六角と明智
大将の陰山一景が戦闘不能に陥ったことで、陰山隊は壊滅した。斎藤軍は、城攻めの出鼻を挫かれた。
そして、斎藤方は誰も気づいてはいなかったが――この寺内町の攻防の一部始終を密かに観察していた者がいる。伊賀の上忍・藤林長門守である。
「フン……。陰山一景は斎藤家きっての猛将だと聞いていたが、存外たいしたことはなかったな」
長門守はそう嘲笑うと、後方の六角軍の陣に韋駄天走りで駆け戻り、義賢に戦いの顛末を報告した。
「よしよし。今のところは上手くいっているな」
義賢は上機嫌で笑い、酒杯を豪快に飲み干す。
幕舎内には、義賢が密かに招き寄せた、明智頼明老人とその息子の定明、定衝がいる。
頼明は、明智隊の陣営に忍び込んできた伊賀崎道順という伊賀忍者から「義賢様が、明智殿との密会を所望しています」と告げられた際、
(まさか、六角家の被官として近江佐目村で暮らしていた彦太郎(後の光秀)とその家族を誘拐同然で美濃に連れ帰ってしまったことを責められるのでは……?)
と、心臓が縮み上がりそうになった。
息子の定明は六角家の忍びを何人も殺し、佐目村の住人たちとも乱闘騒ぎを起こしてしまっている。六角家は諜報能力に長けているので、彦太郎一家を拉致した犯人が何者かくらいすぐに分かるだろう。
そのことを責めるつもりで頼明たちを呼び寄せたのなら、平謝りして許してもらうしかない――そう覚悟して六角の陣まで赴いたのだが、意外なことに義賢はそのことについては何も話さなかった。
彼が口にしたのは、「俺と手を組み、斎藤利政を殺さないか」という驚くべき誘いだった。この義賢の大胆不敵な勧誘に頼明がどう答えるべきか戸惑っていたところで、「陰山隊壊滅」の報が届いたのである。
「明智殿。俺が軍議の席で申した通り、あのあざ丸という刀はまことの妖刀であったようだな。陰山某は妖刀に祟られ、二度と戦場に立てぬ身となったぞ」
「……妖刀のせいではなく、義賢殿の策略が功を奏したのではありませぬか? 寄せ集めの一揆勢に敵将を狙撃できるような弓の使い手がいるとは思えませぬ。弓術は六角家のお家芸……。一向宗の門徒どもが立て籠もった寺内町に、弓術に秀でた六角家の侍たちを紛れ込ませたのでしょう」
頼明は白髭を撫でつつ、探るような目つきでそう言う。
すると、義賢はクックックッと笑い、「さすがだな、御老体。年を食っているだけのことはあって、なかなか鋭い観察眼だ」と明智家の長老を褒めた。この尊大な男が他人を評価するのはとても珍しいことだが、やはり相変わらずの高飛車な物言いである。
「俺の父上に向かって『年を食っている』だと? いくら六角家の御曹司でも無礼は許さんぞ!」
孝行息子である定明が鼻息荒くそう怒り、猛獣のごとき勢いで義賢に吠えかかった。
弟の定衝が「あ、兄上! 落ち着いてください!」と慌てて定明にしがみつき、兄が義賢に飛びかかろうとするのを止めようとしたが、巨体の定明を細身の定衝が止められるはずがない。ずるずると引きずられただけだった。
「よさぬか、たわけ! そこで大人しく座っておれ! お前が出てきたら話がややこしくなる!」
頼明に扇子で額を叩かれ、定明は「あ痛っ⁉」と情けない声をあげた。
そんな明智親子のアホらしいやり取りを見ていた義賢は、フフッと笑う。
「この髭もじゃの大男が、『美濃の戦狂い』と呼ばれておる明智彦九郎定明か。なるほどな、噂通りの荒武者ぶりじゃ。この男ならば、我が六角家の忍びたちを一方的に惨殺し、当家の庇護下にあった明智光国の遺族を易々と美濃へ連れ去ることも可能であろうな」
(うっ……。や、やはり、ばれていたか)
ギクリとした頼明は、額に汗を浮かべつつ、
「そ、その件については、まことに申し訳ござらぬ。愚息に行方知れずとなっていた一族の者を捜索させていたのですが……。定明の考えなしの行動のせいで、六角家の方々には多大なご迷惑をかけてしまいました」
と早口で謝罪した。老齢の身でこんな若造にペコペコと頭を下げるのは嫌で仕方ないが、自分の馬鹿息子がやらかしたことなので素直に謝るしかない。
義賢は、頼明の白髪頭を見下ろしながらニヤリと口の端を歪めると、「気にするな、御老体。頭を上げられよ」と言った。
「彦太郎や霞(光秀の妹)も祖父の故郷である美濃で育ったほうが幸せであろう。我が父も『明智殿が我らの企みに加担してくれるのならば、当家の忍びを殺したことは水に流そう』と仰せだ」
(……若造め、そうきたか。最初にわざとその話を持ち出さず油断させておいて、不意打ちで我らの弱みを突いてきおった。さすがは六角定頼の嫡男じゃ。傲慢なだけの若武者に見えて、恐るべき外交術よ)
交渉をする際、絶好の時機を狙い、相手の秘密や弱みを何もかも把握していることをチラつかせて動揺させ、微笑みながら恫喝する。そして、交渉を有利に持って行く――。これこそが、多くの忍びを抱えて情報収集能力に長けている六角家の外交術である。当主の定頼は、この老練な駆け引きの術を息子の義賢に叩き込んでいたのであった。
六角家に対して負い目があり、ついさっきまでみっともなく平身低頭謝っていた頼明は、義賢に「そのような話、聞く耳持たぬ!」などと頭ごなしには言いにくい。危険な香りを感じつつも、六角の企てとやらに大人しく耳を傾けるしかなかった。
「企み……とは、先ほどチラリと申されていた利政討伐のことでしょうか」
「おうとも。明智殿も、あの蝮に対しては腹に一物を抱えておるのであろう?」
「明智家と斎藤家は縁戚ゆえ、そのようなことは――」
「いやいや、隠さなくてもよい。我らは全て知っておる。明智家の血を引く帰蝶姫は、蝮の陰謀の犠牲となって心を病んでしまっているそうではないか。そなたたちも、奴には深い恨みがあるはずじゃ」
「そ、それは……」
「御老体がそこにいる子息二人に愚痴をよく言っていることも俺は知っているぞ? 儂がまだ生きている内に奴を始末しなければ、美濃国はあの蝮に奪われ、土岐家は滅びてしまう――とな。毎夜のごとく酒を飲み、酔っ払いながら愚痴を漏らしておるそうではないか。『蝮を殺したくてたまらない』とそなたが考えているのは明白じゃ」
「……我ら親子の会話も、六角殿には筒抜けでしたか。そこまで入念に下調べをしたうえで我らに調略を試みるということは、義賢殿には利政を討つ自信があるのですな」
利政に対する敵意を見抜かれてしまっていると分かれば、もはや本心を隠す必要もない。頼明は腹をくくり、義賢に鋭い眼差しを向けてそう問うた。
恐らく、義賢は、明智家が利政討伐の誘いに乗る見込みが十分あることを知り抜いたうえで、何もかも明け透けに喋っているのだろう。そんな千里眼の目を持った相手に本心を隠し、慎重になろうとするのは馬鹿々々しい。こうなったら、一か八か六角の手のひらの上で踊らされ、利政討伐の企てに一枚噛んでやろうではないかと考えたのである。
「ああ、無論だ。俺が斎藤軍の援軍として大柿城に来たのには、二つの理由がある。一つは、土岐頼芸殿への義理を果たすため。二つは、味方のふりをして斎藤軍の足を引っ張り、織田信秀を勝たせるためじゃ。今日は陰山一景の部隊を壊滅させてやったが、次は陰山隊の壊滅を利用して斎藤軍の士気を下げてやる」
「ふむ……。されど、それだけでは、あの蝮は討てますまい。斎藤利政という男は、殺しても死なぬしぶとき梟雄でござる。勝利のためにいくつもの策を講じていることでしょう。我らが入手した情報によると、利政は信秀の主君である織田達勝(尾張下半国守護代)を味方につけようと頻繁に清須城へ密使を送っているようですぞ」
「そんなことぐらいは俺も承知しているさ。だが、達勝は信秀とは一心同体と言っていい。蝮の誘いには乗るまい。国内で反乱が起きて死ぬのは、利政のほうじゃ」
そう言いながら義賢は側近の家来に目線で合図をし、頼明たちの前に美濃国の地図を広げさせた。
「これを見ろ」
義賢に促されて明智親子が地図を見ると、美濃国内のあちこちの城や砦、町にいくつもの赤丸が書かれている。これらは全て挙兵の時をうかがっている反利政勢力だ、と義賢は語った。
「まず、土岐頼純殿の旧臣たちが、亡君の仇を討つべく密かに動いている。今は美濃と尾張の国境付近に潜伏し、信秀の軍勢と接触を図ろうとしておるようだ。
また、森可行・可成父子(美濃守護・土岐頼芸の直臣)など利政に反感を持つ美濃武士たちも信秀と連絡を取り合っている」
義賢は赤丸をひとつひとつ指差しながら、美濃国内の反利政勢力の動向を頼明老人に説明した。
頼明は、大柿城周辺の町や村にもたくさんの赤丸が記されていることに気づき、「これは、寺内町に現在立て籠もっている一向宗の門徒たちでござるか」とたずねた。
「いかにも。蝮の大柿城攻めを妨害するために、我ら六角が西美濃の一向宗を蜂起させた。信秀軍が美濃に討ち入るまでの時間稼ぎじゃ」
前にも書いたが、この頃の本願寺教団(一向宗)は六角氏の制御下にある。
法主である本願寺証如は、過去に室町幕府の政争に首を突っ込んだせいで多くの門徒を六角軍に殺されたことを悔いており、大名間の争いに関わるのは極力避けたいのが彼の本心だったが、今回は六角定頼に何らかの圧力をかけられたのだろう。織田軍を助けるため、斎藤利政の支配下にある西美濃の門徒たちを蜂起させていた。
「なるほど……。斎藤軍が一揆勢に苦しめられているのも、陰山一景が両目を失ったのも、全ては六角殿の仕業だったということですか。そこまで用意周到な企てならば、心強い。この明智頼明、美濃国と土岐家の未来を守るため、六角殿と手を組みましょう」
すっかり感服してしまった頼明がそう言うと、戦狂いの定明が「お⁉ お⁉ ついに蝮と戦でござるか⁉ ひゃっほーい‼」とはしゃぎだした。頼明は眉をひそめ、
「たわけッ。大声で騒ぐな。お前の馬鹿でかい声は隣の陣営にまで響くのじゃ。利政の家来に聞かれたらどうする」
そう叱りながら定明の額をまた扇子で叩いた。
だが、戦闘狂の血が騒ぎだすと、定明は止まらない。血走った目で大興奮しながら、「六角の御曹司よ! 我らは何をすればいい⁉ 今から利政の陣営に殴り込みに行こうか⁉ 半刻(約一時間)以内に奴の首をもぎ取って来てやるぞ⁉」と義賢に問うた。
「ハッハッハッ。そう慌てるな、猪武者。明智勢には、織田軍と斎藤軍が決戦におよんだ際に一働きしてもらうつもりだ」
「なるほど! なるほど! で、どうすればいい⁉ 今から蝮の首をもぎ取って来てやろうか⁉」
定明は全く話を聞いていない。今から殺し合うことだけを考えている。
これには、さすがの義賢も苦笑するしかない。
「動くのは今ではないと申しているであろう。とりあえず、落ち着け。耳を貸すのだ」
「なるほど! 蝮の耳をもぎ取ってくるのだな!」
「お前、ちょっと黙っていろ。話が先に進まん」
義賢は定明を叱ると、明智一族にいよいよ蝮退治の作戦を語るのであった。




