攻防の果てに
すでに攻守は逆転していた。
今川軍は織田軍を押し返し、小豆坂を抜けて、織田方が本陣を置いていた盗人木の付近まで猛進しつつあった
織田軍は辛うじて軍の秩序を保ちつつ後退している。総大将である信秀の優れた統率力と家臣たちの奮戦が、総崩れになることを何とか防いでいたのである。
「押せ、押せ! 信秀を討ち取り、上和田砦まで一気に雪崩れ込むぞ! ワッハッハー!」
楽天家の老将・朝比奈泰能は、もうほとんど勝った気分になっており、腕白小僧みたいに刀をキャッキャッと振り回してはしゃいでいる。
憎らしい老人め、と山口教継が配下の兵に泰能めがけて矢を撃たせたが、兜の前立と鎧の袖をわずかにかすめただけで、泰能はガハハハと笑い続けている。
戦場では、矢に当たることに怯えて逃げ回っている者よりも、自分は絶対に矢に当たらないと信じ切っている人間のほうが軍神の加護があるものである。自信過剰の塊である老武将を矢のほうから避けていくようであった。
「諸将よ、これ以上敵軍に勢いを与えてはならぬ。盗人木の本陣だけは抜かれるな。芝居を踏んで防戦するのだ。あと一刻(約二時間)……いや半刻(約一時間)も踏ん張れば、今川軍も疲れて撤退するはずじゃ」
信秀は叫びすぎてガラガラになってしまった声でそう喚き、武将たちに最後の力を振り絞って耐え切るように命令した。やはり過労のせいで体力が落ちてきているのか、長時間にわたって血刃を振るい続けた信秀の顔はどこか苦しげである。
「ハハッ! 承知いたしました! ……者共、芝居を踏めぇぇぇいッ‼」
かすれてしまった信秀の声では、前線で戦っている兵たちの全てに下知が行き届かないだろう。そう考えた内藤勝介が大音声で信秀の命令を叫んだ。
織田造酒丞や山口教継が「おうッ!」と応えると、まだ元気が残っている虎若ら足軽衆も口々に「おおーーーッ!」と吠えた。
余談だが、信秀が口にした「芝居」というのは、軍隊の陣のことである。たいていの場合、野戦は草地で行われるため、そういった地に作られる陣のことを芝居と呼んだ。だから、頑張って陣を持ちこたえることを「芝居を踏まえる」と言うのである。
だが、信秀にそう命じられなくても、織田家の諸将たちも「こんなところで主君を死なせてたまるか」と必死になっている。不退転の覚悟で、大地を踏みしめておのおの奮戦した。
織田信光が凄まじい形相で敵兵を屠りながら雄叫びを上げ、内藤勝介が得意の十文字槍を振るって信秀に迫る敵将の刃を退け、最初槍の勇者の造酒丞が騎馬で縦横無尽に駆け回って戦場に血の花びらを舞わせていた。
平手政秀や織田信広、安房守秀俊らも生き残っていたわずかな兵たちを率いて激戦に加わり、盗人木を死守すべく戦っている。
あと一歩で勝利がつかめる今川の武将たちの闘志も燃え上がっていた。
老朝比奈の泰能を筆頭に、左腕を負傷しながらも前線に復帰した朝比奈元長や駿河衆・遠江衆の侍たちが、織田勢を撃破せんと火を吐く勢いで力戦した。
両軍の将兵たちはおびただしい返り血を浴び、全身を紅に染めたまま、血塗られた草原の上で火花を散らして戦い続けた。
信秀が「耐えろ」と言った半刻の時間はとうの昔に過ぎたが、激闘は終わらない。今川軍を指揮している泰能が勝利に対して貪欲な性格のため、「我らは勝つ勝つ絶対に勝ぁぁぁつ‼」と撤退の「て」の字も考えていないのである。
「ま……まずい……。半刻耐えろと俺が命令したせいで、そろそろ半刻が過ぎたと気づき始めた兵たちの気持ちが折れ始めている。あの今川軍の老将め、なんと粘り強い男なのだ」
「兄上よ。ここは一か八か、奇策を用いて今川軍が撤退するように仕向けてみよう」
「何だ、信光。また悪だくみを思いついたのか」
「フフフ……。まあな。俺に任せてくれ。こういう時のために、面白い物を持って来ていたのだ」
「何でもいいから試してみてくれ。お前の悪知恵はこういう切所にこそ頼りになる」
信秀がそう言うと、極悪人のように歪な微笑を浮かべている信光は「それは褒め言葉として受けて取っておこう」と答え、部下たち数人に何事かを指示した。
敵を罠にはめることを至上の愉悦とする信光の新たな悪だくみというのは――昨年の戦で松平広忠の軍から分捕った軍旗を使うことであった。
* * *
「泰能様! ご報告いたします! ……お、織田勢の中に松平家の葵紋の軍旗を掲げた一隊が現れました!」
「何じゃと? 何かの間違いではないのか⁉ 広忠は岡崎城にいるはずじゃぞ!」
激戦の最中、思いもかけない報告が飛び込んできて、泰能は我が耳を疑った。
嫡男の竹千代を織田家に人質として差し出している松平広忠は、いちおうは織田家の傘下にあるが、自分を松平家の当主にしてくれた恩人の今川義元と積極的に戦うつもりはないはずである。信秀の威光を恐れて、今回は今川からの寝返りの誘いには応じなかったものの、岡崎城から打って出て織田軍に参陣するとは思えない。
「それはきっと見間違えじゃ。松平家の本軍がここに現れるはずがない」
「いえ、見間違えなどではありませぬ。現に葵紋をあしらった数流の軍旗があそこに……ぐわっ!」
砂煙上がる戦場を指差して怒鳴っていた泰能の家来は、ヒュン! と飛んで来た一本の矢に右目を射貫かれて倒れた。
驚いた泰能が、矢が飛来した方角を見ると、弓を持った若武者が「敵将、仕留めたり!」と叫んでいた。その若武者に付き従っている旗差が高々と掲げている旗は、紛うことなく葵紋の軍旗だった。
「ここからでは顔がハッキリと見えぬが……。松平広忠……なのか? ま、まさか……。そんなまさか……」
矢を射た若武者が、実は信秀次男の安房守だとは知らない泰能は、困惑の表情を浮かべた。心の中で、何度も、有り得ぬ、こんなことは有り得ぬ、と呟く。その泰能の判断は正しく、優柔不断な松平広忠が今川軍に完全に敵対するような真似をできるはずがないのである。
しかし、目に見えた物しか信じない単純な雑兵たちは、「織田軍に新たな援軍だ!」とすっかり狼狽えてしまっている。
「これはまずいですぞ、泰能殿。銭で雇った足軽どもが、またもや動揺し始めました」
兵たちの士気の低下をいち早く察した朝比奈元長が、泰能にそう言い、「急ぎ撤退の命令を出すべきです」と助言した。
「て……撤退だと? せっかく優勢になったのにか?」
「まだ優勢なうちに退くべきだと言っているのです。
恐らく、あの松平家の軍旗は織田方の策略でしょうが、我が軍の兵たちはまんまと信秀に騙されて戦意を再び失いつつあります。底力の凄まじい織田軍が決死の覚悟で巻き返しを図ってきたら、敵に援軍が現れたと騒ぎ狼狽えている今の我が軍では打ち負かされるはず……。
二度も小豆坂まで押し戻されてしまえば、今川方の敗北は決定的となり、主君義元様の面目は失われてしまいますぞ」
「う、う~む……。そうじゃな。優勢なまま戦に幕を引けば、『この戦は今川軍の勝ちだ』と言い張ることもできる。疲れ切っている織田軍も無理をしてまで追撃はして来ぬはずじゃ。ここは大人しく藤川の本陣に帰還しよう。あと一歩で織田勢を壊滅させられると思ったのに、残念じゃ……」
泰能は忌々しそうに葵紋の軍旗を睨みながら、軍の撤収を決意するのであった。
今川軍が矛をおさめて撤退を開始すると、泰能の読み通り、信秀は疲弊しきっている織田軍に追撃命令を出すことはしなかった。信光の策略で葵紋の軍旗を戦場に掲げさせていた時点において、これ以上戦う体力は織田兵には残っていなかったのである。
かくして、壮絶を極めた小豆坂合戦は終わった。
織田方にとってはぎりぎり大敗北を免れ、今川方にしてみたら完全勝利をつかめぬまま幕を閉じたことになる。お互いが苦々しい思いを味わった両軍の初対決であった。
<史実における小豆坂合戦>
小豆坂合戦ようやく終了! 長かった!( ;∀;)
小説では色々と話を脚色したり盛ったりしていますが、合戦の大まかな流れはだいたい同じだったりします。
①小豆坂で織田軍の信広隊と今川軍がばったんこ!!
②織田軍は、本陣があった盗人木まで退いた後、反撃して小豆坂の坂下まで押し返す。
③今川軍がピンチなところに岡部元信が颯爽と織田軍に横槍を入れ、突き崩す。
④戦いは五分と五分だったが、織田方は二度も押し戻されたので、今川方の勝ちだと言われた(と『三河物語』に書かれている)。
今川方で戦死した武将は、岡崎衆の林藤五郎と小林源之助。
織田方ではヤリ三位という物頭が駿河衆の小倉与助に討たれています。(作中では岡部元信に討たれていますが、それは今作品の創作です)
合戦自体は今回で終了ですが、次回以降は戦後処理(?)の話に移る予定です。
あと、朝倉家でも一大事がががががが!!!




