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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 五章 濃尾参州燃ゆ
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近江の六角氏・前編

 小豆坂あずきざか合戦後、織田と今川は互いの動きを警戒しつつ軍勢を引き上げた。


 信秀は安祥あんじょう城に数日留まり、三河国外に出た雪斎せっさいの軍が反転して来ないことを見定めると、


「俺は尾張に帰る。今川の動向に目を光らせ、警戒を怠るな」


 安祥城主の信広にそう厳命し、居城の古渡ふるわたり城に帰還した。


 越前国に使者としておもむいていた平手ひらて政秀まさひでが尾張国に舞い戻ったのは、それからさらに三日後の夕刻のことである。その時、信秀は叔父の玄蕃允げんばのじょう秀敏ひでとしと碁を打っている最中だった。


 勘十郎かんじゅうろう信勝のぶかつ(信長の同母弟)の案内で信秀の居室に通された政秀は、冷静沈着な彼らしくもなくひどく動揺しているように見えた。秀敏が政秀の顔を見るなり「どうしたのじゃ、政秀。汗でびしょびしょではないか」と驚いたほどである。


「よほど大慌てで馬を走らせて来たのじゃな。しゃべる前に、酒を一杯飲め。のどがカラカラじゃろう」


「は……はい……。ありがとうございます」


 飲兵衛のんべえ仲間の秀敏に酒を勧められ、政秀は手渡された大きな盃を一気に飲み干した。そして、「あともう一杯」と言いつつ、手酌てじゃくで立て続けに五杯飲む。数年前、その酒豪っぷりに呆れた本願寺ほんがんじ証如しょうにょに「平手政秀は大酒飲みだった」と日記に書き残されただけのことはあって、酒のことになるとけっこう意地汚い。


「もうそれぐらいにしておけ。べろんべろんに酔っ払ったら、俺がそなたの報告を聞けなくなって困る」


「は……ハハッ。申しわけありませぬ、信秀様」


「それで、政秀よ。首尾はどうであった。……よもや朝倉家は美濃に攻め込まぬと申したのではなかろうな」


 政秀の暗い表情を見て何となく嫌な予感がした信秀がそうたずねると、政秀は「今、朝倉家は戦どころではありませぬ」と険しい表情で答えた。


「越前は、同盟国の使者の対応も満足にできぬほど大騒ぎになっておりました。朝倉家の重臣がそれがしと面会してくれたのは、朝早くに一乗谷いちじょうだに城(朝倉家の居城)に到着したその日の深夜のことでした」


「何? 越前で何か異変があったというのか? ……まさか、いくさ奉行ぶぎょう宗滴そうてきのジジイがついにくたばったのではあるまいな⁉」


「いえ、宗滴殿ではなく、当主の孝景たかかげ殿がお亡くなりになられたようでして……」


 政秀は声を潜め、驚くべき情報を信秀に告げた。信秀は顔をくもらせ、「孝景殿が……か」と呟く。


「たしか孝景殿は五十代の半ばぐらいであったな。もう老境といっていい年齢だが、あまりにも突然すぎる……。人の世とははかないものよ」


「新当主の延景のぶかげ(後の朝倉義景(よしかげ))殿は、信長様とほぼ同年代の若者です。朝倉家としては、他国につけこまれないようにするため、国内が落ち着くまでは孝景様の死を伏せる意向とのこと。『盟約を結んでいる織田殿には特別に事実を伝えたが、しばらくの間は他言無用でお願いしたい』と朝倉家の重臣からは釘を刺されました」


「うむ……。このことは、『越前国をいずれは朝倉家から取り戻したい』と公言されている武衛ぶえい様(尾張守護・斯波しば義統よしむね。信秀の主君の主君)にも、今のところは黙っておこう。以前、武衛様は、本願寺を焚きつけて加賀の一向宗の門徒どもを越前に乱入させようとしたことがあったからな。

 ……だが、朝廷や幕府に代替わりの挨拶をせねばならぬゆえ、そう長くは伏せてはおけまい。美濃の斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)も遠からず孝景殿の死に気づくはずじゃ。まむしの奴め、織田と朝倉が美濃に攻め込むことができなくなったと知れば小躍りして喜ぶであろうな」


 忌々しい利政がゲラゲラと大笑いする姿を思い浮かべ、信秀はチッと舌打ちした。どこまで悪運の強い男なのだ、とはらわたが煮えくり返る思いである。


「う~む……。こうなったら、軍の立て直しを急ぎつつ、利政と敵対している美濃守護・土岐とき頼芸よりのり様の直臣じきしんたちと密かに連絡を取り合って美濃攻めの機会をうかがうしかないな。攻め込めるのは半年先か、一年先か分からぬが……」


「はい。おっしゃる通り、軍の立て直しを急ぐのが当面の急務かと存じまする」


 政秀が秀敏の言葉にうなずいてそう言うと、今まで三人の会話を黙って聞いていた信勝が「恐れながら……」と口を開いた。


「いくら軍を立て直して美濃に攻め込もうとしても、こたびのように義元に背後を突かれたら、我が軍は斎藤と今川を同時に相手にすることになりまする。そのような事態に陥れば、尾張は今度こそ破滅です。私は、どちらか一方とは和を結ぶべきだと思いまする」


「信勝。未熟なそなたが口を挟むようなことではない。出しゃばるな」


「も……申しわけありませぬ、父上……」


 信秀にピシャリと叱られた信勝は、恐懼きょうくした様子で頭を深々と下げて謝った。


 しかし、その殊勝な態度はただの演技である。もう何年も前から信長を蹴落とす計画を練っているこの少年の胸の内では、父や兄に対する面従めんじゅう腹背ふくはいの心が燃え上がっており、


(俺はもう子供ではないぞ、クソ親父。いくら叱られても、隙あらば出しゃばり、俺の頭脳が信長よりも勝っていることをクソ親父や家臣どもに見せつけてやる)


 などと企んでいた。


 信秀はそんな信勝の本性を見抜いていたわけではないが、嫡男の信長が初陣で敵の罠にはまって敗走した頃から、織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家の家督相続のことで頭を悩ませることが多くなっていた。


 信秀本人は、おのれの志を継ぐのは信長しかいない、と固く決めているのだが、


 ――信長様は戦下手やも知れぬ。信勝様のほうが次期当主にふさわしいのではないか?


 そう囁く織田家臣が、チラホラ増えてきているのだ。


 近頃は、はやし美作守みまさかのかみ(林秀貞(ひでさだ)の弟)や加藤かとう順盛よりもり熱田あつた港を支配する大長者・東加藤家の当主)が信勝に接近して親しく交流しているという噂も耳にしたことがある。


 信秀にとって、信勝も大事な息子の一人である。彼をないがしろにする気持ちは毛頭無い。

 しかし、信勝にあまり目立った行動をされると信長の世継ぎとしての立場が揺らぎかねないという危惧きぐがあった。だから、才気走った言動が近頃増えてきた信勝がまつりごとに口出ししようとすると、「黙っておれ」とつい叱ってしまうのである。


「まあまあ、信秀。そう叱ってやるな。信勝がおびえているではないか。

 ……それに、信勝が申すことにも一理ある。こたびの今川軍の突然の三河侵攻にはまことに肝を冷やした。前と後ろに敵を抱えてしまっている危険性をあらためて痛感したわい。斎藤軍と今川軍の挟み撃ちにあわぬように何か対策を講じる必要があるぞ。……政秀よ、何か良い策はないか?」


 酔っ払って顔が真っ赤な秀敏はそう言いながら、酒と菓子を飲み食いしている。菓子のカスをボロボロとこぼして、行儀の悪いじいさんである。


 政秀は、がぶがぶ酒を飲んでいる秀敏を羨ましそうに見つめながら「そうですな……」と一考した。


「……美濃・駿河の両国と泥沼の戦いになった場合、先ほど信勝様がおっしゃったように、どちらかとは和議を結ばねばならぬでしょう。武士たちのいさかいを諌めていくさを停止させるのは、天下の諸侍しょざむらい御主おんあるじである将軍様のお役目ですが……」


「将軍様に頼るのは、ちと難しいじゃろうな。現在、将軍父子は京都を退去して、近江の坂本(現在の滋賀県大津市)にて六角ろっかく氏の庇護下にあるらしい。六角氏は、先年の戦では美濃国に味方し、織田・朝倉の敵に回っておる。我々が和議の仲介を将軍様に願い出ようとしても、六角氏にはばまれるやも知れぬ……」


 秀敏の言う通り、将軍・足利あしかが義藤よしふじ(後の義輝よしてる)とその父・義晴よしはる(先代将軍)は、いま近江国の坂本にいる。


 将軍が天下のまつりごとの中心である京都にいないのには、色々と複雑な事情があった。実は、将軍父子は管領かんれい(将軍を補佐する幕臣の筆頭)の細川ほそかわ晴元はるもとと仲違いし、一時期は戦争状態に陥る寸前にまで至っていたのである。


 そんな折、将軍父子と管領の激突を未然に防ぐべく動いたのが、近江の守護・六角定頼(さだより)だった。

 定頼は将軍義藤の烏帽子えぼしおや(武家の男子が元服する際、烏帽子をかぶせる仮親かりおやのこと)をつとめ、細川晴元には娘を嫁がせている。どちらか一方を見捨てることができない立場にあり、両者が争い合っているのは彼としては迷惑極まりなかったのである。


 定頼は軍勢を差し向けて、細川晴元軍に合流。義藤と義晴が立て籠もる北白川きたしらかわ城を包囲し、将軍父子をかなり強引に説得して和議を成立させた。

 その際、将軍義藤が細川晴元を「許す」というかたちで、仲直りさせたようである。娘婿である晴元の肩を持ちつつも、将軍の面目も辛うじて保たせるという高等な外交手腕を定頼が発揮した結果だった。


 そして、和睦成立後、将軍の父・義晴にはまだ晴元に疑念を抱くところがあったようで、いったん京都から離れて六角氏の影響下にある近江坂本に将軍の御座所ござしょを置くことになった。これが昨年の七月のことである。


「将軍父子は、管領の細川様が頼りないせいで、近頃は六角定頼に頼り切っている。二年前には管領代かんれいだい(管領の職を代行する者)に任命されたと噂で聞いたが、定頼がほとんど管領と言っていいほどの権勢じゃ。将軍様の庇護者が六角である限り、我ら織田家はなかなか幕府に近づけぬであろうなぁ~……」


 秀敏が腕組みをしながら悩ましげにうなる。


 すると、「いいえ、秀敏大叔父上。それは違うと思います」と若々しい声が彼の言葉を強く否定した。さっき怒鳴られたばかりの信勝が、またもや身を乗り出して口出ししてきたのだ。


 信秀がキッと睨んだが、信勝は父の視線に気づかないふりをして、


「六角が我らの敵に回った四年前とは、状況がだいぶ変わっておりまする。六角は、我らの味方になります」


 と、自分の言いたいことを一気にまくしたて始めた。

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