大柿城の危機
十一月に入って早々のこと。
近江国観音寺城に、美濃からの来訪者があった。美濃守護・土岐頼芸の書状を携えてきた、土岐家直臣の森可成である。
頼芸の手紙の内容は、驚くべきもので、
――守護代・斎藤利政(道三)の大柿城(大垣城。織田方が占領中の美濃の城)攻めに援軍を出して欲しい。
と書かれていた。
「ふむぅ……。つまり、頼芸殿は、この儂に織田信秀と戦えと仰せか?」
六角定頼は手紙を読み終えると、下座の森可成に鋭い視線を向けながらそう言い、ポイッと手紙をわきに捨てた。
そばに控えていた息子の義賢(後の六角承禎)がそれを拾い、忙しなく眼を動かして書状を読む。十秒も経たない内に、義賢の浅黒い顔は憤怒の形相に変わった。
「な……何だこれは! 頼芸殿はどれだけ愚かなのだ! 斎藤利政は、頼芸殿を排除して美濃国を乗っ取ろうと企んでおるのだぞ⁉ 今、頼芸殿を利政の下剋上から守ることができるのは、我ら六角と織田信秀だけだ。その六角と織田が争えば、苦境に立たされるのは頼芸殿ご本人ではないか! あの御仁は阿呆なのか⁉ いや、最初から阿呆だとは思っていたが、さすがに阿保にも限度というものがあるぞ!」
「こら、義賢。口が過ぎるぞ」
定頼は息子をそう叱ったが、定頼も少々苛立っているらしい。客人である可成に微笑を向けてはいるものの、目はまったく笑っていない。その厳しい眼光が「なぜこんなことになったのだ」と問うていた。定頼の無言の問いに、可成は冷や汗をかきつつこう答える。
「実は……六角殿と織田家が秘密裏に同盟を結び、頼芸様を救おうと計画を立ててくださっていることを我らは織田家を介して知っていたのですが……。我が主君・頼芸様は、その秘密同盟の存在をうっかり利政の前で喋ってしまったのです。それで、このような仕儀に……」
つまり、六角と織田の同盟を知った斎藤利政は、両家の連携を切り崩すべく、頼芸を脅してこのような手紙を書かせたということなのだろう。謀略家の利政らしい狡猾なやり方だ。
「口を滑らせて我らの努力を水の泡にしてしまうとは、阿呆すぎる!」
ドン! と義賢は床を殴り、怒りの咆哮を上げた。
定頼も頼芸の愚かさに呆れたらしく、しばしの間、腕を組んだまま目を瞑って黙りこんだ。
「父上。いかがなされるおつもりですか。このまま蝮めの策略に踊らされてしまうのは、面白くありません。それに、俺は弟分の信長とは戦いたくない」
「儂も同意見だ。……とはいえ、脅されて書いた文であったとしても、これは美濃守護・土岐頼芸殿からの正式な援軍の依頼状じゃ。六角家と二重三重に縁のある頼芸殿の援軍要請を拒絶すれば、室町幕府の庇護者たる儂の評判は大いに落ちてしまう。儂にはこの援軍の依頼を断ることはできぬ。利政は、そこまで計算済みなのであろうよ」
「あの成り上がり者めがッ! どこまでも卑怯な手を!」
「落ち着け、義賢。儂にも『天下を背負う者』としての自負がある。蝮ごときにいいように使われてやるつもりなどはない」
閉じていた両眼を静かに開くと、定頼はそう言って義賢をなだめた。その目は遥か遠くを――蝮の毒に侵されつつある美濃の国を見据えている。
「……どういうことですか、父上」
「簡単な話よ。儂とそなた、親子で役割分担をするのだ。儂は頼芸殿に対する義理を貫く。そなたは、弟分の信長への義理を貫けばよい」
ニヤッと悪戯っぽく笑い、定頼は義賢を見つめる。
義賢は、意味が分からずしばらく眉をひそめていたが、やがて「ああ……! なるほど、その手があったか!」と破顔しながら膝を打った。
父の意図をすぐに察した我が子の聡明さに満足したのか、定頼はウムと頷く。そして、六角父子のやり取りをハラハラしながら見守っていた可成に「森殿」と厳かに声をかけた。
「大柿城攻めの援軍には、こちらの義賢を大将として遣わそう。頼芸殿や蝮殿によろしく伝えてくだされ」
* * *
天文十七年(一五四八)十一月上旬。
斎藤利政の美濃軍は、六角家の援軍を得て、織田方の大柿城に攻め込んだ。
西美濃にある大柿城は、織田家にとって美濃攻めに取り掛かるための重要な拠点である。この城を失うと、信秀の美濃攻めは大いに困難になるだろう。
斎藤・六角連合軍迫る――その報をいち早く古渡城(信秀の居城)にもたらしたのは、六角家の忍びの伊賀崎道順だった。定頼は、斎藤軍に援軍を出す一方で、織田家に大柿城の危機を知らせたのである。
「何じゃと⁉ ろ、六角軍が蝮の援軍に加わっておるだと⁉ 成立したばかりの織田六角同盟はどうなったのじゃ!」
信秀は、夜半に寝所へ忍び込んで来た伊賀忍者に最初驚いたが、道順が語った内容を聞くと驚愕の声を上げて激怒した。
「怒りをお鎮めください。これは、全て斎藤利政の謀略です。利政が、六角が織田に弓を引かねばならぬように仕向けたのです」
道順は押し殺した声でそう言い、今回の出陣は主人の本意ではないことを信秀に説明した。
「おのれ、蝮め。人を陥れる才能だけは天下一じゃな……」
利政の陰湿な手口を道順から事細かに聞かされ、信秀は歯噛みして悔しがった。苦労して漕ぎ着けた織田六角同盟は、蝮の奸計によって幻と消えてしまったということか――。
「落胆なさいますな、信秀様。我が主からの伝言を預かっています」
「定頼殿からの伝言じゃと?」
「はい。『己の謀がまんまと当たり、利政は油断をしている。織田殿は六角を信じ、美濃に出陣なさるがいい。悪いようにはしない』と定頼公は仰せです」
「六角を信じろ……。定頼殿は、我らとの盟約を反故にするつもりは無いというのだな?」
信秀が射貫くような目でギロリと睨むと、道順は「いかにも」と頷いた。
(六角定頼は、天下の静謐を実現させるために働いている将軍家の庇護者だ。武家の美しき秩序を乱す利政のごとき下剋上の鬼は、是が非でも退治したいはず。志を同じくする俺を裏切るとは考え難い。ここはひとつ、定頼の言葉を信じてみるか)
そう決断した信秀は、「あい分かった」と答えた。
「蝮が姑息な策略を使うのならば、俺はそれを凌ぐ大胆な戦略を用いて奴の野望を挫いてやる! 戦じゃ、戦じゃ!」
* * *
「父が……いえ、我が夫の仇・斎藤利政が西美濃の大柿城に攻め込みました。尾張の織田信秀殿は、大柿城を救うべく近日中にこの美濃へ出兵するでしょう」
「はい、帰蝶様。今こそ、亡き頼純様の仇討ちをする好機です」
美濃国の南泉寺。
帰蝶姫は、農夫の姿に身をやつした一人の男と寺の庭で密会していた。
その男、風体はみすぼらしく装ってはいるが、眼光鋭くたくましい体つきである。眼力のある者ならば、ただの百姓ではないとすぐに分かるだろう。
「この仁左衛門、亡君の無念を晴らすためならば死も厭いませぬ」
農夫に化けた侍――土岐頼純の遺臣・羽田仁左衛門は、獰猛な野獣のようにギラギラとしている眼光を光らせ、帰蝶にそう誓った。元々は温厚な人柄の武士であったが、利政による苛烈な頼純旧臣の残党狩りから逃げ回る日々を送るうちに、すっかり野性味あふれる風貌になりつつある。
「よくぞ言ってくれました。あなたがた頼純様の旧臣が美濃国内に潜伏して復讐の機会を狙っていることは、昨年にこの寺を訪れた織田家の者たちには伝えています。織田軍が美濃領内に入ったら、時を置かず信秀殿に接触してください。美濃の地理に詳しいあなたたちが織田勢に手を貸せば、必ずや利政を討ち取ることができるでしょう」
帰蝶は虚ろな目を庭内の芙蓉の木に向けつつ、薄ら笑いを浮かべてそう言った。
この芙蓉の木は、南泉寺に眠っている主君の魂を慰めるために仁左衛門が快川紹喜の許しを得て境内に植えたもので、帰蝶は夫の墓参りで寺を訪れるたびに芙蓉の木をこうしていつも眺めているのである。
(あの男が……斎藤利政が生きているかぎり、私の心は永遠に晴れない。利政が織田軍に討たれ、地獄に堕ちるところをこの目で見届けたら、私も自害しよう。そして、憎き男の最期の有り様をあの世の頼純様や深雪に伝えるのだ)
十四歳にして、帰蝶姫の明日を生きる希望は完全に失われていた。夫の頼純と姉代わりの深雪を敬愛していた父に殺され、何を信じて何を縁に生きていけばいいのか分からなくなっていたのである。いま彼女の胸の内にあるのは、自分を裏切った父に対する復讐心だけであった。
「死ね死ね死ね死ね。斎藤利政よ、死ね。この世で最も惨めな死に方をして地獄に堕ちろ。早く死んでくれなければ、私が死ねない。頼純様と深雪の元に行けない……」
<斎藤軍の大柿城攻めにおける「近江からの援軍」について>
太田牛一の『信長公記』によると、斎藤利政(道三)は大柿城を攻める際に「近江国より加勢を頼」んだようです。
ただし、近江国のどこの勢力に援軍を依頼したのかまでは記されていません。なので、六角氏ではなく北近江の浅井久政だった可能性もあります。(道三と主君の土岐頼芸の対立が深まっていた時期なので、普通に考えたら頼芸の縁戚である六角氏に援軍は頼みにくかったはず。「浅井氏援軍説」は十分にありえる)
ただ、
・道三だったら策謀で六角氏の援軍を引き出すことも可能だったのでは?
・物語的に、この時期の「天下人」だった六角氏を目立たせたい。
・六角義賢はこの小説の終盤まで信長の人生のキーマンになっていく予定。
・というかここで浅井久政さんに出て来てもらっても、六角義賢アニキと比べちゃうと強キャラ感に欠けて物語が盛り上がらない。(←あくまでも個人的な見解です。浅井ファンの方ごめんなさい)
などといった理由で、この物語における斎藤軍の援軍は六角氏にしました。




