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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 五章 濃尾参州燃ゆ
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蝮退治のゆくえ

「おい、造酒丞さけのじょう。あれを見ろ。あの坊主、太原雪斎ではないか?」


「そんなまさか。近在の寺の僧が戦死者の弔いに来たのでしょう」


 大きな松の木に槍を立て掛けて休息していた信光と造酒丞は、少し離れた場所で兵たちのしかばねを眺めながらたたずんでいる僧侶の存在に気づき、そんなことを言い合っていた。


 薄闇に覆われた彼時かれどきゆえ、目がいい二人でも判別しがたい。信光は、使者として尾張を来訪した雪斎を間近で見たことがあるので(もしや……)と思ったのだが、あれは絶対に雪斎だと断言する自信まではなかった。


「……まあ、そうだな。俺の見間違えか」


 そう呟きながら僧侶から視線を外し、信光は竹筒の水をのどに流し込んだ。造酒丞も同じように水をごくごくと飲んでいる。一日中怒鳴り散らしていたため、二人とも喉がカラカラなのである。


 やがて、僧侶の姿は見えなくなった。喉の渇きがおさまった両将は、今日の戦の手柄の自慢話を始めていた。

 信秀が平手ひらて政秀まさひでを従えてやって来たのは、ちょうどそんな時のことである。


「二人とも、何を話しておるのだ」


「おう、兄上。別に何でもない。もう目眩めまいはおさまったか?」


「ああ……いつものことだから心配するな」


 そう答えつつも、信秀の顔はまだ若干青ざめているように見える。疲れがかなり蓄積しているのが傍目はためにもよく分かった。


 信光は眉をひそめ、「兄上。尾張に帰還したら、少しは休め。しまいには倒れるぞ」と強めの口調でそう忠告した。しかし、信秀は「無理だ」と機嫌が悪そうに言い、強くかぶりを振るだけである。


「心配事があるのに、休めるわけがないではないか」


「心配事? 今川軍も今日の戦で相当な消耗をしたことは間違いない。奴らも大人しく領国に引き上げるはずじゃ。恐らく当分は攻めては来ぬと思うぞ」


「今川のことではない。俺が気にしているのは、美濃のまむしだ。本当なら、今頃は内部分裂中の美濃国に攻め込み、斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)を討ち果たしている予定だったのだ……。

 それなのに、今川義元に邪魔されて、想定外の大決戦を三河で行ってしまった。我が軍の損耗は激しく、数か月はいくさができぬのは我々も一緒だ。このままでは、美濃国を攻撃する千載一遇の好機を逸してしまう。早期の美濃討伐が実現できなければ、利政めはありとあらゆる手段を使って領国内の混乱を鎮めるであろう……。攻めるのは今しかないというのに、軍を動かせなくなるとは無念で仕方がない」


 信秀は、蝮退治の実行が困難になったことがよほど悔しいらしく、握り締めた拳をぶるぶると震わせている。信秀の顔色が優れないのは、宿敵である斎藤利政を野放しにしてしまっていることに対する苛立ちも原因の一つのようである。


「そうだな……。たしかに、斎藤利政をこのまま放置しておくわけにもいかぬ。我らは動けぬが、こたびの戦に参加していなかった岩倉の伊勢守いせのかみ信安のぶやす様(尾張上半国守護代。信秀の妹の夫)や犬山の寛近とおちかおきな殿(織田与十郎(よじゅうろう)寛近。織田伊勢守家の一族)の兵は無傷だ。彼らに依頼して、美濃との国境近くまで軍勢を押し出してもらったらどうだ。利政に対して心理的な圧力をかけることぐらいはできるだろう」


 信光がそう提案したが、信秀は納得していないようで「いや……無理だな」と言った。


「義弟とはいえ主家筋の信安様に対してこのようなことを言うのはおそれ多いが、あの方は荒事を好まぬご気性で戦下手だ。寛近の翁もかつては名将と呼ばれていたが、今は八十数歳の高齢……。二人が軍勢を率いて押し寄せても、利政が脅威に感じるかどうか怪しい」


「ならば、この策はどうでしょう。急ぎ越前に使者を送り、朝倉あさくら家に挙兵してもらうのです。朝倉軍が温見ぬくみ峠(福井県大野市~岐阜県本巣市間にある峠)を越えて美濃の西部を蹂躙じゅうりんし、ほぼ同時に信安様と寛近の翁殿の軍勢が美濃南部に兵を進めれば、我らに内通している美濃の諸侍たちが織田と朝倉の動きに呼応して利政に反旗を翻すはずです」


 悩む信秀にそう助言したのは、織田家臣団で最も広い視野を持っている平手政秀だった。信秀が「おお、そうじゃ。朝倉家を使うことを忘れていた」と愁眉しゅうびを開くと、政秀はさらにこう続けた。


「そもそも、利政討伐は、朝倉が織田を誘って始まった戦いではありませぬか。織田が動けなくなった今、最初に反斎藤利政の声を上げた朝倉軍が主導して美濃攻めを敢行するのが筋というものでしょう」


「うむ、政秀の申す通りじゃ。朝倉家の当主・孝景たかかげ殿も、甥にあたる土岐とき頼純よりずみ様を殺されて、蝮には深い恨みを抱いているはず。また、朝倉軍の軍権を握っている宗滴そうてきのジジイは元から好戦的な性格だから、我らの頼みをいなとは言わぬであろう。……よし、決めた。政秀よ、ただちに使者を越前に送れ」


「ハハッ。大事な交渉ゆえ、それがしが自ら参りましょう」


 政秀はそう言うと、甲冑を脱ぎ捨てて、半刻(約一時間)後には越前国に向かうべく馬上の人となっていた。今年で五十七歳とは思えない身軽さである。政秀のような凄まじい働き者がいるからこそ、織田家は外交戦略で他国に後れを取らずに済んでいると言っても過言ではなかった。


 だが――不運なことに、朝倉家を動かすという信秀と政秀の目論見は、あっさりと崩れることになるのである。朝倉家十代当主・孝景が、小豆坂合戦があった日からわずか三日後に突然死したからだ。

<織田と朝倉の対美濃作戦について>

信秀がこの時期に朝倉家に働きかけて美濃を攻めてもらおうとした……というのは今作品の創作で、そのような事実があったことは今のところ史料では確認されていません。(ただ、確認されていないだけで、あったかも知れないかも……かもかも?)

いちおう創作ではあるのですが、織田家が美濃攻めを行う時に越前の朝倉家と連携して挟み撃ちにするのは遠交近攻の戦略としては理に適っていると思います。信長も永禄七年(一五六四)に美濃揖斐郡の土豪・国枝古泰に書状を送り、越前朝倉氏への連絡を依頼しています。美濃攻めにあたって朝倉氏と連絡し合い、斎藤氏に対して圧力をかける狙いがあったのでしょう。

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