聖なる者の孤高
織田軍が六角の憂いの種である斎藤利政を討つ。その代わり、定頼は織田が危機に陥った場合、将軍家を動かして信秀を救う――これが、六角と織田が交わした盟約である。
盟約が成立したその晩、織田の一行は、観音寺城の城主館で定頼に丁重にもてなされ、信長は生まれて初めて鮒ずしを食した。
湖水(琵琶湖)でとれた鮒で作ったいわゆる発酵食だが、その独特な臭いに驚きつつも「珍味なり」と信長は喜んだ。従兄弟の信清は激しく眉をひそめていたようだが……。
酔っ払った定頼は「余興に良い物を見せて進ぜよう」と言い、近江国友村で製造させた南蛮鉄砲を近習に持って来させた。
まさかここで南蛮渡来の鉄砲と出会えるとは思ってもいなかった信長は、
「おお! これが、種子島(南蛮鉄砲の別名)!」
と、思わず叫んでしまっていた。
信長があまりにも興奮して喜ぶので、定頼はニコニコ笑いながら「新しき物に強く惹かれる好奇心は、若者の特権じゃ。そんなにもこれが物珍しいのならば、貴殿にくれてやろう。儂の倅は弓矢に夢中じゃからな」と言い、鉄砲を信長に渡すよう近習に命じた。
近習から鉄砲を受け取った信長は、その鉄の塊の重みを両の手のひらにずしりと感じる。
「……まことによろしいのですか?」
まさかくれるとは思っていなかった。嬉しいが、異国から伝わった珍しい武器をこんな簡単にもらっていいものやら……。信長は、遠慮がちにそうたずねた。
「よいよい。儂も一度試し撃ちしたが、雷鳴のごとき音であったよ。威力も凄まじい。この武器から城を守るには、大きな石を積み上げた頑丈な垣を築く必要がありそうじゃ。お若い将軍様が申されていた通り、これは新しき戦の主役となる武器やも知れぬ。
……されど、老い先短い儂がその『新しき戦』というものを見ることはないであろう。それは、そなたのような若者が持っているべきものじゃ。よく研究し、使いこなせるようになるがよい。織田家の経済力ならば、あと数年もしたら南蛮鉄砲を大量に購入することができるようになるであろう」
「ありがとうございます。大切にいたします」
信長は深々とお辞儀をして、心から礼を言った。
「武器は道具、使い潰すものじゃ。大事にしていても仕方がない。壊れるまで使いに使って存分に役立てよ」
「仰せの通りです。必ずやこの南蛮鉄砲を使いこなしてみせます」
鉄砲をもらえて嬉しい信長は、目を輝かせながら三尺あまりの長さの新兵器をじっと見つめている。
「うむうむ。良き心がけじゃ。……ところで。その鉄砲を種子島に伝えた南蛮人たちのことなのだが――伝え聞いた話によると、牟良叔舎、喜利志多佗孟太などと不思議な名前を名乗っておったそうな。容貌も鼻が天狗のように高くて奇怪であったという。その者たちは、想像を絶するほど遠いとおい海の彼方からやって来たそうだ」
「遥か海の彼方から……。何故、彼らはそんな危険を冒してまでいくつもの海を越えて来たのでしょう」
「その目的は、儂にも分からぬ。されど、このような火薬の兵器を持っていたのだ。殺傷力の強い武器を必要とするほどの大きな戦乱が南蛮人どもの国では続いているのか、他の国の民たちを侵略している恐ろしい人種なのやも知れぬ」
「かつて日本に襲来した蒙古人のように、ということですか?」
「さあ……どうかのぉ……。まあ、ジジイの儂が遠い海の彼方からやって来たという天狗どもの顔を見ることはあるまいがな。儂が気がかりに思うのは、我が国の者とそやつらの交流がだんだん深まっていく十年先、二十年先のことじゃ。信長殿や義賢が家督を継いだ頃には、おぬしたちがその南蛮人どもと交易するようになる未来もあり得るじゃろう」
「面白そうではありませぬか。ぜひ、その天狗顔の者たちと会って異国の話を聞いてみたいです」
「……南蛮人に興味を持つのはよいが、奴らの得体が知れるまでは、よくよく考えて慎重に付き合ったほうがいいやも知れぬぞ。南蛮人どもは、この凄まじき鉄砲を我が国に伝えた。奴らは何を考え、こんな恐ろしい物を船に積み、世界の海を泳ぎ回っているのやら……」
定頼は、鉄砲を伝えた南蛮人に何かしら思うところがあるらしく、急に真面目な表情を作って意味ありげにそんなことを呟いた。
定頼が何を懸念しているのか分からない信長は、「はぁ……」と曖昧に受け答えすることしかできない。定頼本人も、自分が何を心配しているのかを上手く言い表せないようで、酔っぱらって真っ赤になった顔を傾げながら黙り込んでしまった。
信長がイエズス会宣教師ルイス・フロイスと京都で出会い、彼の口から世界の広大さを知るのは二十一年も先のこと。ましてや、今の時点の少年信長が、ポルトガルとスペインがトルデシリャス条約で世界を分割して世界征服事業に邁進し、宣教師たちがその先鞭となっていることなど知るはずもない。
信長が定頼の懸念の正体を知るのは、織田家による天下統一が見えてきたずっと後年のことである。
* * *
翌日、信長たちは観音寺城を辞去した。
名残惜しそうにしていたのは、信長を弟分扱いしている義賢である。
「もう行ってしまうのか。あと二、三日ゆっくりしていけばいいのに。……そうだ、近江の国境まで送ってやろう。また蝮の刺客に狙われるやも知れぬからな」
「いえ、そこまでしていただくのは申し訳ないので……」
「遠慮するな。いや、遠慮などさせぬ。したら怒るぞ」
城門前で信長の袂をつかんで引き止めていた義賢がそんな我がままを言うと、定頼が「義賢、信長殿たちのことなら心配いらぬ」と息子に声をかけた。
「春殿と信長殿たちの護衛は、伊賀と甲賀の忍びたちにやらせる。おぬしは今すぐに旅の支度をし、儂の供をいたせ」
「供ですと? 父上はまた城を留守になされるのですか?」
「坂本に御座す将軍様の元に出仕せねばならぬ。近日中に将軍様が京にご帰還あそばすゆえ、六角軍も将軍ご一行に供奉いたす。その打ち合わせを兼ねて、ごあいさつに行くのじゃ」
「はぁ~……。どうせ、京では帰洛の祝いの能が長々と催されるのであろうな……。やれやれ、堅苦しいことは嫌いなのだがなぁ~」
義賢はげんなりとした顔でため息をついた。気性の荒い彼は、将軍様と能を鑑賞するよりも、弓矢の鍛錬をしているほうがよほど好きなのである。
一方、六角父子の会話を聞いていた信長は、政秀と顔を見合わせ、このことは帰国したら父上に報告せねばなるまいと考えていた。
近江に避難していた将軍の義藤が京都に戻るということは、京の周辺国の情勢もしばらくは安定するはずである。
(父上が美濃へ兵を動かすのは、将軍様の京の周辺国統治が安定している時期のほうが好ましい。万が一、今川義元が出陣中の織田の背後を襲った場合、幕府に講和の仲介をしてもらいやすいからな……)
恐らく、定頼は将軍帰洛の情報を信秀の耳に入れるために、わざと信長たちの前でそんな話をしたのだろう。「知れば知るほど勝利に近づく」と情報収集の重要さを説く定頼なりの餞別である。
「定頼様からは多くの訓えを受けました。この信長、定頼様のお言葉を一つ一つ噛み締め、立派な大将になれるよう精進いたします」
鉄砲を背に負った信長が、丁寧にお辞儀をしてそうあいさつした。定頼は顎髭を撫でながら「うむ、うむ」と機嫌良さそうに頷く。
「……最後にもう一つ、教えて頂きたいことがあるのです。よろしいでしょうか」
「ん? 何じゃ?」
「旅の途中で、義賢様からうかがいました。定頼様は日頃より『国を治める者は、聖なる存在であらねばならぬ』と仰られているとのこと。この言葉には、どういう意が込められているのでしょうか」
信長がそう言うと、定頼は苦笑しながら「義賢め、困ったお喋りじゃわい。それは、『天下を背負う者』としての心構えを六角家の嫡男にだけに伝えようとした言葉であったのだが……」と呟く。
教えてもらえないのかと思って信長が不安そうな顔をすると、定頼は「まあ……よいか」と頭を掻きながら言った。すっかり信長を気に入っている義賢だけでなく、若くて才気活発なこの尾張の少年に入れ込む気持ちが定頼にも芽生えつつあったのである。
定頼は、息子の義賢の大将としての資質を買ってはいる。義賢ならば、父の死後、次の「天下を背負う者」となる将器が十分にあるだろう。
しかし、彼が乱れきった天下を正すことができるかどうかは、時の運次第である。もしも六角が武運拙く倒れれば、他の英雄が天下静謐を実現させねばならない。さもなくば、この国は永遠に戦乱の時代から脱け出せないだろう。
義賢が無理ならば、天下静謐を成し遂げるのはこの信長に違いない――長年にわたって培ってきた人物をみる彼の直感がそう囁き、定頼は己の持論である「天下を背負う者の心構え」を信長に伝えることにしたのであった。
「人の上に立つ者はな、神のごとく揺らぎなき存在であらねばならぬということじゃよ。家臣や領民にとって、主君と神は同義であるべきだ」
「主君と神は同義……ですか。それがしも牛頭天王のごとき強い武将になりたいと思っていますが、さすがに畏れ多くて己が神そのものであるとまでは考えたことがありませぬが……」
「儂は驕り高ぶっていると思うか?」
「い、いえ……」
「今は乱世じゃ。土地を守っている侍たちは、いつ敵の侵略を受けて領地を掠め取られるか分からぬ。また、農民たちはいつ人身売買のために敵兵にさらわれるかも分からん。まことにこの世は、一寸先が闇じゃ。
頼もしき大将とは、不安な日々を送っている家臣や領民たちを安心させられる揺るぎなき聖山のことだと儂は考えておる。近江の民たちに古代より信仰されておるこの繖山のごとき……な」
「揺るぎなき聖山……。そうか、なるほど。観音様が御座すこの聖なる山に定頼様が居城を置いている理由は、神と定頼様を同一視させることで、戦の毎日で不安定になりがちな民心を落ち着かせる目的があったのですね」
「そうじゃ。そして、聖なる存在……神とは、救いを求める民衆には海よりも深き慈悲を与え、己を信じる者たちを害する敵には峻烈なる罰をたちまち下すものだ。どれだけの数の人間を地獄に落とそうとも、神の行いに何の躊躇もあるはずがない。
……故に、家臣領民たちの神たらんと欲する儂は、かつて畿内で起きた一向宗の動乱が我が領内に波及する前に山科本願寺を燃やした。そして、京の都を牛耳った法華衆徒たちが天下の政道を乱しきる前に彼らを殺し尽くした。
あまりにも惨く、躊躇われる決断であったが……。儂は家臣たちに苦悩する姿を一切見せておらぬ。我が行いこそ天道に適う正義なりと己に言い聞かせ、眉一つ動かさず寺を焼いた。坊主どもを殺した。兵たちが法華衆徒もろとも京の町をおおかた燃やしてしまっても、儂は燃える町を傲然と見下ろしていた」
定頼はだんだんと厳しい顔つきなっていき、信長もつられて緊張した面持ちでゴクリと唾を呑み込んだ。
「一度たりとも、ですか。側近の者たちにすら、おのが苦しみを吐露されなかったと? それはあまりにも苦しく、孤独な……」
家来や民衆を救う聖なる存在であらんとすれば、そこまで孤高であらねばならないというのだろうか? 恋人の楓、信勝や信清といった同世代の同族、共に育った乳兄弟の池田恒興。彼らにも己の心の内を全てさらけ出してはならないと……?
「それが、天下を背負う者の覚悟というものだ。孤独を恐れていては、守るべきものを守ることなどできぬ。
……なあ、信長殿。よく考えてみよ。
聖なる山に城を築いて千手観音の力を取り込んでいるはずのこの儂が、揺らぐ姿を家臣たちにさらしてしまったらどうなると思う?
ほんの少しでも我が迷いを見せれば、『ああ、定頼様もやはり人。我らが崇めていたお方は聖なる存在などではなかったのだ。神のごとく頼もしい御大将だと思っていたのに……』と下の者たちは失望し、動揺するのは火を見るよりも明らかじゃ。たちまち人心は離れ、聖性を失った『頼りなき大将』の儂を見放すであろう。
それゆえ、内心はどうであれ、人々の命を背負っている大将が揺らいではならぬのだ。神のごとく頼もしい主君であってこそ、武士たちは命をなげうって忠義を尽くせる。領民たちは安心して日々の農作業に勤しめる……。大将が犯してはならぬ最大の過ちは、揺らぐことよ」
そこまで一気に語り終えると、定頼は天を仰ぎながら「揺らぐなかれ、揺らぐなかれ。揺らぐことなく真っ直ぐ天の道を翔る英雄こそ、天下万民を救う聖者ぞ!」と吠えた。
信長は定頼の強い覇気に驚き、この人は我が父と同等かそれ以上の英傑やも知れぬと初めて思った。六角定頼にこれほどまでの燃えるような救民済世の志があるとは知らなかった。
「定頼様、あなたは真の英雄です。感服いたしました。父の次にあなたのことを尊敬したいと思います」
「……そんなお世辞は言わずともよい、信長殿。そなたも牛頭天王のごとき強い武将を目指すのならば、けっして揺らいではならぬぞ。揺らいだ時、足元をすくおうとする者が必ず現れるものじゃ」
柄にもなく熱っぽく語りすぎたせいか、老齢の定頼はふぅ……と肩で息をしている。
信長はいくたびも礼を言った後、観音寺城を去った。そして、中山道を行きながら、定頼の言葉を何度も反芻するのであった。
「揺らぐなかれ、揺らぐなかれ。揺らぐことなく真っ直ぐ天の道を翔る英雄こそ、天下万民を救う聖者ぞ……」
※次回の更新は、7月12日(日)午後8時の予定です。




