熱血神官の訴え
古渡城には、信秀の呼びかけに応じた尾張の武士とその手勢が続々と集まりつつあった。
信秀麾下の歴戦の勇士たちだけでなく、清須城からも主君・織田大和守達勝が派遣してくれた清須衆の侍たちが数多駆けつけ、瞬く間に軍勢は膨れ上がった。
その利政討伐軍の中には、那古野城から馳せ参じた内藤勝介(信長の四番家老)の部隊もあった。
だが、那古野城主である信長の姿は見当たらない。小豆坂合戦に続いて今回の一大決戦にも、我らが主人公は参戦できない運命にあったのである。
内藤勝介の部隊が那古野城を出立する前日のこと――。
「何⁉ こたびの戦、俺は留守居だと⁉ 小豆坂の合戦に従軍できす無念に思っていたというのに、美濃攻めにも連れていってもらえないのか!」
信長は、信秀の使者として那古野城にやって来た柴田勝家に、そう怒鳴っていた。
信長は普段は物静かだが、怒りを爆発させると、燃え上がる焔のごとき激情を吐き出す。その猛烈さは、荒ぶる神・牛頭天王を彷彿とさせ、十五歳の少年とは思えぬほどの威風を放っている。猛将の勝家ですら、信長の雷鳴のような怒声には恐れ入り、「も、申しわけありませぬ……」と平身低頭してしまっていた。
そばに控えている一番家老の林秀貞も、どうしたものかとおろおろしている。
こういう時に、心火を燃やす信長を落ち着かせるのが、二番家老の平手政秀の役割である。
「信長様。権六(勝家)は殿の言葉を伝えに来ただけです。権六を怒っても仕方ありますまい。それは八つ当たりというものですぞ」
政秀は、静かな口調で、そう言い諭した。
烈火のごとく怒っている信長様にそんなことを言ったら……と秀貞は冷や冷やしている様子である。だが、信長の傳役を長年つとめてその気性を知り抜いている政秀は、何の心配もしていなかった。
信長が父親譲りで短気なのは確かだ。しかし、筋の通った諫言ならば、耳障りなことを言っても、信長は意外と怒らないのである。
案の定、信頼する平手の爺にたしなめられると、信長はすぐに冷静さを取り戻し、「……デアルカ」と落ち着いた声で呟いた。
「たしかに平手の爺の申す通りじゃ。権六、顔を上げろ。怒鳴って悪かった」
素直な性格の信長は、八つ当たりしてしまったことを勝家にきちんと詫びた。
この少年は、非常に頭の切り替えが早い。自分が間違えていたと気づくと、ほとんど迷うことなくそれを改められる。いつまでも自分の感情や思い込みに囚われることがない。
(信長様とはこれまで親しく言葉を交わす機会が無かったが……。恐ろしい一面はあるものの、どうやら聡明なお方のようだな)
勝家は、信長に対してそんなふうに好印象を抱き、ゆっくりと頭を上げた。
「従軍できぬのは無念だが、世継ぎである俺が父上の命令に逆らうわけにはいかぬ。『この信長、しっかりと留守居の任を果たしまする』と俺が申していたと父上に伝えてくれ」
「ハハッ。必ずやそのようにお伝えいたしまする」
信長と勝家のやり取りを見守っていた政秀は、ニコリと信長に微笑み、それでよいのですと目で語りながら頷く。
……だが、実を言うと、政秀の心の内はそれほど穏やかなものではなかった。信長様が思わず声を荒げてしまうのも無理はない、と同情をしていたからである。
(昨年、信長様は初陣で手痛い敗北を経験してしまっている。そのせいで、「信長様は戦下手なのか。あの方が世継ぎでまことに大丈夫なのであろうか」と不安がる家来たちまで現れておる。重臣たちの不安を払拭するためにも、信秀様はなるべく早い内に信長様に二度目の出陣をさせて華々しい手柄を上げさせるべきだと儂は思うのだが……)
どうやら信秀様は別の心配をなさっているようだ、と政秀は主君の迷いに思いをはせていた。
信長が今回の美濃攻めに従軍して勝てばいいが、もしもその戦いが負け戦だったらどうなるか……?
ただでさえ最初の戦歴で土がついてしまっているのに、敗戦を重ねたら、信長の武名は完全に地に堕ちてしまう。息子に対して過保護なところがある信秀は、
――絶対に勝てる保障のある戦でなければ、信長は連れていけぬ。
と考えているのかも知れない。
しかし、それではいつまでたっても、信長に汚名返上の好機が訪れることはないだろう。駿河には今川義元、美濃には斎藤利政(道三)と、尾張国は油断ならぬ強敵に挟まれているのだから……。
(近頃、六角家との同盟を発案した信勝様(信長の同母弟)のご評判が古渡城(信秀の居城)の家来衆の間で著しく高まっている。近江国に赴いて六角との同盟を実現させたのは信長様だが……。これでは発案者である信勝様に信長様が使い走りをさせられたかたちだ。「賢弟が知恵を出し、愚兄はお使いをして来ただけだ」と言いふらしている不届き者までいると聞く。何者かが悪意をもって信長様を陥れようとしているのだろうが、このまま信長様が活躍する場が与えられずに「織田家の子息は愚兄賢弟だ」という噂が流れ続けると、家督争いが起きるやも知れぬ)
政秀はそんな危惧を抱いていた。
その夜、彼は信秀宛てに「どうか、信長様にも出陣のご許可を」と手紙を書いて古渡城に使者を送ったが、信秀の返答は否だった。
* * *
政秀が自邸で信秀への書状をしたためていたその夜。
就寝中だった信長は、真夜中の来訪者に叩き起こされていた。
「うわぁぁぁ‼ 信長様ぁぁぁ‼ 無念でござる‼ 無念でござるぅぅぅ‼」
寝所に闖入して来たその男は、獣のような荒々しい声でそう泣き喚きながら、寝床に伏していた信長に抱きついてきた。
清楚かつ厳かな雰囲気をまとった神主の衣装。
毛筆で書き殴ったような極太の眉毛。
脂ぎり、暑苦しい大きな顔。
そして片手には薙刀。
ちぐはぐな服装と容貌のこの男は――尾張国では言わずと知れた武闘派神職の千秋季忠。おっさん顔なのでそうは見えないが、信長と同い年の十五歳である。
「な、ななな何だ⁉ 季忠か⁉ そ、そなた、いったいどうやってここに入って来た!」
熟睡していたところにいきなり抱きつかれ、しかもその相手が顔面暑苦しい野郎だったら、さすがの信長でも仰天する。声を裏返しながら、「こんな夜中に客を城に入れるとは、門番どもは何をやっているのだ!」と叫んでいた。
ちなみに、夜中の来訪者を止めようとした門番の兵士たちは、季忠が薙刀の一振りで蹴散らしてしまっている。信長の寝所にたどり着くまでにも、池田恒興や近侍の者たちが止めに入ったが、季忠の怪力で吹っ飛ばされ、今は全員が庭で目を回していた。
が、ワンワンと泣いている季忠は、それらのことをいっさい説明しない。信長に頬ずりしながら「信長様ぁぁぁ‼ 私は無念ですぅぅぅ‼」とひたすら泣き続けている。信長の麗しい顔は、季忠の脂ぎった顔にこすりつけられ、べっとべとになっていた。
「は……話を聞いてやるから、その頬ずりをやめろ。あ、暑苦しい」
「うわぁぁぁぁぁん‼ 私も美濃攻めに加わりたかったぁぁぁ‼」
「分かった。分かったから顔をはなせ」
「斎藤利政はぁぁぁ‼ 我が父の仇だというのにぃぃぃ‼」
「い、いい加減に……」
「大柿城救援の戦に従軍できぬのは無念の極みぃぃぃ‼ うおぉぉぉん‼」
「暑苦しいと申しておるだろうがッ‼」
ついに堪忍袋の緒が切れた信長は、季忠の顔面を思いきりぶん殴った。拳は顔のど真ん中に入り、季忠は「げぼべばっ⁉」と言いながら吹っ飛ぶ。
どたどたどたーんと豪快に転がり、庭に落っこちたが、季忠はすぐに這い上がってきて信長にまた抱きつこうとした。器用なことに、右の鼻からは鼻血、左の鼻からはどろっとした鼻水を流している。
そんな汚いものを顔にこすりつけられてたまるかと思った信長は、「止まれ!」と叫びながら季忠の顔面を足でおさえつけた。
「落ち着け、季忠。ちゃんと話は聞いてやるから、冷静になって話せ」
「ぼんどうでぶか?(本当ですか)」
じゅるじゅると鼻をすすりながら、季忠はそう問うた。季忠の顔から足をはなした信長は、足の裏についた鼻血と鼻水を季忠の着物の袖で拭きつつ、「ああ、まことだ」と答える。
「あい分かりました。じゅるじゅるじゅる……」
ようやく大人しくなった季忠は、ドスンと座り込んだ。そして、大柿城への援軍に自分も従軍したいと申し出たのに「それはならぬ」と信秀に言われたことを口早に語った。
「我が父・千秋季光は、四年前の美濃攻めで討ち死にしました。父の所持していた名刀・あざ丸も斎藤方に奪われ、今は陰山一景なる武将の手中にあると聞きおよんでおりまする。父の仇である斎藤軍に一矢報い、あざ丸を取り戻すせっかくの好機だというのに、美濃への従軍が許されぬのは甚だ無念……。信長様、どうかお願いです。信秀様に私の出陣の許可をとりなしてくださいませ」
「そういう話であったか……」
季忠の話を聞いた信長は、表情を曇らせ、この少年にしては珍しく困ったような顔になった。
父の無念を晴らしたいという季忠の孝行心は立派だと思うが、残念ながら信長は力になってやれない。信長本人が父から「出陣はならぬ」と命じられ、不満に思いながらもその指示に大人しく従っているのだ。自分の出陣の件ですらままならぬのに、家臣の出陣の許可を父に乞うことなど信長にはできなかった。
(よくよく考えたら、俺は本気で父上に逆らったことが一度も無いのだ。父の意に反する行いをする、という発想自体がそもそも無かった)
幼い頃から父の薫陶を受けて育った信長にとって、織田信秀こそが絶対の正義だった。信秀の言葉に逆らうことは、この世で最も犯してはならぬ悪なのである。大事な家臣や領民を守るためならば神仏にすら挑みかかる勇気を持っている信長も、父に反抗することだけはできない。自分が信じる絶対的な正義を否定してしまうのが恐ろしかったのだ。
「……季忠よ。そなたの気持ちも分かるが、美濃への従軍は諦めろ。父上のご判断は正しい」
「な、何故です⁉」
季忠に鼻息荒く詰め寄られて、信長は「それは……」としばらく言いよどんだ。何故ですと問われても困る。信長は、信秀ではないのだ。そんなこと分かるはずがない。
だが……情に厚い父ならば、きっと千秋家のためを思って出陣を許さなかったのだろう。そう思案した信長は、想像ではあるが信秀の考えを代弁してみた。
「……千秋家は、熱田神宮の大宮司を代々つとめ、かつては室町幕府の奉公衆に名を連ねていた由緒ある名家じゃ。祖先の藤原季範は源頼朝公の外祖父にあたり、その血も尊い。そなたは、そんな血筋正しき千秋一族の生き残りなのだ。父の季光が戦死し、兄の季直も夭逝した今、そなたが熱田神宮と千秋家の血を守ってゆかねばならぬ。我が父・信秀は、『大敵である斎藤利政との決戦に季光を従軍させて万が一死なせたら、あの世の季光や季直に申し訳ない』と考えて、出陣を許可しなかったのだろう」
「む……むむぅ~……。信秀様が、そこまで千秋家のことを考えていてくださったとは……」
(たぶんな)
季忠は信長の説明に納得したようで、フーンフーンと荒々しく鳴らしていた鼻息を止めた。
「分かりました……。こたびの従軍は諦めまする。されど、私は熱田神宮の大宮司である一方、織田家の武将でもあります。武将が大事な一戦に加わることができぬのは、武士の名折れ! 一日も早く大戦に連れて行ってもらえるように、これから努力いたしまする!」
「努力? いったいどんな?」
「嫁をもらいまする‼」
「は?」
「嫁をもらい、子供を授かれば、千秋家の未来は安泰‼ 安心して、大戦で壮絶な戦死を遂げられます‼」
「待て。その前提はおかしい。自分が死ぬことを想定して妻を娶るな。死ぬ気満々で結婚したら、その嫁があまりにも哀れでは――」
「うおぉぉぉーーーッ‼ そうと決まれば、嫁探しじゃぁぁぁ‼ だれぞ私の妻になりたい女子はおらぬかぁぁぁ‼」
季忠は、信長の話を最後まで聞かず、寝所を飛び出して行った。
それからほどなくして、城内のあちこちで侍女たちの「キャーッ⁉」という悲鳴が上がりだした。季忠が「私の嫁になれ‼」と喚きながら若い侍女を追いかけ回しているようである。
「……やれやれ。熱血神官殿は、熱田神宮の神職なだけに、まことに暑苦しい奴じゃ」
あつたとあつくるしいをかけた寒い駄洒落をポツリと呟くと、信長は再び寝床に入って眠り始めた。
信長が止めに入らなくても、侍女たちを束ねているお徳(信長の乳母。池田恒興の母)がそのうち季忠を何とかしてくれるだろう。お徳は、城内の若い侍たちよりも体術に優れている女傑だ。怒らせると、非常に恐い。
案の定、翌朝に信長が目覚めると、庭にはお徳によって木にくくられた季忠の変わり果てた姿があった。
「の、信長様。どうかお助けを……」
「しばらくそこで反省していろ」




