石山本願寺
平手政秀と青山与三右衛門は、京を後にすると、大坂の石山本願寺を訪問した。
「一向宗(本願寺)との関係が微妙なままでは、安心して三河や美濃に攻め込むことができない。上洛のついでに大坂の本願寺へ赴き、少しでもこちらの印象を良くしてきてくれ。……まあ、奴らと仲良くしたいとは思わんが、嫌われたら厄介だからな」
と、信秀に言われていたのである。
前にも書いたが、信秀は主君の尾張守護代・織田大和守達勝と対立したことがある。その時、達勝は伊勢~尾張間で勢力を伸ばしていた一向宗と連携し、信秀を挟撃しようと企んだ。ちょうど、畿内周辺で十万(二十万?)の一向一揆軍が暴走していた時期と重なっており、伊勢~尾張間の一向宗門徒たちも過激化していたはずだ。達勝はそんな一向一揆の暴走を利用し、信秀を排除しようとしたのだろう。
「あのまま戦が長引いていたらと思うと、ゾッとする。一向一揆が我らの領地に雪崩れ込み、最終的には尾張全土が大混乱に陥っていた可能性もある」
大坂へと赴く道中。政秀は、一向一揆に襲われたことがあるという寺社をいくつか訪ね、僧侶や神官からその当時の一向一揆の恐ろしさを聞いた。そして、深々とため息をつき、与三右衛門に右のような感想をもらしたのである。
一向一揆が畿内で大暴走したのが十一年前、延暦寺と法華一揆が交戦して京都が燃えたのが七年前のことだ。人々の脳裏にはあの時の凄まじい宗教戦争の記憶がいまだに鮮やかに残っており、彼らの話を聞いた政秀は、「武装した宗教勢力の暴走がここまで恐ろしいとは……」と戦慄したのだった。
「我ら武士は数千の兵をかき集めるのにも一苦労だというのに、本願寺が呼びかけたら十万以上の門徒たちが一斉に決起するのですからなぁ。彼ら仏僧たちに仏敵として目をつけられることほど恐ろしいものはありませんよ。
……まあ、寺の領地を横領しようとしたことがある俺がそんなことを言っても、説得力がありませんがね。あははは」
「笑っている場合か、この呑気者め。……それにしても、大坂は噂通りとても栄えているようだな。荒廃しきった京都とは比べ物にならん」
石山本願寺に到着した政秀は、道場(御坊)を中心に形成された寺内町の繁栄ぶりに驚いていた。
町の周囲には深い堀や強固な土塁が築かれ、その防衛能力は戦国武将の城に劣らない。
町の中ではたくさんの信者たちが商売をしていて、経済活動も盛んだ。あちこちで町を拡張するための工事が行われていて、優秀な技術者たちも大勢いるようである。
永禄年間に記された真言宗のある僧侶の日記には「(大坂の町が)火事で二千軒あまりが焼けた」とあるため、石山本願寺には数千軒の家が建ち並んでいたと思われる。
このように栄えている一因には、幕府との密接な繋がりがあった。
本願寺(一向宗)が各国につくっている寺内町では、幕府によって地子銭(固定資産税)免除、諸役免除、守護不入(その地では守護が租税の徴収、罪人の逮捕をできない)など様々な特権が与えられ、戦国武将たちが気安く手出しができない自治集落が形成されているのだ。門徒たちにしてみたら、のびのびと商売ができるこの世の楽園のような場所だったろう。
「比叡山は荘園や関所の関税、高利貸しなどで銭もうけをしているが、本願寺の収入源は信者たちの喜捨(寄付金)だ。寺内町が栄え、信者たちがこの町に集まって人口が増えれば増えるほど、本願寺は信者たちの喜捨によってどんどん膨れ上がっていく。殿様が日頃から『効率のいい銭もうけを考えつく者こそが真の強者だ』とおっしゃっているが、本願寺はその強者の中でも群を抜いているだろうな」
「うーむ。俺もここに住んで商売をしたら、大金持ちになれるだろうか……」
「冗談を言っていないで、本願寺証如に会いに行くぞ」
真面目な話をしていてもすぐにおどける癖がある与三右衛門にピシャリとそう言うと、政秀はこの町の中心である御坊(寺院)へと向かうのであった。
* * *
本願寺の法主・証如は、信秀より六歳年下の二十八歳である。
証如は、「尾張から織田信秀という武将の家来が訪ねて来た」という報告を受け、
「いったい、何をしに来たのだ……?」
と、警戒した。
証如の元には、全国の本願寺教団の寺院から様々な情報が入って来るため、尾張の信秀が現地の門徒たちと一時緊張状態にあったことも耳にしていた。信秀という武将について詳しくは知らないが、本願寺に良い感情を持っているとは思えない。
「もしかしたら、借金をしに来たのかも知れませんよ。証如様が近隣の大名に銭を貸していることを聞きつけてやって来たのではありませんか?」
証如の妻が、さっきからなかなか泣き止まない赤ん坊をあやしながら、当てずっぽうでそう言った。
証如の妻は庭田重親という公卿の娘で世間知らずなため、尾張の織田信秀が大きな港を二つも所有している裕福な武将だということを知らないようである。
ただ、莫大な財を蓄えつつある本願寺に泣きついてくる貧乏な大名は多い。播磨守護の赤松氏などは、領内の一向宗(本願寺)を弾圧したことがあったくせに、
「兵糧がないから、貸してくれ!」
と、使者を送って来たことがある。
あまりにも虫のいい要求で最初は断ったが、武家と不用意に対立するのは避けるべきだと考え直して、銭を貸してやった。
そんなことが多々あるものだから、証如の妻が「また借金か」と思っても仕方がないのかも知れない。
証如は、十一年前に山科本願寺が炎上して以来、武士たちの争いごとにいいように利用されるのはもう懲り懲りだと思っていた。新たな拠点である大坂は急速に発展しつつあるが、細川晴元の口車に乗せられて大勢の門徒たちを失った心の痛みは拭い去れるものではない。
(せめて自分が法主である限りは、なるべく門徒たちの過激な行動をおさえ、本願寺を大きくすることだけを考えたい……)
そう考えていたからこそ、借金を申し込んでくる大名や武将がいたらなるべく銭を与えてやり、彼らが支配している領国で本願寺派の門徒たちが手厚く保護してもらえるようにした。
また、京都の知恩院(浄土宗)や石清水八幡宮が建物を再建・修理する時には寄付金を送り、他の寺社との共存関係を築く努力もしている。
武家や他宗教との共存だけでなく、権力者たちへのコネをつくることも忘れてはいない。公卿の娘を妻に迎えたのも、朝廷との繋がりを強くするためであった。
そして、室町幕府への影響力も取り戻さなければならない。証如はこの一年後に、今年の正月に生まれたばかりの我が子・茶々を管領・細川晴元の養女と婚約させ、一度は本願寺を裏切った晴元との友好関係を完全に修復させることになる。
十一年前の悲劇から本願寺を建ち直らせることに、証如はその人生を費やしている。法主として、父として、息子の茶々が成人して本願寺の門跡を継ぐまでに、この石山本願寺を盤石な宗教王国にしておきたかったのだ。
「十一年前、まだ十代だった私は周りの大人たちにそそのかされ、先代法主・実如(証如の祖父)の『武士を敵に回してはならない』という遺言を破り、山科本願寺を焼失させてしまった。どのような無理難題を突きつけられるかは分からないが、とりあえず尾張からの客に会ってみるか。面会を拒絶などして恨まれたら、茶々が門跡を継いだ時に復讐されるやも知れぬからな」
証如は憂鬱な顔を打ち消すと、妻があやしている茶々の頭を撫でてやった。すると、茶々はようやく泣き止み、きゃっきゃっと笑いだした。
この赤ん坊と婚約することになる細川晴元の養女というのが、藤原北家の流れをくむ三条公頼の三女で、甲斐の虎・武田信玄の正室の年の離れた妹にあたる。
信玄の義弟となり、織田信長と十年間に渡る死闘を繰り広げることになる運命を持ったこの赤ん坊こそが、後の、
本願寺顕如
だった。
※余談ですが、この当時の本願寺教団は「一向宗」を自分たちのオフィシャルな呼び名として認めていませんでした。
蓮如は、「本願寺の宗旨を他の宗派の者たちが『一向宗』と呼ぶのは仕方ないが、門徒たちが自ら『一向宗』と名乗るのはNG。親鸞が命名した通り、『浄土真宗』と名乗りなさい」と言っています。
つまり、本願寺の門徒たちも「俺たちは一向宗だ」と名乗る者がいたようだけれど、本願寺教団としては「浄土真宗」がオフィシャルな名前だと認識していたようです。
そこらへんのことは物語内ではややこしいので言及しませんでしたが、本願寺証如や息子の顕如たちが登場するシーンでは彼らになるべく「一向宗」と言わせないようにする予定です。
※さらにもう一つ余談ですが、戦国ものの小説やドラマでは「一向一揆」という言葉が頻繁に使われ、この物語でも普通に使っていますが、実際にはこの時代の人々は「一向一揆」という言葉を使っていなかったようです。(以下、神田千里氏著『戦国と宗教』(岩波新書)を参照)
「一向一揆」という用語が確認できるのは、今のところ宝永年間(1704~1711年)に小林正甫が記した『重編応仁記』『続応仁後記』という書物が最も古いそうです。
戦国期の人々は一向一揆のことを単に「一揆」「土一揆」と記しており、本来ならば信長たちが「おのれ、一向一揆め!」と言うのは時代考証上おかしい……ということになります。
ただ、これは小説ですし、信長の台詞が「おのれ、本願寺の門徒たちが起こした土一揆め!」では何だか締まらない……(汗)
というわけで、雰囲気重視のため、この物語でも「一向一揆」の用語をあえて使っていきたいと思います。ご了承ください。




