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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 五章 濃尾参州燃ゆ
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万人敵

 岡崎おかざき牢人衆ろうにんしゅうは、織田軍各隊の巧みな連携攻撃で瞬く間に壊滅した。


 数十人が闘死し、織田勢の重囲を脱して逃げおおせた牢人や兵たちはほんの一握りだった。


「一足遅かったか……」


 朝比奈あさひな元長もとながは舌打ちし、盗人木ぬすっとぎに布陣する織田の軍勢を睨みすえる。


 織田の将兵は、討ち取った牢人たちの首を槍の穂先に突き刺して高々と掲げ、「えいえい!」「おーッ!」とときの声をあげている。


 この凄惨せいさんな光景を見て、今川の兵たちは激しく動揺しているようである。


「おいおい、話が違うぞ。織田軍はあんなに強かったのか? 勇猛な三河の侍たちが皆殺しにされているじゃないか」


いくさに出たら乱妨らんぼう取り(略奪行為のこと)をしたい放題だと思っていたのに、まだ一度も近隣の村を襲わないうちに命がけの戦いをしなければいけないのかよ」


「こんなことなら、織田軍につけばよかったぜ……」


 雑兵たちの囁き声があちこちから聞こえてくる。織田方の狙い通り、岡崎牢人衆の壊滅は今川兵の戦意に大きな影響を与えていた。


 やむを得ぬことである、元長は思った。彼ら兵士の多くが、銭で雇われた他国の流れ者たちなのだ。今川家のために命を懸けて戦おうという者などいるはずがない。


「元長様。兵たちの士気がいちじるしく下がっています。このまま突撃しても押し返されてしまうのではないでしょうか。数町ほど退き、後続部隊が駆けつけるのをお待ちになっては……」


 配下の侍大将がそう進言したが、元長は頭を振って「ここまで来て後退など不可能だ」と言った。


「見ろ。意気軒昂な織田軍は軍旗をなびかせて進軍を開始している。今川軍の後続部隊が到着する前に、全兵力をぶつけて我が隊三千を撃破する腹積もりじゃ。迫りつつある敵軍を眼前にして、背中を見せて兵を後退させるのは自殺行為に近い。このまま一戦を交える以外に道は無い」


「さ、されど……」


「落ち着かぬか、たわけ。最初は我らが不利だろうが、三千の後続部隊が到着するまで持ちこたえることができたら、我が勢は倍の六千になる。四千の織田軍を兵数で押し切り、敵軍の主だった武将を何人か討ち取ることさえできれば、兵たちの士気も回復するはずだ」


 どうせ銭で雇った他国のあぶれ者たちなのだ、麾下きかの兵にある程度の犠牲が出ることは致し方がない。

 そう覚悟した元長は、織田本軍との決戦にのぞむことにした。


「皆の者、よく聞け。岡崎の牢人どもは、我が指示を無視し、暴走したから壊滅したのだ。今川軍は総勢一万、織田方はたかが四千。我らが一丸となって織田軍に当たれば、力押しで勝てる。恐れずに突き進めッ」


 元長は兵たちをそう叱咤激励すると、織田軍の中央めがけて突進するように下知した。しかし――。


「も……元長様! お、お待ちくだされ!」


「何だ、しつこいぞ。この期に及んではもはや決戦あるのみだと申したであろうが」


「い、いえ。あれを……織田軍の先頭を駆けている騎馬武者をご覧ください。あの五つ木瓜もっこうもんの前立ての兜は、総大将の織田信秀ではありませぬか?」


「な、何だと⁉」


 驚いた元長は、目を細めて前方を凝視した。


 まだ遠くてはっきりとは判別しがたいが、先駆けの武者は織田家の家紋があしらわれた兜をかぶっているように見える。(弟の信光では?)と元長は一瞬疑ったが、その武者の大音声だいおんじょうが響き伝わってくると、奴こそが信秀に違いないと確信した。


「織田備後守(びんごのかみ)信秀、見参ッ! 今川の弱兵どもよ、大将首はここにあるぞ! 俺を討てるものなら討ってみよ!」


 信秀は朝廷から新たに賜った官職名で名乗りを上げ、馬上からビュッと矢を放った。


 朝比奈隊の第一陣で「あぎゃぁ⁉」と悲鳴が上がる。一人の騎馬武者が落馬し、今川兵たちの間にどよめきが起きた。


「信秀め。噂以上に短気な男だ。まさか総大将自ら先陣を切って突撃してくるとは……。者共ものども、奴が織田信秀だ。一斉包囲して討ち取れ。信秀の首級をあげた者には黄金を思いのままにくれてやる!」


 元長はそう怒鳴り、抜刀した。


 信秀さえ討ち取れば、庶子しょしの信広など捕える必要もない。三河だけでなく尾張も今川家の物になるのだから。これは未曾有の大手柄をあげる好機だ、と元長は闘志をみなぎらせていた。




            *   *   *




 織田軍と今川軍は、互いに巨岩を穿うがつ勢いで激突した。


 織田方は総大将の信秀が先駆け、織田信光(のぶみつ)隊・内藤ないとう勝介しょうすけ隊・山口やまぐち教継のりつぐ隊ら精鋭部隊が後に続く。鋭く尖ったほこか矢のような陣形で、敵軍の肉を深くえぐろうとする一点突破の「鋒矢ほうしの陣」である。


 朝比奈隊の武者たちは、総大将自ら鋒の切っ先となって突撃してきた信秀の豪胆さに驚きつつも、逆にこれは合戦を早期に終わらせる好機だと思い、信秀隊を迎え撃った。


「織田信秀よ、我と一騎打ちせん!」


「大将首はそれがしの物じゃ!」


「お命頂戴ッ!」


 信秀の首級を狙い、今川家の侍大将や足軽大将たちが信秀隊に殺到する。

 雑兵たちも、大将の朝比奈元長の「信秀を討てば、黄金を思いのままにくれてやる」という言葉に目がくらみ、槍を遮二しゃに無二むに突き出して信秀に襲いかかった。


「信秀よ、自ら突っ込んできたのは過ちであったな。さすがの尾張の虎も、あれだけの数の将兵に一斉に囲まれたら切り抜けることはできまい」


 馬上から指揮をる朝比奈元長は、半ば勝利を確信してニヤリと笑う。


 しかし、すぐにその笑顔は硬直し、困惑の表情に変わっていった。


 今川の将兵たちが信秀の本隊を包囲殲滅(せんめつ)しようとした直後――。


 どぱぁっ……‼


 と、大量の血しぶきが戦場に飛び散ったのである。断末魔の叫び声が戦場に一斉に響き渡り、今川方の武者たちがバタバタと落馬していった。


「な……何だ? 何が起きているのだ?」


 緑の野を覆い尽くさんばかりの血煙ちけむり馬煙うまけむりが立ちのぼっているためよく見えないが、信秀に群がった今川軍の侍が次から次へとたおれていっている。槍衾やりぶすまを作っていた雑兵たちも、口から血反吐を流して地面に倒れ伏していた。


「ご……ご報告申し上げます! 信秀のそばには、織田造酒丞(さけのじょう)がいるようです!」


「織田造酒丞……。は、最初槍はなやりの勇者かッ!」


 報告を受けた元長は、驚愕の声を上げた。最初槍の勇者・織田造酒丞の豪勇無双ぶりは、駿河の武将である元長も風の噂で何度となく聞いたことがあるからだ。


 造酒丞の祖父・岸蔵坊は足利将軍に拝謁を許されるほどの武功を上げた猛者だったというが、孫である彼もまた尾張国きっての勇将であるという。


 造酒丞の武名は江戸時代の初めごろまでは人々に語り継がれていたようで、


 ――天文・永禄ノ間、織田家武勇ノ者、造酒佐(丞)ヲモツテ、ツイデトスト云コトナシ。


 と、『武家ぶけ事紀じき』(江戸時代初期に山鹿やまが素行そこうが記した書物)にもある。天文年間(一五三二~一五五五)から永禄年間(一五五八~一五七〇)にかけて、織田家において造酒丞の右に出る武勇の者はいなかった、ということだ。


 そんな造酒丞が信秀にぴったりとついて守っているのならば、信秀の首狙いで群がってきた今川の将兵たちをはえでも叩き殺すようにほふることなど造作もなかったのである。


「この織田造酒丞信房(のぶふさ)がいるかぎりは、信秀様には指一本触れせぬ。者共、殿に近づく輩はことごとく討ち果たせ!」


 造酒丞はまなじりの深い鳳眼ほうがんをクワッと光らせ、馬上で槍を縦横無尽に振るう。


 彼の一颯いっさつの刃が、敵将の命を天へと還らせる大風を巻き起こし、血の雨を降らせる大雲を呼び起こしていく。造酒丞の槍が届く範囲に接近した武者で、数秒以内に絶命しない者など一人もいなかった。


 彼が鍛え上げた騎馬兵たちも強者つわものぞろいである。信秀の四方を堅く守り、今川兵たちを蹴散らしていっている。両軍が激突してさほど時間が経たぬ間に、今川方の名のある武士がすでに何人も戦死していた。


 一騎当千どころの騒ぎではない。これはいにしえの関羽・張飛に匹敵する万人敵ばんにんてきの武勇である。


(し……しまった。これは信秀の作戦だったのか。大将自らがおとりになり、今川方の侍が殺到したところで最初槍の勇者に皆殺しにさせる……。自軍に造酒丞のごとき猛者がいなければできぬ型破りな戦法だ)


 今さらになって信秀の思惑に気づき、朝比奈元長は歯噛みして悔しがった。


 三河武士の壊滅によって動揺していた兵の士気が、もはや回復が難しいほどまでに低下してしまっている。造酒丞と目が合っただけで武器を捨てて逃げる者が続出していた。


「ワッハッハッ! どうだ、朝比奈元長! これが織田軍の切り札、造酒丞の武勇だ!」


 朝比奈隊の第一陣、第二陣が突き崩され、信秀の高笑いが間近にまで迫っている。織田軍最終兵器・造酒丞の殺傷可能範囲に元長が入るのは目前だった。しかも、織田信光・内藤勝介・山口教継ら猛将たちの部隊も攻撃に加わり、今川方の劣勢は決定的と言っていい状況である。


 元長が領地から引き連れて来た郎党たちは主人を守るべく必死に戦っているが、臨時雇用パート・アルバイトの兵士は完全に戦意喪失している。朝比奈隊三千はだんだんと後退し始めていた。


「に……逃げるな! 後続部隊が駆けつけるまで何とか持ちこたえるのだ!」


 元長はそうわめいたが、一度始まった兵たちの遁走とんそうは止められない。金で雇った大軍勢は、味方が優勢な時は向かう所敵無しの強さを誇るが、いったん旗色が悪くなるとたちまち大将を見捨てて逃散してしまうものだ。この臨時雇用パート・アルバイトの兵士たちの運用の難しさを今川軍の武将たちは今回の合戦で初めて痛感することになったのであった。


 織田軍四千は朝比奈隊を押しに押し、ようやく駆けつけた今川軍の後続部隊三千とも交戦状態に入った。

 しかし、後続部隊は逃げて来る朝比奈隊の兵たちに進軍を邪魔されてしまい、満足に戦うこともできない。朝比奈隊もろともあっ気なく撃破され、小豆坂方面に押し戻されてしまった。


 かくして、両軍の戦いは小豆坂へと舞台を再び移したのである。

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