六角の弓・前編
「あんた、蜂須賀小六じゃないの!」
黒い布で隠していた大男の素顔が暴かれると、くらが素っ頓狂な声を上げた。
くらと顔見知りらしいその男――蜂須賀小六も、彼女の存在に気づいて狼狽えているようである。左腕で顔を覆いながら、「し、重長兄者の奥方が織田の一行に加わっているなど聞いておらんぞ……」と小声で呟いていた。
「今さら顔を隠そうとしても無駄よ、小六! 顔を見せなさい!」
「う、うぐぐ……。くら殿、お久しゅうござる」
くらに怒鳴られると、小六は観念して顔を見せた。くらに対して苦手意識があるのか、額にはじっとりと汗がにじんでいる。
「姉上。この者のことをご存知なのですか?」
信長は刀を構えて警戒したまま、異母姉にそうたずねた。
くらは顎をしゃくり、「あいつは私の夫の従弟で、蜂須賀小六利政(後に正勝と改名)よ」とぶっきらぼうに答える。夫の親戚筋の人間が自分たちを襲ったことに腹を立てているようだ。
「く……くら殿。『利政』と呼ばないでくだされ。俺は、その名は嫌いなのです」
「美濃の蝮と同じ諱だからかしら? あんたの父親の正利殿が斎藤利政(道三)と気脈を通じているという噂を小耳に挟んだことがあったけれど、どうやら本当だったようね。蝮の密命を受けて、私たちを襲ったのでしょう⁉ よくもまあ自分の従兄の妻を襲撃できたものね!」
「あ……あなたが信秀の妻の多賀参りに同行しているとは聞かされていなかったのです。そ、それに、俺はこんな卑劣なやり方は嫌だったが、父に『やれ』と命じられたら拒むことなどできませぬ……」
小六も内心は忸怩たる思いがあったのか、苦しげな表情でそう言い訳した。
前にも書いたが、小六の父である蜂須賀正利(尾張海東郡の国人)は美濃の斎藤利政と内通し、尾張国の情報を利政に漏らしていた。利政はどういうわけか正利の長男の小六をいたく気に入り、自分の諱「利政」を小六に授けていた。
義侠の心を胸に秘める小六としては、斎藤利政のような義理も人情も持ち合わせていない梟雄の「お気に入り」になっている現状は、非常に気色が悪く嫌である。
また、小六の母親は津島の有力豪族・大橋氏の出で、小六自身は大橋清兵衛重長とは従兄弟同士の関係だった。重長の妻であるくらとも義理の従姉弟ということになり、織田弾正忠家とは多少の縁があった。
嫌いでも斎藤利政から恩を受けているのは事実だし、引き受けた任務を最後まで遂行するのが侍の道だ。しかし、蜂須賀家と縁のある人々を卑怯なやり方で殺めるのは心苦しい……。小六はそう考え、苦悩していた。
「蝮……こほん、斎藤利政様からは『全員殺せ』と命じられているが、できることなら重長兄者の奥方に刃を向けるようなことはしたくない。大人しく尾張に引き返してくれたら、くら殿に免じてこれ以上の危害は加えぬ。だから……どうかこのまま逃げてくれ」
「はぁ~? 何寝ぼけたことを言っているのよ。小六、あんたが引き下がりなさい!」
勝ち気な性格のくらは、小六の脛を思いきり蹴ってやろうと前に出ようとした。それをそばにいた平手政秀が慌てて止めた。小六にそのつもりが無くても、小六の部下たちが斬りかかってきたら危険である。
「尾張人同士で殺し合うこともあるまい。織田の方々よ、頼むから逃げてくれ。……逃げなければ、斬らねばならぬ」
「ハッ。尾張の国人でありながら敵国と内通している人間の息子が、それを言うか。笑止千万だな」
小六の逃げろという勧告を語気鋭く一蹴すると、信長は刃の切っ先を小六に突きつけた。
ここで逃げれば、斎藤利政の思う壺である。是が非でも押し通らねばならない、と信長は覚悟を決めていたのだった。
「敵を斬るか否か迷うぐらいなら、のこのこと出てくるな、馬鹿者。中途半端な覚悟で刀を抜けば、自滅あるのみじゃ。おぬしこそ、俺に斬り捨てられる前にとっとと失せろ」
「…………くら殿のことを姉と呼んでいたが、あなたが織田三郎信長か」
小六は、信長に声をかけられた途端、体中から汗をどっと噴き出していた。刀の柄を握る手は汗まみれである。
まだ十五歳ぐらいだという話だが、凄まじい気迫だ。この少年にひと睨みされただけで、目に見えぬ手で首を締めつけられているような精神的圧力を感じてしまう。信長が甲高い声を発するたびに、雷の矢が小六の心の臓を貫いていた。元服して間もないような年齢の若者がここまでの威厳を発しているのは異常である。
(さすがは尾張の虎の子供、恐るべき闘争心だ。「今すぐ逃げれば、危害は加えない」などと生温いことを言っていたら、こちらが斬殺されかねぬ)
小六はゴクリと唾を飲み込むと、戦う覚悟を決め、「退かぬのならば、仕方がない。死んでもらう」と言いながら刀を上段に構えた。
信長は小六の目に戦意の火が灯ったのを確認すると、ニッと笑う。
「よい面構えだ、蜂須賀小六。……平手の爺と堀場氏兼は、母上と姉上を守ってくれ。信清、参るぞ!」
そう叫んだ直後、信長はワッと小六に斬りかかった。
従兄弟の信清も「俺に指図するな!」と怒鳴りながら、小六率いる覆面集団に突撃していく。
「者共、包囲して信長たちを追いつめよ! ただし、くら殿だけは殺すな! 逃げていく者は見逃せ!」
* * *
六角義賢は、いまだに動こうとしない。丘の上から信長たちの戦いを見物していた。
「ほほーう。織田の侍たちもなかなかやるではないか。倍の数の敵に包囲されても、女たちを守りつつ善戦していやがる。
信長……といったか。あの若造、敵を呑み込まんばかりの闘志だ。あいつのおかげで、味方の侍たちの士気も高まっておるようだ」
義賢は、眼下で繰り広げられている剣戟を手に持っている弓で指し示し、信長の鬼気迫る戦いぶりを称賛した。
昨年初陣したばかりの信長が、それなりに戦場で場数を踏んでいると思われる蜂須賀小六を相手に互角に斬り結んでいる。それどころか、小六は信長の苛烈な打ち込みに時おり冷や汗をかいているようだった。
手下である覆面の男たちが小六に助太刀しようとすると、信長は「カァッ‼」と奇声に近い怒号で威嚇し、気迫だけで敵を退ける。声のみで相手の肝っ玉を潰すなど、歴戦の勇将でもなかなかできない芸当だろう。
「惚れ惚れする狂いっぷりじゃ。アレは気に入った。こんなところで死なせるには惜しい益荒男だ」
「ならば、今すぐに丘を駆け下り、加勢しましょう。暗殺者たちを従えているあの蜂須賀という男、用兵の心得があるようです。織田方の烈しい抵抗に手を焼きつつも、確実に包囲網を縮めつつあります。ぐずぐずしていると、信秀の子息は討たれるでしょう」
伊賀崎道順が、やや焦った口調でそう進言した。
この伊賀の中忍は、状況によっては雇い主をあっさり裏切って任務を放棄する上忍の藤林長門守とは違い、仕事第一主義の忍びである。六角定頼から与えられた「織田の一行を守る」という主命を万が一でもしくじれば、伊賀忍者の名折れだと考えていた。
「お前たちは勝手に行くがいい。俺は、ここから信長を助ける」
「このように離れた場所からどうやって……」
道順がそう言いかけると、義賢は「俺の弓の腕を忘れたのか?」と不敵な笑みを浮かべ、腰に尻高に着けていた空穂(腰に装着して持ち歩く矢入れ具)の間塞(蓋)を開いて矢を取り出し、素早く弓につがえた。
「たとえ敵味方入り乱れる乱戦でも、俺は『獲物』だけを狙い撃ちにすることができる」
「なるほど……承知しました。くれぐれも、戯れに我ら伊賀衆の背中に射かけないでくだされ」
道順は、普段から悪ふざけが多い六角家の若君に念のため釘を刺すと、手下の忍びたちを引き連れ、疾風の速さで丘を下っていった。
「道順め、いらぬ心配をしやがる。日置流と小笠原流の弓術を極めたこの俺が、遊びで味方を射るわけがなかろう。『六角義賢の弓の腕は、評判ほどではない』などという不当な噂が流れたら、困るからな」
義賢は独り言を呟きながらクックっと笑うと、弓を力強く引き絞った。
六角といえば、弓である。
後年のことになるが、六角軍と三好軍が白川口において戦った際、わずか三百の六角勢は矢を五月雨撃ちして松永久秀率いる三好勢一万を退けたとされる。
六角軍には天下無双の弓の遣い手である吉田一鷗(重政)がおり、義賢は天文年間に彼から日置流の秘術を伝授されていたのである。家臣たちも義賢を見習い、六角家には弓の名手がごろごろといた。
「この俺の矢から逃れられる者などこの世にはいない。『南無八幡大菩薩』と神に祈らずとも、我は百発百中だ。俺の弓の腕はすでに『神』の領域に達しているのだからな」
傲岸不遜にそう言い放つと、義賢は矢を放った。
飛矢は一筋の流星と化し、ビュゥゥゥと音を立てながら風を穿ちゆく。次の刹那には、義賢が狙い定めた獲物たちに襲いかかっていた――。
<六角義賢と日置流について>
六角義賢は天文年間に吉田一鷗から日置流の弓術を伝授されたと言われています(一鷗は一度拒否して朝倉家に数年逃げていたらしいけれど……)。
ただ、天文という年号は1532年~1555年とものすごく長く、はっきりとはいつ頃のことかは分からない……(^_^;)
たぶん義賢が六角家の当主だった頃の話なのかなぁ~とは思うのですが、物語的に新キャラの紹介が「天下無双の弓の遣い手の弟子である!(バーーーン!!)」と「天下無双の弓の遣い手の弟子になる予定である!(バーーーン!!)」では前者のほうがカッコイイので、この小説ではすでに日置流を身に着けている設定にしました( ̄▽ ̄)(←ぶっちゃけすぎ)
※6月~8月の更新について
そろそろ毎年挑戦している小説賞の時期なので、そちらのほうにも力を入れたい&コロナ云々で何かと忙しくなりそう……というわけで、6~7月は更新が滞ると思います(毎週3話更新だったのが、1~2話ぐらいになるかも……?)。8月は休載するかも知れません。
何かと暗いニュースが多いご時世ですが……。私の名月明というペンネームは「暗い夜道のような世の中を歩いている人々の心を、物語という月明かりで照らすことができる作家になりたい」という気持ちからつけたものです。だから、こういう時であっても……こういう時だからこそ物語を紡ぐ手を止めたくはないと思っています。これからも執筆活動をがんばっていきたいと考えていますので、応援よろしくお願いします!!m(__)m




