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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 五章 濃尾参州燃ゆ
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竜虎相搏つ

 岡部おかべ元信もとのぶ隊が織田軍に強烈な横槍を入れたことによって、戦局は一転していた。

 後方の部隊が襲われていることを知り、最前線で戦う織田兵たちが激しく動揺していたのである。背後に新手の敵兵が現れたという心理的な負担は、兵の士気がいちじるしく下がる理由としては十分すぎた。唯一救いなのは、信光のぶみつ勝介しょうすけ造酒丞さけのじょうら猛将たちの奮戦のおかげで、軍の統率がまだ完全には崩壊していないことである。


 一方、両朝比奈(あさひな)泰能やすよし元信もとのぶは、


(どうやら、雪斎せっさい殿が織田軍に何か仕掛けたようだ)


 そう察し、今こそ逆転の好機であると奮い立っていた。

「かかれ、かかれ! 織田軍の攻勢が弱まったぞ! どんでん返しの始まりじゃー!」と泰能はわめき、兵たちを鼓舞している。


「く、くそっ。寄せ集めの今川の兵たちめ……。劣勢の時は顔を真っ青にして逃げ腰だったくせに、自軍が優勢になったと知った途端に元気を取り戻しおったぞ」


「兄上。我が軍の兵たちは、背後に敵兵がいることを不安がっている。このままでは多くの兵が戦意を喪失してしまうぞ。後ろで暴れている今川の伏兵を早く何とかせねば……」


「ヤリ三位さんみの部隊を信広たちの応援に向かわせたが、敵将を討ち取ったという報告がまだ来ない。我が軍に横槍を入れたのは、よほどの名将やも知れぬ」


 信秀と信光が迫り来る今川兵に応戦しながらそう怒鳴り合っていると、近くで戦っていた造酒丞が「ヤリ三位には手に負えぬ強敵なのでしょう。それがしにお任せくだされ」と言った。


「前線から最初槍はなやりの勇者が外れるのは心もとないが……やむを得ぬな。造酒丞、速やかに敵将を討ち果たして戻って参れ」


御意ぎょいッ!」


 造酒丞は槍をブーンと大旋回させて敵兵たち五、六人を吹き飛ばすと、素早く馬首を巡らせて信広たち後方部隊の応援へと向かった。




            *   *   *




「むむっ⁉ こ、これは……」


 麾下きかの兵から選りすぐった五十騎を率いて救援に駆けつけた造酒丞は、岡部元信の精鋭隊が作り上げた惨状を目の当たりにして驚愕の声を上げていた。


 おびただしい数の死体である。信広隊と安房守あわのかみ隊、ヤリ三位隊の兵はほぼ壊滅と言っていい。平手ひらて政秀まさひでの部隊も敵の騎兵に苦戦している様子で、政秀本人も傷だらけになっている。


 信広は右膝を負傷しており、槍を支えにしてふらふらの状態で馬上の敵将と睨み合っていた。


 そのすぐ近くでは、安房守が倒れ伏していて、傍らにはむごたらしい馬の死骸がある。騎乗していた馬を殺されて頭から落ち、気絶したのだろう。見たところ呼吸はしているようなので、打ちどころさえ悪くなければ命に別状は無いはずだ。


 造酒丞よりも早く救援に駆けつけていたヤリ三位は――武運(つたな)く討ち取られてしまったようである。敵将の従者がヤリ三位の首級を持っていた。首をき斬られた直後らしく、その従者の足元には首の無い死体が転がっている。


「さ……造酒丞! 来てくれたのか! そいつは強敵だぞ、油断するな!」


「御意。信広様は、気絶している安房守様を連れて、できるだけ離れた場所に避難してくだされ。

 ……おい。そこの猪の兜を被った金ピカ男。おぬしが全部やったのだな」


 造酒丞はこまを進め、凄みのある声で敵将にそう問うた。味方を痛めつけられた怒りがふつふつと湧き起こり、最初槍の勇者は目に見えぬ灼熱の炎を背に負っている。


「いかにも。この岡部元信がやった。そのただならぬ気迫は、貴殿が音に聞く織田造酒丞信房(のぶふさ)殿だな。ちょうどよいところに来てくれた、前々から貴殿と一度戦ってみたいと思っていたのだ。良き敵と死合うことこそが武士の誉れ……一騎打ちを所望いたす」


「猪の兜を被っているだけのことはあって、おぬしは相当な猪武者のようだな。

 だが、それがしはおぬしよりも二倍、三倍も狂気じみた猪と美濃で戦ったことがある。おぬし程度の闘気では、我が武を凌駕りょうがすることはできぬぞ。ヤリ三位の仇、取らせてもらう!」


 造酒丞は血塗られた槍の刃を元信に突きつけながらそう吠えると、麾下の兵たちに「平手殿の部隊を救うのじゃ」と指示し、馬腹を蹴って元信に突貫した。


「うおおおおッ‼」


 猛虎の咆哮ほうこう、天地を震わす。


 木々の枝にとまって織田兵の死肉を狙っていたからすたち数十羽が、造酒丞の大怒号に肝を冷やして一斉に飛び立った。


 元信も、造酒丞が放つ殺意の業火に呑み込まれぬように「かああああッ‼」と吠え返し、黄金の鎧に覆われた駿馬を疾駆させる。


 カッ!


 と、すれ違いざまに両将の刃が激突、火花が咲いた。そのたった一合だけで、二人はお互いの実力を瞬時に察し、


(こいつ……予想の倍以上だ!)


 と、同じ台詞を心の中で呟いていた。


 敵が強ければ強いほど闘志が燃え上がるのがたけ武士もののふさがである。両者とも「しゃぁぁぁッ‼」「こおぉぉぉッ‼」と獣じみた怒声で自らを発奮はっぷんさせると、巧みな手綱さばきで馬を方向転換させ、再度激突した。


 速攻・強行・不退転がいくさの信条である造酒丞が、しの突く雨のごとく鋭い槍の猛攻を降らせると、元信はその神速の技を全て受けきる。


 しばし耐えた後、元信は反攻に転じるべく、信広・安房守・ヤリ三位の三将を一瞬で退けた豪腕で必殺の突き放った。


 造酒丞はそれを軽々と受け流し、さっきよりも技の速度を倍に上げた一撃をきらめく流星のように繰り出す。わずかに驚いた元信は、馬上で器用に体をのけ反らせ、ぎりぎりでよけきった。


 五十数合火花を散らし合い、互いに神がかった技の応酬を繰り広げたが、両将どちらも譲らない。少し離れ場所に避難していた信広は、鬼神のごとき猛将二人の死闘を呆然と眺めていた。


 しかし、元信は内心密かに焦りを感じていたのである。


(さすがは織田造酒丞、聞きしに勝る強さだ。こちらは技のほとんどを出し尽くしたが……最初槍の勇者はまだまだ余裕があるようだな)


 今のところは互角に渡り合えているが、造酒丞の闘気は長い激戦で衰えるどころかますます燃え盛っている。これ以上一騎打ちを続けたら、劣勢に転じる恐れがあると元信は判断した。


(我が任務は、織田軍に横槍を入れて混乱させることだ。私の首が取られたら、せっかく下がりつつある織田勢の士気を回復させかねぬ)


 チラリと横を見ると、岡部隊の騎兵は平手隊と造酒丞隊の挟み撃ちに合い、苦戦を強いられているようだ。数は五十人程度でも、織田家最強の造酒丞が選抜した兵たちの精強さは尋常ではない。


「雪斎殿から与えられた役目は十分に果たした。今川軍の逆転は揺るがぬであろう。このあたりが引き時か……」


 これ以上粘ってもいたずらに損害が大きくなるだけであると考えた元信はそう呟くと、「者共ものども、撤退だ! 散れ、散れ!」と配下の兵たちに命令した。

 すると、岡部隊の騎兵たちは、疲弊している平手隊に苛烈な突撃を敢行して包囲網を突破し、鬱蒼うっそうと茂った松林の中へと脱兎のごとく駆け去って行った。


「まだ勝負がついていないのに退却だと? 卑怯だぞ!」


「悪いな、造酒丞殿。また戦場で相まみえようぞ」


 元信はそう言いながら激しく馬腹を蹴る。元信の愛馬はヒヒィーンといななき、鎧を身にまとった体躯で造酒丞の馬に体当たりをした。


 並の軍馬ならばこの強烈な不意打ちにひるんで倒れただろうが、造酒丞の馬は過去に人を三人ほど蹴り殺したことがある荒馬である。怒りに満ちたいななき声を上げながらグッと踏ん張り、主人を落馬させなかった。


 しかし、予測外の奇襲によって、さすがの造酒丞も攻撃の手を一瞬だけ止めってしまった。元信はそのわずかな隙を突き、配下の兵たちと同じように松林の闇の向こうへと姿を消したのであった。


「取り逃がしてしまったか……。あの人馬一体の武勇はただ者ではない。今川軍にもあのような男がいたのだな」


 造酒丞は、元信が消えた木々の闇の彼方を睨みすえ、そう呟いていた。


 だが、激闘の余韻よいんひたっている場合ではない。元信隊の横槍によって織田軍の士気は大いに下がってしまった。このままでは今川軍に押し切られて敗北してしまうだろう。


「平手殿。それがしは急ぎ信秀様の元に戻りまする」


 造酒丞はそう言い捨てると、配下の兵を引き連れて再び前線へと向かうのであった。

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