抜け駆け
十一月二十五日。
織田軍迫るの報を受けた斎藤利政(道三)軍と大野郡の国人衆らは、相羽城から打って出て、饗庭の平地に陣を布いた。
時を同じくして、北上してきた織田信秀も饗庭に大軍勢を展開させ、決戦の構えを見せた。
「六角義賢殿の忍びが事前に報せてくれた通り、斎藤方の先手衆は明智一族のようだ。六角殿の話によると、明智一族も利政討伐の一味に加わったとのことじゃ。明智隊は我が織田勢と半刻(約一時間)ほど戦った後、わざと敗走し、我らが利政の本隊に突撃する隙を作ってくれる手はずになっておる」
開戦直前の軍議で、信秀は諸将にそう告げた。
つい先刻のことだが、明智頼明老人が放った乱波(忍者)が織田陣営に忍びこんで来て、
――儂の倅の定明は、最初の半刻は利政に疑われぬように全力で戦いまする。織田方の先陣の大将は、定明の化け物じみた武力に対抗できる武将を選んでくだされ。
という注文をつけてきていた。信秀はそのことも諸将に説明し、
「明智定明は美濃最強の猛将と聞く。『美濃の戦狂い』の異名を持つ定明と互角に戦えるのは、我が軍では最初槍の勇者・織田造酒丞しかおるまい。造酒丞、先陣は頼んだぞ」
と、織田家最強の武を誇る造酒丞を先手の大将に任じた。
造酒丞は静かに頷き、「お任せくだされ。あの髭もじゃの熊とは、一度戦っておりまする。けっして遅れはとりません」と応じる。
「……ただ、あの猪武者が本当に途中で負けたふりをして退いてくれるかが、いささか不安ですな」
「そんなにも猪なのか?」
「はい。これまでに戦場で数多の武将と相見えてきましたが、あそこまで戦いに狂気じみた執念を燃やす男は初めて見ました」
「そ、それはそうとう狂った奴のようだな……。だが、いくら血の気の多い猪でも、我らや六角家と交わした密約をよもや破ることはあるまい」
「だといいのですが……」
冗談抜きで、定明の血気の勇は凶悪である。奴の暴走のせいで作戦が上手くいかなくなる可能性は十分にある……と造酒丞は危惧していた。
「ふぉふぉふぉ。そこまで心配することもあるまい」
難しい顔をしている造酒丞に、扇を仰ぎながらそう言ったのは、美濃国の事情に精通している寛近の翁(織田寛近。犬山城主)である。
「たしかに明智定明は戦狂いじゃが、父親には従順な孝行息子でもある。頼明殿が『退け』と申せば、最初は多少暴走しても最終的には退いてくれるじゃろう」
「その多少の暴走が恐いのですが……」
「何じゃ、何じゃ、造酒丞ぅ~。おぬしも織田家中では血気盛んな荒武者で有名じゃというのに、今回はどうしたのじゃ。やたらと心配性じゃのぉ~」
寛近の翁は八十代の老体だが、十代の若者のように気が若く、悪戯好きな性格である。謹厳実直な造酒丞をそう言ってからかい、ふぉふぉふぉと笑った。
造酒丞は迷惑そうに顔をしかめ、「寛近の翁様。拙者が一番大切にしているのは、主命を全うすることなのです」と言い返した。
「主君の命令を遂行できねば、どれほど猛き武士もただの愚将です。任務の達成こそが第一、己の武功は第二。それが我が信条なのです。
それゆえ、あの戦狂いと『本気で戦っているふり』をせねばならぬというこの難しい任務に、いささかの不安を覚えておるのです。
……あの髭もじゃめ。絶対に戦場の血の臭いに酔っぱらって、途中で殺し合うことしか考えられなくなるに決まっておる」
造酒丞の言葉に、共に美濃国で定明の戦闘狂ぶりを見てきた道家尾張守がウンウンと頷く。
どんな勇将や猛将が相手でもいっさい動じない造酒丞がここまで戦うのを嫌がるのは、よほどのことである。明智定明とはそれほど面倒臭い奴なのか、我らが先手の大将に任命されなくて良かった……と織田家の諸将は密かにホッとしていた。
そんな中、その明智定明とやらとぜひ手合わせしてみたいと考え、うずうずしている勇猛果敢な若い武将も数人いて、
「殿ッ! 造酒丞殿は小豆坂の合戦で大きな手柄を立てたばかりです! 先手の大将は、ぜひともそれがしに!」
と、気炎万丈の勢いで名乗り出る者が現れた。織田軍の若き獅子、柴田勝家である。
「おう、権六。そなたか」
信秀は、若手の武将たちの中でも有望株であるこの猛将を気に入っており、機嫌よく笑いかけてやった。
小豆坂合戦に従軍できなかった勝家にも、手柄を立てさせてやりたい。そういう気持ちはある。しかし、明智定明は、あらゆる修羅場をくぐり抜けて来た造酒丞が警戒するほどの怪物である。まだ二十代の勝家を当たらせるのはいささか不安である。定明という戦闘狂の性格を考えると、いくら内応の約束をしていても、戦闘に夢中になってうっかり勝家を殺しかねないだろう。ここはやはり、最初槍の勇者に任せたほうが無難である。
そう考えた信秀は、やんわりと勝家の訴えを退けることにした。
「権六は二陣の大将を務めよ。そなたはいずれ織田軍の主戦力となる男じゃ。後学のため、造酒丞の戦いぶりを間近でよく見ておくがよい。……いいな?」
「……は、ははぁ……」
短気な信秀は、いま微笑んでいても、家臣が彼の言葉に対してごねたりすると急に怒り出す傾向がある。何度か信秀に殴られた経験がある勝家は、面と向かって不平不満を言うのが恐かったため、仕方がなく大人しく引き下がった。
だが、心の中では、
(造酒丞殿が嫌そうな顔をしているのだから、俺に譲ってくれてもいいのに。明智定明の軍勢ぐらい、この俺の実力ならば半刻でも一刻でも持ちこたえてみせるぞ。……ここはひとつ、抜け駆けしてやるか)
と、若武者らしく無鉄砲なことを企んでいるのであった。
* * *
それからも間もなく――。
先手の大将に任じられた造酒丞は、愛馬の鬼喰に跨り、自らの手勢に出撃の号令をかけていた。
会話が通じないあの戦闘狂と再会するのはやや憂鬱だが、これも任務なので仕方がない。腹をくくって半刻ほど遊んでやろう。無理矢理そう思うことにしていた。
「者共、よく聞け。敵軍の先鋒・明智定明は美濃きっての猛将だが、奴の猛攻を半刻耐えれば、敵本陣へ突撃する道が必ず開ける。明智隊の攻撃を辛抱強く防ぎ、勝負の時が来たら怒濤の勢いで前へ突き進め。……速攻! 強行! 不退転! 狙うは悪逆の鬼、斎藤利政の首ひとつじゃ!」
造酒丞の力強い言葉に、兵たちは「速攻! 強行! 不退転!」と吠え返す。
最初槍の勇者の苛烈な訓練をくぐり抜けてきた彼らは、誰もが意気軒昂、猛者ぞろいである。造酒丞の「速攻・強行・不退転」という戦いの信条をよく守り、戦場では縦横無尽に暴れ回る少数精鋭部隊だった。明智隊は兵数が多く屈強だが、この造酒丞隊ならば半刻ぐらいは互角以上の戦いができるであろう。
「よし。……では、出陣じゃ。織田造酒丞信房、軍始をいたす!」
「造酒丞殿! 造酒丞殿! しばし待たれよ!」
造酒丞が手勢を率いて出撃しようとした直前、後方から虎髭の武者が追いかけて来た。何事かと思って造酒丞が振り返ると、柴田勝家が大きく手を振ってオーイオーイと呼びかけている。勝家の後ろには、柴田隊の兵もついてきていた。
「いかがいたした、権六殿。何故、そんなに血相を変えておる。……む? おぬしの馬、ずいぶんと痩せておるな。そんなガリガリの軍馬で戦に挑むのは危険じゃぞ。今すぐ乗り換えたほうがよい」
「そんなことを言っている場合ではござらぬ。一大事が出来しましたぞ。殿よりの内密の伝言がありますゆえ、耳を貸してくだされ」
「一大事とな? あい分かった」
無双の武を誇る造酒丞だが、性格はいささかお人好しなところがある。ついさっき自分から先陣の大将の役目を奪おうとしていた勝家の言葉を鵜呑みにして、馬から下りた。勝家もほぼ同時に下馬し、慌てた様子を装って造酒丞に歩み寄って来る。
「いったい何が起きたのじゃ。斎藤軍に異変があったのか?」
「実は……」
造酒丞の耳に口を寄せ、何事かを言いかけた次の瞬間、勝家は急に青空を指差して「あーーーッ‼」と大声を上げた。
「豚が放屁しながら空を翔けているーーーッ‼」
「な、何ぃぃぃぃぃぃ⁉」
うっかり造酒丞は空を見上げてしまった。
しかし、今日は雲ひとつない良い天気で、もちろん豚など空中にいない。造酒丞は「どこに豚が……」と言いながら顔を戻した。その時には、勝家は造酒丞の愛馬に飛び乗っていた。
「あっ! おい、その馬は……」
「造酒丞殿、申しわけない! それがしも、そろそろ大きな戦で武功を立てて名を上げたいのです! こたびの先駆けは譲ってくだされ!」
勝家は振り向くことなくそう言い捨てて、颯爽と駆け去ってしまった。呆然としている造酒丞と配下の兵を横目に、柴田隊の兵も後に続いていく。
「や……やられた! 権六殿よ、待て! その馬はいかんぞ! 鬼喰は拙者以外の人間にはけっして従わぬ荒馬なのじゃ! 戦っている最中に鬼喰が暴れ出したら死ぬぞ!」
造酒丞は慌ててそう呼び止めたが、勝家はもう遥か遠くまで行ってしまっている。急いで追いかけねばと焦った造酒丞は、勝家が乗っていた痩せ馬の背に跨った。
「ひ……ひひぃ~ん……」
「どうした、進め。進まぬか。……ええい、ここまで権六殿を乗せて走って来ただけで、すでに疲れてしまったのか。権六殿め、拙者がすぐに後を追えぬようにわざと痩せ馬を残していったな⁉」
全く動こうとしない痩せ馬に苛立ち、造酒丞はそう叫ぶ。自分の家来の馬に乗り換えればいいだけの話だが、抜け駆けされたショックのせいで、まだ頭が混乱していてその発想に至らない。
「造酒丞殿! 権六に出し抜かれましたな!」
一人の騎馬武者が、手勢を率いて後方の陣から駆けて来た。
造酒丞は、金砕棒を担いでいるその武骨な顔立ちの武将に「おお、おぬしか。馬を一頭貸してくれ。権六殿を助けねばならぬ」と頼んだ。
「落ち着かれよ、造酒丞殿。家来の馬に乗り換えればよいではないか」
「うっ……。そ、そうであった」
「身共は一足先に権六を追いまするぞ。奴は我が倅の妻の弟ですからな。美濃の怪物と戦わせてみすみす死なせるわけにはいかぬ」
「あい分かった。明智定明は狂乱の猛将じゃ。我が軍と内応をしていても、あの気性ではうっかり勝家を殺しかねない。急いで行ってやってくれ。拙者もすぐに駆けつける」
「うむ!」
騎馬武者は大きく頷くと、勝家を追って駆けて行った。
一方、ほぼ同じ頃。斎藤軍でも「抜け駆け事件」が起きようとしていたのである。
* * *
斎藤軍の前線、明智隊の陣。
先手の大将である明智定明は、兵たちに水色桔梗の軍旗を掲げさせ、今まさに織田勢に突撃しようとしていた。
「定明様、報告します! 織田方の兵が間近に迫っております! 軍旗は二雁金の紋(渡り鳥の雁をモチーフにした家紋)! 織田家の猛将・柴田勝家の部隊のようです!」
「んん~? 最初槍の勇者は出て来ぬのか? 柴田某という奴がどれほどの武勇の持ち主かは知らんが、この俺も舐められたものじゃな。半刻の間は真面目に戦うからそっちも最強の武将を出せとあらかじめ忠告しておいてやったのに、織田造酒丞を先鋒にせぬとは……。柴田某がこの俺の嵐の猛攻に耐え切れず敗走してしまっても、俺は知らんぞ! 遠慮なく皆殺しにしてやる!」
定明は馬上で血吸の槍をブーンブーンと振り回しながら、そう激しく吠える。その憤怒に満ちた大音声は、あたりの草木をビリビリと震わせた。造酒丞とまた戦えることを楽しみにしていたのに別人が出て来たので、怒っているのである。
「こら、定明。六角義賢殿との約束を忘れたのか。織田軍は反利政同盟の同志じゃ。やりすぎて織田勢を壊滅させるような真似をしたら、絶対に許さぬぞ。半刻経ったら、必ず敗走するのじゃ」
父の頼明老人に叱られ、定明はむぅ~と子供みたいに頬を膨らませて黙り込む。
弟の定衝はというと、さっきから青白い顔で不安そうにしている。自分たちがあの蝮を討つ企てに関わっていることが恐ろしく、この作戦が上手くいかなかったらどうしよう……と怯えているのだ。
「父上、兄上。やはり、先陣は鷹司政光殿ら大野郡の国人衆に譲り、我らは後方にいましょう。企てが失敗し、我らが裏切っていたことを斎藤利政に後々勘付かれたら、ただではすみませぬ」
「定衝、そんなに怯えるな。武士のくせにみっともないぞ。蝮が明智家に危害を加えようとしたら、この定明が一族の者たち全員を必ず守ってやる。
それに、織田勢はもう目の前だ。今さら退くことなどできぬ。鷹司政光たちも今頃は大人しく後方の部隊に……んん? 馬蹄の音が後ろから聞こえてくるぞ?」
噂をすれば影。明智父子が振り向くと、斎藤軍の二陣にいたはずの鷹司政光・鵜飼弥八郎・筑摩弥三右衛門・横巻彦三郎ら大野郡の国人衆の部隊が、先陣の明智隊に接近しつつあった。
「……奴らめ、いったい何のつもりじゃ。まさか抜け駆けでもして我らから先陣を奪おうとする気ではあるまいな」
「父上、ご安心を。そのようなふざけた真似は、俺が絶対にやらせません。あいつらが我が隊を追い抜かそうとしたら、鷹司どもをこの血吸の槍で全員突き殺してやります」
定明がニヒヒと笑いながら物騒なことを言う。
この戦闘狂は基本的に物騒なことしか言わないが、今回は本気の本気だった。戦で抜け駆けされることほど、この狂戦士にとって腹立たしいことはない。俺が敵と殺し合う楽しい時間を奪う奴は容赦なく虐殺してやる、と大真面目に考えていたのである。
定明は、どんどんこちらに近づいて来る鷹司政光たちをいつでも皆殺しにできるように、血吸の槍を大上段に構えて待ち受けた。
……だが、その直後、思わぬ不幸が定明を襲ったのである。
「う、うお⁉ き……急に馬が‼」
定明が乗っていた馬が、突然苦しみ出し、口から泡を吹いてドスンと倒れた。定明の巨体は地面に放り出され、強かに頭を打つ。頼明と定衝は驚き、「さ、定明!」「兄上、大丈夫ですか!」と叫びながら定明に駆け寄る。
「う……う~ん……。め、目が回るぅ~……」
鋼鉄の肉体を持つ定明も、頭から落馬したらさすがにすぐには復活できない。愛馬が体をびくびく痙攣させている横で、大の字になって倒れ伏し、ウ~ムと唸っている。落馬時、頭に強い衝撃を受けたようだ。これが常人だったら、きっと命取りになっていただろう。
「おーひょっひょっひょっ! してやったり、でおじゃる! 悪いが、おぬしの馬の餌に毒を入れさせてもらったでおじゃる! しばらくそこで寝ておるがよいでおじゃる! 先駆けの軍功は我ら大野郡の国人衆が頂くでおじゃる!」
定明が目を回し、頼明と定衝が狼狽している横を、体躯たくましい荒馬に乗った鷹司政光が駆け抜けて行く。
耳障りなおじゃる口調で馬鹿にされたら、誰でも腹が立つ。定明はふらふらになりながらも上半身を何とか起こし、
「おいこら! おじゃる野郎! 絶対に追いついてぶっ殺してやるからな!」
と吠えた。
しかし、鷹司政光も豪胆な性格なので、定明の脅しに動じない。またもや「おーひょっひょっひょっ!」と嘲笑った。
「それは無理よりの無理でおじゃるな! 我が愛馬・綺羅星丸は、武田家に伝わる鬼鹿毛や黒雲に匹敵する駿馬なのでおじゃる! 麿に追いつくのはフ・カ・ノ・ウ! 行くぞ、綺羅星丸‼」
「ヒッヒーーーン☆」
額に星形の大きな白斑がある綺羅星丸は猛々しく(?)いななき、明智隊を追い抜いて行った。
かくして、織田軍と斎藤軍の両方で抜け駆けが発生するという珍事が起きてしまったのである。
「き……綺羅星丸じゃとぉ~⁉ そんなふざけた名前の馬が武田の名馬に匹敵するものか! 武田家に失礼だろ! 殺す殺す殺す‼ 絶対に殺すーーーッ‼」
※いちおう断っておきますが、造酒丞の愛馬の鬼喰や鷹司政光の愛馬の綺羅星丸はこの小説のオリジナルキャラ(?)なので、実在しません。ご了承ください。
まあ、綺羅星丸はオリジナルキャラ(?)だと一目瞭然でしょうが……( ̄▽ ̄)




