京都の荒廃
平手政秀が主君・信秀の名代として上洛したのは、その年の五月のことである。
この時のことが、宮中の女房たちが当番制で書き継いだ『御湯殿上日記』という宮廷日誌に記録されている。この日誌によると、
「(織田信秀は)十万疋(一千貫文)進上申すよし」
とある。少し遅れて朝廷に献金した今川義元が五万疋(五百貫文)だったので、尾張下半国の代官に過ぎない武将が駿河・遠江二か国の大大名よりも二倍の金額を出したということになる。この大金は仲介人である室町幕府を通して、朝廷の手元に入った。
しかし、不思議なことだが、信秀の献金について記録した別の一次史料によると、その金額に食い違いが生じている。
「尾張の織田弾正という者が、御所の修理費を献上した。その金額は四千貫文にものぼるという。これが事実ならば、本当にたいしたものだ」
と、奈良興福寺の多門院英俊という僧侶が日記に書き記しているのだ。
朝廷側の記録では一千貫文とあるのに、なぜかその四倍の額を献金したことになっている。京都の噂話が大げさに奈良に伝わったのだとしても、ちょっと金額が多すぎるだろう。日記にこの噂を書き残した英俊も「これが事実ならば……」と少し懐疑的になっているぐらいだ。
これだけ噂が大げさになったのは、尾張守護の又家来に過ぎない人物が足利一門の大大名を大きく上回る金額を朝廷に献上したことが、それだけ当時の人々を驚かせたのかも知れない。
「尾張の信秀という男は、天晴れな豪気者よ」
という好意的な評判が噂を大げさにさせたのだろう。
逆に言えば、信秀と比べられて悔しい思いをしたのは今川義元だった。
現状、西三河を侵しつつある信秀に対して、義元は東の北条氏が気になって有効な手段を打てていない。今川軍が東三河に本格的に進出できるのはこの三年後のことで、目障りな尾張の成り上がり者が京都やその周辺国で今川を凌ぐ財力を誇示したことに焦りを感じ、同時に、
「もはや、奴を尾張の田舎の小身者とは見ない。信秀という男は、この義元が倒すべき好敵手だ」
と、信秀に対する認識を改めていたであろう。
* * *
さて、使者として京都入りした政秀のことである。
織田弾正忠家で平手政秀ほど朝廷工作に適した家来はいない。敵との和平交渉の際に、平安朝の歌人が詠んだ古歌を書き添えた手紙を相手に送るなど、人の心を巧みにとらえる風流心を備えているのが政秀という老臣であった。京都滞在中に交流を持った公家たちは政秀の和歌への造詣の深さ、所作の美しさ、当意即妙な受け答えの見事さに驚き、
「元は武士で、出家して流浪の歌人となった西行も、このような人物だったのではないか」
と感じ入ったほどであった。
政秀の評判が上がることは、主君である信秀の名声がさらに高まることに繋がる。このような風流人を家来にしている信秀ならば、これからも朝廷の力になって欲しいと好意的に見る公家たちは多かった。
政秀は後奈良天皇から天盃(天皇から授かる盃のこと)と太刀を賜り、信秀の朝廷工作は大成功に終わったのである。
「お役目も無事に果たしたことですし、ゆっくりと京都見物でもしましょう。……と言いたいところですが、この荒れ果てようでは無理ですなぁ」
京都を去る予定の三日前。政秀の護衛のために共に上洛していた青山与三右衛門は、荒廃しきった京の町を見回し、長嘆息していた。
歴史ある寺社の多くは塀が崩れかけていて、戦火で失ったお堂や祠を再建できずにいる。町の人々も粗末なあばら屋に住んでいて、家を失って野晒しの生活をしている者もたくさんいた。
そして、冷たい雨が降る中をしばらく歩いていると、廃寺の敷地内に十数人の孤児たちを見かけた。京は盗賊が出て治安が悪いと聞く。身を守る術がないか弱き孤児たちは、ああやって固まっているのだろう。
孤児たちの目に生気はなく、無気力に曇天を見上げ、天から降り注ぐ小雨を飲んでいた。もう何日も食事をしていないのだろう。彼らの中の何人が生き残れるだろうか……。
「話に聞いていた以上に酷いな。このようなありさまになる原因をつくった管領様の評判が最悪なのも頷ける」
政秀は天を仰ぎ、「幕府の実権を握る者が天道に背いた結果がこれか……」と嘆いた。
現管領の細川晴元は、かつて将軍の足利義晴と対立し、堺で義晴の異母兄弟・義維(十四代将軍・足利義栄の父)を擁立していた。将軍義晴を担ぎ上げていたのが、晴元の亡き父・澄元を政争で破った同族の細川高国(その当時の管領)だったからである。
晴元は、同じく高国を父の仇として憎む三好元長(三好長慶の父)という猛将を従え、高国を撃破。切腹させることに成功した。
しかし、軽薄な性格の晴元は、ここで擁立していた足利義維と部下の三好元長を裏切ったのである。
「細川本家(細川京兆家)の家督と管領の座を掠め取っていた高国は消えた。俺は、自分が管領にさえなれたら、将軍なんて誰でもいい」
と言い出し、つい先日まで対立していた将軍義晴と和解したのだ。主君に裏切られて激怒した三好元長は、晴元側の武将を攻撃した。
これまで元長の武力に頼りっきりだった晴元には、元長を撃退する実力などない。このままではやられてしまう、と焦った晴元はとんでもない奥の手を使ったのである。
京都の山科を本拠地にしていた本願寺に、
「一向一揆を起こして、元長を討ってくれ。元長は、本願寺と対立している法華宗(日蓮宗)の信者だ。法敵を倒すよい機会ではないか。やってくれるであろう?」
と、要請したのだ。
本願寺は、元々は比叡山延暦寺にたびたび迫害されていた弱小教団だった。しかし、第八世法主・蓮如の時代に、細川管領家の庇護のもと巨大な教団へと急激に成長していたのである。
晴元は、本願寺の教えのもと集う門徒たちを兵士として利用することにしたのだ。つまり、武家同士の争いに宗教勢力を介入させたのである。
蓮如のひ孫にあたる第十代法主・本願寺証如は、晴元の要請に応じて一向一揆を蜂起させた。決起した一向一揆の数は十万とも二十万とも言われ、その雲霞のごとき大軍勢は三好元長の軍を背後から強襲した。
元長は衆寡敵せず破れ、自害。あまりにも卑怯なやり方で滅ぼされるのがよほど無念だったのか、元長は切り裂いた腹から臓物を取り出すと天井に投げつけ、果てたという。
邪魔だった元長は消えた。しかし、その後が問題だったのである。十万(または二十万)の軍勢は正規軍ではない。統制がとれない民衆たちである。この一向一揆軍は、すぐに法主である証如ですらコントロールできなくなり、大暴走を開始したのだ。
一向一揆軍は奈良興福寺の伽藍を焼き払い、春日神社も襲撃。さらに摂津や河内、和泉の国々でも暴れ回った。畿内一帯は一向一揆の炎で破壊され、その恐怖の軍勢はとうとう京都へと迫ったのである。
予想外の事態に狼狽した晴元は、またもや別の宗教勢力を利用して京都を守ることを考えた。それは、京都の町衆の中に信者が多かった日蓮宗である。
応仁の乱以来、京都は市内で戦争があるたびに兵たちによる乱暴狼藉の危機にさらされ、治安は乱れに乱れていた。そんな京の町の治安を維持するべく、日蓮宗の信者の町衆たちが自衛団をつくっていたのである。堺にいた晴元は、彼らの防衛能力をあてにして、日蓮宗の各寺に「京の守備のため、信者たちを出陣させよ」と通達した。
「自分たちの町は、自分たちで守れ」
ということだった。無責任この上ない。
かくして、日蓮宗の信者である町衆たちは京都防衛のために決起したのである。法華一揆の始まりだった。
法華一揆は一向一揆と激突し、撃退することに成功。勢いに乗り、山科本願寺のお堂や門徒たちの家々をことごとく焼き払った。やむなく本願寺証如は、大坂の石山御坊に拠点を移した。
京都を守りきった法華一揆は、晴元が本願寺と和議を結んだ後も京都の警固を続けた。しかし、一向一揆の脅威が去った今、晴元にとって今度は法華一揆が邪魔な存在になりつつあったのである。
日蓮宗の信者たちは、幕府の許可もないのに、一向一揆側の密偵と疑った僧侶を容赦なく殺すなど残虐性を見せ始めていた。また、
「我々は京都を警固しているのだから、地子銭(固定資産税)を免除してくれ」
と幕府に要求してきたのである。こいつらはもう目障りだ、と晴元は感じた。
そんな時に、日蓮宗の信者が辻説法中だった比叡山延暦寺の僧を宗教問答で論破するという事件が起き、激怒した延暦寺は幕府に訴え出た。
「ちょうどよい。比叡山を煽って、法華一揆と争わせよう」
晴元は、どうやらそんな姦計を思いついたらしく、わざと延暦寺に不利な裁定を出させた。
こうなると、「恐ろしき山」と蓮如に評された比叡山延暦寺である。もう後には退けない。近江の守護大名・六角氏を誘い、およそ六万の軍勢で京都の法華一揆を攻撃したのである。
延暦寺と六角氏の軍勢は、日蓮宗の信者たちを数千から一万人殺戮し、京の町に火を放った。
仏に仕える僧兵たちによって放たれた地獄の業火は、日蓮宗と無関係の人々も焼き尽くし、下京(京都の南側)は全焼、御所がある上京(京都の北側)も三分の一が焼けてしまった。これは、応仁の乱をすら上回る戦火であったという。
法華一揆の殲滅を見届けた晴元は、「これで安心して上洛できる」と判断して焼け野原となった京都に入った。そして、近江坂本に逃れていた将軍義晴も京に迎え入れたのである。
一向一揆、法華一揆、延暦寺と宗教勢力の仁義なき争いが終結した後、残ったのは戦乱で荒れ果てた京都とその周辺の国々だった。
畿内は、室町幕府の支配地域である。目先の利益にしか気づけない晴元は、「宗教勢力を利用して上手く勝ち残り、管領になれた」と思っているだろう。しかし、彼がやったのは、いたずらに幕府の支配地域を荒廃させたことであった。
「天の道を外れた者は、やがて天罰が下る。管領・細川晴元様の権力も長くは続かないであろうな」
平手政秀はそう言うと、路上で餓死した子供の遺体の前で手を合わせ、その少年の冥福を祈った。
青山与三右衛門もそれにならい、念仏を唱える。吉法師と同じ年齢ぐらいの少年だったため、無視して歩き去ることができなかったのだ。
「それにしても、信仰とは一歩間違えるとこのような悲劇を生むものなのでしょうか。おのが信仰のため、法敵を滅ぼすため、関係のない民衆がこんな犠牲になるだなんて……」
「他人事では済まされんぞ、与三右衛門。我らの領地の西にも一向宗(本願寺)の勢力があるのだ。もしも本願寺と対立するようなことになったら、我らとて……」
政秀はそう言うと西の方角――本願寺の本拠地がある大坂――を睨み、
「さて……。尾張に帰国する前に、会いに行ってみるか。本願寺の法主・証如に」
と、呟くのであった。




