光秀、東へ
「ふんふんふ~ん♪ 今日から数日は『春秋左氏伝』を朝から晩まで読みまくるぞ~!」
彦太郎は鼻唄を歌いながら明智屋敷に戻った。
しかし、母の小夜が客間で熊みたいな大男と談笑をしていたため、「は……母上⁉ 誰ですか、その髭もじゃの熊は!」と素っ頓狂な声で叫んでしまった。
「こら、彦太郎。お客様に対して失礼ですよ。霞も笑い転げるのはおやめなさい」
小夜は慌てて子供たちを諌め、髭もじゃの大男に「申し訳ありませぬ、定明様……」と詫びた。
「ワッハッハッ。気になさるな、小夜殿。子供は正直な生き物だ。かわゆい、かわゆい」
定明と呼ばれたその偉丈夫――美濃の南泉寺で最初槍の勇者・織田造酒丞と死闘を演じたあの戦闘狂である――は、豊かな髭を撫でながら、豪快に笑う。馬鹿みたいに声がでかく、一笑しただけで屋敷の梁や柱がビリビリと震えた。
この男、山賊みたいに髭をもじゃもじゃと生やしてむさ苦しいかぎりではあるが、それなりに身分ある武士のようである。身に着けている衣服や刀が亡き父のものとは比較にならないほど上等だったので、彦太郎にはすぐに分かった。
「し……失礼いたしました。それで、母上。この御方はいったい……」
彦太郎が謝りながら母の傍らに座ると、小夜は嬉しそうに微笑んで「定明様は、美濃の明智家の方なのですよ」と意外なことを言った。
「私たち近江の明智家は美濃を追放された身ですので、美濃の明智家の方々とは長らく音信不通になっていました。定明様のお父上……彦太郎にとっては大叔父にあたる方が、私たちが息災に暮らしているか心配し、わざわざ定明様を近江に遣わしてくださったそうです」
「なんと……。つまり、この髭もじゃ……げふん、げふん、こちらの御方は我らの同族ということですか」
「おう、そうじゃ。我が名は明智彦九郎定明。父の頼明は、そなたの祖父の弟にあたる。だから、俺とお前は従兄弟……じゃないな。はとこ……でもない。ん? ん? ん? え~と……まあ、同じ明智一族ということだな! アハハハ‼」
「……は、はぁ……なるほど」
何が面白いのか定明は大爆笑している。彦太郎は微妙そうな顔をしながら相槌を打った。寡黙な父に育てられた彦太郎は、大人の男というのは物静かなものだと思っていたのだが、この定明という人物はまるで落ち着きがない。悪童のごとく騒がしい。このおっさん、ちょっと苦手だなぁ……と思った。
「いやぁ~、そなたたちの住処を見つけ出すのに、ずいぶんと苦労したぞ。捜索のため、近江国内に我が家臣を何人か派遣したのだが、一人も帰って来なかったのだ。どうやら、六角配下の伊賀か甲賀の忍びに消されてしまったらしい」
「ええ⁉ そ、そんなことがあったのですか。……しかし、美濃守護代の斎藤利政(道三)は悪名高き謀略家ですからね。美濃方面から来た侍が六角家の家臣について嗅ぎ回っていたら、六角様の忍び衆が『蝮めがまた何か悪だくみをしているに違いない』と警戒するのも頷けます。とんだ災難でしたね」
「ああ、まことに災難じゃった。それゆえ、埒が明かぬから俺自ら近江に赴いて探し歩くことにしたのよ。道中、やはり六角配下の忍びどもに襲われたゆえ、十人ほどぶち殺してきたがな。ハハハハハハ‼」
戦狂いの定明は、人殺しの話をする時に一番いい笑顔になる。目をキラキラと輝かせながら、物騒なことをベラベラ喋った。彦太郎と小夜は、いっきに顔を青ざめさせる。
「ろ……六角様の……」
「忍びを……殺したのですか。十人も」
母と息子は声を戦慄かせ、そう言った。幼い霞は事の重大さを分かっておらず、「おじさん、強いねぇ」と褒めている。
これはちょっとまずいことになった、と小夜と彦太郎は考えていた。
彦太郎の家は六角家から禄をもらっている立場である。六角の忍びを十人もぶち殺した人間とこうやって和気あいあいと会話していたことが六角家にばれたら、非常に困ったことになる。
(まさか……この殺人熊を追いかけて、忍びたちがここまで来ていないだろうな)
ふと嫌な予感がした彦太郎は、恐るおそる庭の方角を見た。もしかしたら物陰に忍者が潜んでいるかも、と思ったのである。
悪いことに、その予感は当たってしまった。
ヒュン! ヒュンヒュン!
唐突に、棒手裏剣が木の陰や石の陰から三本同時に飛んで来たのである。
「うひゃぁ⁉」
驚いた彦太郎は体をのけ反らせ、どたんと仰向けに倒れた。
「母上! 霞! ふ、伏せるんだ!」
狼狽しつつも、母と妹の身を案じてそう叫ぶ。だが、その攻撃は彦太郎たちを狙ったものではなかったため、親子三人が傷つくことはなかった。
三発の棒手裏剣は、狙いも正確に、定明の顔面と喉元、心臓めがけて飛んで行く。
これは死んだ――と彦太郎は思った。しかし、次の瞬間には、さらに驚きの光景を見ることになったのである。
「にゃはははははは‼ こへふらいで、おでがしふか!」
定明は絶命することもなく、座ったまま大笑いしていた。
爆笑しながら何を言っているのかは分からない。飛来した棒手裏剣を口でくわえつつ喋っているからだ。残りの二本の棒手裏剣も、左右の手の人差し指と中指で挟んで受け止めている。
(は……歯で手裏剣を防いだ人間なんて初めて見た! 何という出鱈目な熊だ!)
彦太郎がそう驚愕している間にも、緊急の事態はどんどんと進行していく。
手裏剣を防がれて怒ったのだろう。忍び装束を着た男たち三人が「おのれッ!」と叫びながら庭の物陰から飛び出して来た。
また、いつの間に屋敷内に入り込んでいたのか、定明の背後の襖障子がガラリと突然開き、四人の忍びが現れた。
合わせて七人。六角家の忍者たちが、一斉に定明に襲いかかる。
定明はペッと棒手裏剣を吐き捨てると、爆発した噴火山のごとき勢いで立ち上がった。
「彦太郎。妹の目を覆っていろ。今から、幼い娘にはちょっと過激なことになる」
そう言った直後、定明は両手の指に挟んでいた二本の棒手裏剣を無造作に投げた。正面から迫り来る三人の忍びのうち二人が、額に手裏剣が突き刺さってどうっと斃れる。
次の瞬間、後方の忍びの一人が、定明の背中めがけて長脇差の強烈な突きを放ってきた。
殺気でそれを察した定明は、振り向くこともなく軽く身をひねらせてかわし、忍びの顔に肘打ちを喰らわせる。顔面の骨が粉々になったその忍びは、数間後ろへと吹っ飛び、台所の竈に頭を打ち付けて絶命した。
「こ、こいつ!」
正面の一人、背後の三人が怒り狂い、刃を煌めかせながら突いてくる。しかし、定明は巨体とは思えぬほどの軽やかな身のこなしで、ひょいひょいひょいと回避していく。殺し合いがよほど楽しいのか、満面の笑みを浮かべながら「アハハハハハハハハハ‼」と大爆笑しているのが何とも不気味だった。
「ば……馬鹿にしおって! わ、笑うな!」
「あ~…………。お前ら、弱いからちょっと飽きてきたわ。もういいや、死ね」
戦闘狂の定明も、力量の差がありすぎると興ざめしてしまうのだろう。遊戯はもう終わりだとばかりに、電光石火の早業で手刀を乱舞させた。瞬く間に、忍び四人は口から血反吐を吐きながら四方八方へと吹っ飛んだ。
二人は、首の骨をへし折られて即死。
庭に転落した忍びは、片目が飛び出てしまい、悶え苦しんでいる。
最後の一人は、真上に吹っ飛ばされ、天井に頭から突っ込んでしまった。下半身をピクリとも動かしておらず、生きているのか死んでいるのか分からない。
「な、な、な……。なんてことをするのですか! 我が家が滅茶苦茶ではありませんか! 第一、六角様の家来であるうちの屋敷で六角家の忍びを惨殺しないでください! 六角様にどう言いわけをすればいいのです!」
彦太郎は霞の目を両手で覆ったまま(母の小夜は霞の両耳を塞いでいる)、猛然と抗議をした。
あまりにも凄まじい殺人の光景を目の当たりにして頭の中はだいぶ混乱していたが、「この後始末をどうつけてくれるのだ」と訴えねばならないと思い、勇を鼓して定明に食ってかかったのである。
しかし、当の定明はけろりとしたものである。「別にそんなことを心配する必要はないぞ」とニコニコ笑いながら言った。
「は……? ど、どういう意味です?」
「だって、そなたたち家族は、今から俺に連れられて美濃に引っ越すのだもの。六角家の息がかかった人間を何人ぶっ殺そうが、彦太郎たちには何の関係もない」
「え? え? み……美濃に引っ越す? そんなことをいきなり言われても――って、うわわ⁉」
困惑の表情を浮かべる彦太郎に構わず、定明は少年をひょいと片手で持ち上げた。そして、妹の霞ももう片方の手で軽々と抱き上げる。
「わ、我が家は二代前に美濃を追われたのです。今さら美濃国に帰還するなど、考えてもいませんでした。そ、それに、我らには六角様から受けた恩が――」
「あーはいはい。そういう細かな話は、俺の父にしてくれ。俺、人の話を聞くの苦手だから」
「えええーーーっ⁉ ちょっと……ちょっと! これって人さらいですよ⁉ 有無も言わさず拉致するのはやめてください! 京都から離れた美濃になんか行きたくありませんよ! 私には幕府の奉公衆になるという夢が――」
「だ~か~ら~! そういう話は、美濃に行ってから父上に話してくれってば。じゃあ、出発! 小夜殿もついて来てくだされよぉ~!」
定明はワハハハと豪快に笑うと、庭に下りて草鞋を履く。失った片方の目玉を探して這いずり回っていた忍びの頭をぐしゃっと踏みつぶすと、鼻唄を歌いながら明智屋敷を出た。
彦太郎は定明の肩の上で喚き、霞はわけが分からず呆然としている。母の小夜は周章狼狽しながらさらわれていく子供たちを追いかけた。
「ま……待ってぇーーー! ……だ、誰か助けてください! 人さらいです! う、うちの子たちがぁ~!」
明智未亡人の悲痛な声は佐目村中に響き渡り、畑仕事をしていた農民たちや法蔵寺の僧侶たちがすぐにわらわらと駆けつけた。彦太郎を訪ねようと明智屋敷に偶然向かっていた最中の多賀新左衛門と久徳六左衛門まで現れ、
「なんだ、なんだ⁉」
「人さらいだぁー! あの大男を捕まえろーッ!」
「彦太郎殿たちをどこへ連れていくつもりだ!」
口々に喚きながら、二、三十人が定明に襲いかかった。
彦太郎は「駄目だ、みんな! 怪我をするぞ!」と止めたが、佐目村の人々も同郷の人間が誘拐されようとしているのだからやめるはずがない。
「さ……定明殿! この人たちは私の家族なんだ! 殺さないでくれ!」
「そうか、分かった。俺も弱い者虐めは好きじゃないからな。なるべく半殺しにしよう」
そう言うと、定明は彦太郎と霞をいったん下に降ろし、佐目村の人々を適当にあしらい始めた。
「ポイ、ポイのポーイっと」
「うわぁぁぁぁぁぁ⁉」
「ひょぇーーーーっ⁉」
定明は、真っ先に飛びかかって来た新左衛門の頭を右手でガシッと鷲掴みにし、行く手を塞いでいる六左衛門や農民たちめがけてポイッと放り投げた。
その直後、威勢のいい本願寺の若い僧が後ろから殴りかかって来たため、それも左手でとらえてブン投げた。その若い僧はかなりの肥満体だったが、高々と吹っ飛ばされた後に落下し、後ろから追いかけて来ていた胤善や他の僧侶たちを押し潰した。
その後も定明は、農民や坊主たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、新左衛門と六左衛門に至っては三回も放り投げられ、最終的に頭を打って気絶してしまった。
「な……何ていう怪物……」
彦太郎と小夜はただただ唖然とするしかない。霞もぽかぁ~んと小さな口を開け、村人や僧侶たちが投げられて空中を舞っている光景を眺めている。
やがて、全員が立ち上がれなくなり、定明に挑みかかる者はいなくなった。
「……う~ん。誰も死んでないな? ちゃんと息しているな? よし、よし」
誰も殺さないという彦太郎との約束をいちおうは守ってくれたらしい。定明は村の人々の無事(?)をざっと確認すると、彦太郎と霞をまた抱き上げた。
「さあ、小夜殿。また六角の忍びたちが襲って来る前に、近江国を出よう。大丈夫、大丈夫。俺の父上がそなたたち家族を悪いようにはしないから」
「は……はい……」
逆らう気力を完全に失った小夜は、一度だけ振り返り、亡き夫と過ごした思い出深い明智屋敷をしばし見つめると、黙って定明の後について行った。
かくして、彦太郎は、わけの分からぬまま生まれ育った佐目村を去り、美濃国に向かったのである。
「……『春秋左氏伝』、一行も読むことができなかったなぁ」
屋敷に置いてきてしまった書物のことをふと思い出し、彦太郎は定明の肩の上でそう呟いていた。
運命に流され続ける明智光秀の物語は、こうして始まったのである。
※次回の更新は、7月26日(日)午後8時の予定です。




