」を演じているのである。


 定明は、すぅーっと息を吸いこむと、山河を引き裂かんばかりの大音声だいおんじょうで一喝した。



「近づくなと申しておるのじゃ‼ 首をもぎ取るぞッ‼」



 雷声のごとき怒号は饗庭の地にこだまし、周辺の空気をビリビリと震わせた。


 一瞬で恐怖の津波が稲葉隊の兵馬を呑み込み、近くにいた槍兵たちは、「ひ……ひえっ!」と怯えて身を縮ませた。定明のたけり狂った声がいつまでも耳の奥で反響して、頭がグラグラする。槍を地面に投げ捨てて膝をつき、魂を砕かれたかのごとく呆然としている者までいた。


 軍馬は一頭残らず恐慌に陥り、狂ったようにいなないている。その場から逃げ出そうと暴れ出す馬が続出した。騎馬武者たちは必死に馬をなだめようとするが、定明がさらにもう一声怒号を上げると、完全に収拾がつかなくなった。良通の愛馬まで頭を振り乱して暴れ、あらぬ方向に走って行こうとする。平然と大地に立っている馬は、荒馬の鬼喰おにくい星影ほしかげだけであった。


「い……いかん! これでは兵たちの指揮が執れぬ! このような状況で敵勢に攻撃されてしまったら……」


 良通は大いに焦った。しかし、騎乗している馬が怯えに怯えて戦場から逃げ出そうとしているため、それを押しとどめるのでやっとだった。


 この混乱を待っていたかのように佐久間・柴田・道家の部隊が稲葉隊の前に颯爽と現れたのは、その直後のことである。


 さらに、佐久間たちのすぐ後方からは――織田信秀自ら率いる鋒矢陣の大軍勢が迫りつつあった。

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