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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 五章 濃尾参州燃ゆ
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雪斎の罪

「おのれ、織田信秀め。忍びに探らせたところ、やはりあの葵紋の旗は織田方の策略であった。松平広忠は戦場に姿を現してなどいなかったのだ」


 藤川の本陣に帰還した後、朝比奈あさひな元長もとながは激昂しながら酒をあおっていた。


 戦況を的確に判断して老朝比奈の泰能やすよしに撤退の助言をしたのは元長だが、彼はまだ二十代で負けん気が強い。頭では「あの時は退却の判断をするしかなかった」と分かっていても、勝利を目前にしておきながら退かざるを得なかったことが悔しくて仕方がないのである。


「元長殿、傷にさわるぞ。酒はもうそれぐらいにしておけ」


 握り飯を片手に持っている岡部おかべ元信もとのぶが、元長を静かにたしなめた。

 戦闘時以外は寡黙にしていることが多い元信だが、若い元長がいくさで苦々しい経験をするたびにやけ酒を飲む習慣を身に着けてはならぬと心配し、忠告したのである。


「戦の後は握り飯を食え。しっかりと腹ごしらえをして、次の戦いに備えるのじゃ」


「……元信殿は、こたびの戦功第一ゆえ、そんな平然とした顔で握り飯などを頬張っていられるのです。拙者は先陣の栄誉を与えられておきながら、今川軍を窮地に立たせてしまいました。おのれの未熟さに腹が立ちまする。最初に織田軍を盗人木ぬすっとぎまで追いつめた時、拙者が信秀の奇抜な策略に引っかかってさえいなければ、織田軍を完膚なきまでに叩きのめすことができたというのに……」


「まあまあ、そう焦るな。織田との戦いはまだまだこれからじゃ。この先、そなたが大功を立てる機会も巡って来るじゃろう。今は亡き宗長そうちょう殿もこううたっていたではないか。『武士もののふ矢橋やばせの船は早くとも 急がば回れ瀬田せた長橋ながはし』とな。目先の結果だけを見ていつまでも欝々としていたら、良き大将にはなれぬぞ」


 元長をそう諌めてガハハハハハハと笑ったのは、楽天家の泰能である。


 この老将は、撤退を決断した時は元長以上に悔しそうにしていたが、非常に頭の切り替えが早い――というか怒りや妬みなどの負の感情はさっさと忘れてしまう――性格のため、帰陣した頃にはすっかり能天気なじいさんに戻っていた。


 ちなみに、「急がば回れ」の語源となった歌を詠んだ連歌師の宗長は、雪斎登場以前に今川家の外交顧問役を長らくつとめた人物で、義忠よしただ(義元の祖父)・氏親うじちか(義元の父)・氏輝うじてる(義元の兄)の今川三代に仕えていた。彼の歌の大意は、


「上洛するために琵琶湖を渡る際、矢橋港から大津へと往く海の道が近いように見える。しかし、運悪く比叡山から吹き降ろされる強風にはばまれてしまったら、船が遅々と進まないし、危ない目にあうだろう。堅実に道を急ぎたいなら、やっぱり瀬田の唐橋まで南下するのがよい」


 ということである。


 宗長とは面識がない元長も、今川家とゆかりのある彼の有名な歌ぐらいは知っている。神妙な顔つきで「急がば回れ……。戦いは焦らず堅実に行くべき、ということですか」と呟いた。


「あい分かりました。もう愚痴を言うのはやめます。……ところで、雪斎せっさい殿のお姿が先刻から見えませぬな。どちらへ行かれたのでしょう」


「うん? 雪斎殿か? あの変わり者の坊様は、昔から戦いが終わった後にふらっと陣から消えることがよくあるのじゃ。別に心配しなくてもよいぞ」


「いやいや、心配するに決まっているではありませんか。総大将が、戦が終わったばかりの土地をのこのこと歩いていたら、敵兵に見つかって殺されるやも知れぬでしょう」


「具足を抜けば、雪斎殿は法衣を身にまとったただの僧侶にしか見えぬ。織田の兵とすれ違っても、戦死した兵のために念仏を唱えに来た近くの寺の僧だと思われるだけじゃよ」


「それはたしかにそうですが……。雪斎殿は、何故なにゆえそんな危ない一人歩きをわざわざなされるのでしょう」


「そんなこと、わしが知るか。死体がゴロゴロ転がった道を散歩するのが趣味なのじゃろう。ガハハハハハハ」


 泰能は再び大笑すると、元長から徳利とっくりをひったくって、残っていた酒をグイッグイッと一気に飲み干した。生真面目な元長は、泰能の能天気ぶりに呆れて眉をしかめている。


 雪斎が何を思って戦場の跡地に赴くのか――実際は、長い付き合いの泰能はよく知っていた。元長に言わずにおいたのは、軍功をあげることで頭がいっぱいの若武者には雪斎の気持ちは理解しがたいであろうと考えたからである。




            *   *   *




 剣戟けんげき止みし後の小豆坂あずきざかは、あたり一面が毒々しいほどに鮮やかな赤色に染まっていた。


 焼けただれたように赤々とした夕空の下、みすぼらしい袈裟けさをまとった雪斎は、杖をつきながら血に染まった草を踏みしめて戦場跡を歩いている。


 小豆坂の周辺に点在する池では、織田と今川の武者や雑兵たちがお互いのことを見て見ぬふりをして、体にこびりついた血を洗い落としていた。

 鎧を松の木に掛けて、裸で池に飛び込んでいる者までいたが、どこの池の水もすでに真紅に染まっているため、血生臭いにおいまではなかなか取れないようである。一緒に洗われている軍馬たちは、死の香りが鼻につくのか嫌そうに首を振っていた。


 今川の武者たちの何人かが雪斎に気づき、総大将がこんなところで何をしているのかと眉をひそめたが、長時間にわたる激闘で疲れ切っているため、誰も何も言わない。織田兵たちは、死者を弔いにきた僧侶だろうと思い、無視している。


 四辺を漂う死臭は凄まじいものがあった。饗宴の時をずっと待っていたからすたちは、あちらこちらで戦死者たちの死肉をついばんでおり、つわものどもが夢の跡は烏の餌場えさばと化していた。


「こら! あっちへ行け! しっしっ!」


 死体の収容や埋葬の作業にあたっている黒鍬者くろくわものたちが、怒鳴り声を上げて烏を追いはらってはいるももの、図太い彼らは逐われてもすぐに舞い戻って来て食事の続きをしている。


「きりがねぇ。忌々しい烏どもめ」


「ああ、困ったもんだ」


 などと言い合っている二人は、実は敵味方である。しかし、おびただしい戦死者たちの処理に忙しくて、お互いに気がついていない様子だった。


 余談ではあるが――黒鍬者というと、行軍する道の補修、砦の築城、敵城を攻める抜け道を掘る、など土木技術者として一般的に知られているが、合戦後の戦死者の埋葬も彼らの役目であった。黒鍬者たちがひとつの場所にまとめて埋葬した戦没者の魂は、従軍僧や地元の僧侶が念仏でなぐさめ、近在の百姓たちも手厚く供養してくれることが多かった。化けて出られたら恐いからである。


「…………あれは、織田の足軽か」


 険しい眼差しで奈落の底のごとき景色を自己のまなこに焼きつけていた雪斎は、ある隻眼せきがんの兵士を見つけて立ち止まった。


 彼はどういうつもりなのか、黒鍬者たちに混ざって、戦死者の埋葬を手伝っているようである。しかも、なぜか味方の織田兵ではなく、今川方の若い足軽の死骸を丁重におぶって運んでいた。


 それは、内藤ないとう勝介しょうすけの部隊からこっそり抜けて来た虎若とらわかだった。同郷の峰吉みねきちの遺体を血眼になって探し出し、仲間の兵たちと同じ場所に埋めてやろうとしていたのである。


「峰吉ぃ……峰吉よぉ……。俺たちのような雑草が奪い奪われる乱世を生きていくのは辛いなぁ。食っていくためには人の命と財を日々奪わねばならねぇ。武運が尽きたら、こうやって戦場にしかばねさらすだけだ。朽ち果てた死体以外、他には何も残らん……。

 太原雪斎だか何だか知らんが、奴はくそ坊主だ。お坊様のくせに、俺や峰吉のような他国から逃げて来た流民たちを金銭で雇い、一番危険な前線で戦わせやがって……。好きこのんで戦の指揮を執っているような奴だから、きっと人の死などとも思わぬ冷酷な坊主に違いねぇ。

 ……くそ、くそ。天罰よ、雪斎坊主に下りやがれ。俺たち欠落かけおち(脱走)百姓は使い捨ての道具なんかじゃねえぞ」


 虎若の嗚咽おえつ交じりの怨嗟えんさの声が、生臭い風にのって雪斎の耳に伝わる。


 雪斎は固く唇を引き結びながら、(名も知らぬ足軽よ。お前の言う通りだ)と呟いていた。


御仏みほとけに仕える身でありながら、私がこの者たちに死を強要した。今川家の繁栄を築くため、駿河・遠江の領民たちを守るため……手柄を立てれば褒美は思いのままであるという甘言で釣り、彼ら行き場を失った哀れな流民たちを死地へと向かわせたのだ。私は徳高き僧でも何でもない。寿桂尼じゅけいに様や美濃のまむしと同じだ。戦国の世が生んだ魑魅ちみ魍魎もうりょうの一人なのだ。

 ……しかし、これが今川家の軍師である私の役目。義元様が目指す理想の国を造り上げるためには、師であり父親代わりである私が、義元様の前に立ちはだかる敵を倒して行かねばならぬ。私は、義元様のために、これからも戦場で自らの手を汚していく覚悟じゃ。

 天よ。私が起こした戦で殺し合った者たちに罪は一切無い。どうか、両軍の戦死者たちの魂を地獄には落とさないで欲しい。天下万民を救う定めを持った義元様にも危難を与えたまうな。我一人……雪斎ただ一人に罪は有り。業火の苦しみを、我が死する時にお与えあれ)


 小豆坂に漂う淀んだ風。


 闘死した兵たちの無念、恨み。


 その全てをおのれの魂に受け入れようと、雪斎はすうぅぅ……と深く息を吸った。




 雪斎が今川家を守るための戦で生じる罪業ざいごうのことごとくを自分一人の罪にしようと決意したのは、十数年前――義元が今川家の当主の座に就いた頃のことである。


 京都で弟子の義元と共に禅の修行に励んでいた雪斎は、寿桂尼が派遣した使者に「今川家のまつりごとを支えるために、栴岳せんがく承芳しょうほう(義元の法号)様を連れて駿河に来て欲しい」と乞われた。


 ――義元様と自分ならば、古代中国の三皇五帝さんこうごていのごとき理想の政治ができるはずだ。


 雪斎はそんな青雲の志を胸に抱き、義元と一緒に駿河に赴いた。


 しかし、いざ駿河国に入ると、待っていたのは今川家の家督相続をめぐる骨肉の争いだった。

 当主の氏輝が謎の急死を遂げ、新たに家督を継いだ義元は、腹違いの兄の玄広げんこう恵探えたんを醜い内部抗争の末に死に追いやることになってしまったのである。


 全ては、寿桂尼が今川家当主の座に優秀な義元を就かせるために段取りした計画だった。当時はまだ国政の初心者だった雪斎と義元は、策謀家の彼女の手のひらの上でまんまと踊らされていたのであった。


 現実のまつりごとの世界は、書物ばかりを読んでいた京都時代の義元や雪斎が知らなかった、魔物が棲む伏魔殿ふくまでんだった。「国を良い方向へと導いていき、民衆を救いたい」という純粋な想いだけではどうしようもできない、寿桂尼や斎藤利政(道三)といった魑魅魍魎たちの仁義なき戦いが繰り広げられる恐ろしい場所だったのである。


 我が子に等しい義元様をとんでもない修羅の道へと踏み込ませてしまった、と雪斎は当初大いに後悔した。

 群雄割拠する乱世を生き残ろうとあがけばあがくほど、おびただしい殺生せっしょうを繰り返す。罪を重ね、けがれが心身にこびりついていく……。


 初めから武士として育てられた武将たちはこのような苦悩に対して鈍感になっているのかも知れないが、若い頃から禅の修行でひたすら自らの心と向き合い続けてきた雪斎にとっては、おのれの胸でうずく罪悪感を見て見ぬふりすることなどできない。

 そして、それは雪斎の弟子である義元も同じだろう。多くの修羅場をくぐり抜けて、押しも押されもせぬ戦国大名へと変身を遂げつつあっても、心の奥底では兄たちを犠牲にして国主の座に就いたことに余人には言い難い苦悩を感じているはずである。


 ――大切に育ててきた義元様の心を汚しきり、魂を地獄に落とすようなことは、絶対にしたくない。義元様のご負担を少しでも減らすため、私が陣頭指揮をとって戦わねば。義元様には可能な限り戦場には赴かせぬ。


 義元は国内統治で手腕を振るい、彼なりに苦闘を続けている。時には、反抗的な土豪たちに非情な粛清を実行している。ならば、自分は戦場で敵をほふり、魂が穢れきって力尽きる日が来る時まで義元様と今川家のために戦い続けよう――それが、雪斎が自身に課した生涯の仕事だった。


 ゆえに、いつも合戦の後、雪斎は戦場跡で天を睨んで心の中でこう叫ぶのである。


(この地獄絵図を作ったのは我なり! 雪斎ただ一人に、罪は有り! 義元様や戦場に散ったつわものたちには、けっして罰を与え給うな!)


 今川家を守りきり、義元を天翔る龍神のごとき英雄にすることさえできれば、おのれは奈落の底で自分の魂を鬼に食われてもいい――雪斎は、心の底からそう思っていた。

<連歌師・宗長の「急がば回れ」の歌について>

「急がば回れ」の語源となったとされるこの歌は、今川家と縁のあった連歌師・宗長が詠んだという説が有名で、最近刊行された『今川義元公誕生五百年祭記念 復権!今川義元公の実像に迫る』(発行:静岡新聞社 協力:今川義元公誕生五百年祭推進委員会)にもそう紹介されています。

しかし、異説もあり、平安時代後期の貴族・みなもとの俊頼としより(小倉百人一首にも選ばれている歌人)が詠んだ歌だという説もあるようです。

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